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映画は映画を知っている

先日『EUフィルムデーズ2021』にて、『ブニュエルと亀甲のラビリンス』を国立映画アーカイブに見に行ってきました。このアニメーション映画の舞台は1930年、監督のルイス・ブニュエルがパリでの映画製作に失敗し、再起を図るためにメキシコでのドキュメンタリー制作を試みるが…、というお話です。

私の執筆予定作品がこの作品と同時代であり且つ同じ映画製作の話なので、これは是非観なければと思い行ってきました。非常に興味深い作品でした。面白かったのは間違いないのです。そして色々と考えることの多い内容でした。私の次回作にもつながる内容なので、もう少し突っ込んで考えてみることが必要だと思い、ここで少しまとめてみた次第です。

~~~以下、色々な映画について話します、ネタバレとかもあります~~~

私が最も好きな映画のジャンルの一つに、バックステージものというジャンルがあります。いわゆる劇中劇と呼ばれる物語技法の映画版で、例えば小説ではシェイクスピアの『ハムレット』やチェーホフの『カモメ』が有名です。物語の中で劇のシーンがあるようなものをそう呼びます。詩について書かれた詩、絵画の中に絵が描かれている画中画なども同じ構造です。作品が入れ子構造になっていて、表現それ自体(小説や舞台や映画や絵画等…)を表す時によく用いられる技法です。

私は、夢の中で今自分は夢を見ている、と気が付くことがあります。その時の感覚、忘れていたものを急に思い出してしまったような、天地がグルっとひっくり返り世界が一瞬分からなくなってしまうような、自分という人間の意味が分かったような、不可思議な感じ。

このような感覚に近いものを劇中劇を観ている時にも感じることがあります。自分という人間の不確かさや世界の不確定さ。思春期の頃から今に至るまで何故かそういったものばかりに囚われていた私は、自らのアイデンティティーや、そもそもアイデンティティーとはなんぞや、といったようなテーマ。それらを孕んだ物語である劇中劇作品の沼に、気が付くと私は、抜けられないくらいにはまり込んでいました。

今回見た『ブニュエルと亀甲のラビリンス』もそういったです。それもかなり毛色の変わったものでした。

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ルイス・ブニュエルはパリで画家のサルバドール・ダリと共にシュールレアリスムの映像作家として台頭します。しかし作品が冒涜的な内容だと右翼からの批判にあいブニュエルはパリの映画界を追放され、友人を頼ってスペインの貧民街を舞台にドキュメンタリーを撮ります。しかしこの作品もファシズムが台頭するスペインでは上映禁止となってしまいます。

これはアニメーション映画なのでアニメで世界が表現されているにもかかわらず、作中の映画館のスクリーンに映っている映像は当時のそのままの実写のモノクロ映像で、物語の中でブニュエル達がドキュメンタリー映画を撮ろうとして登場人物たちにカメラを向けると、そこに映し出されるものも1930年当時にブニュエル達が撮った映画『糧なき土地』のフッテージがアニメーションの世界の中にそのままの形で挿入されています。

この作品の優れているところはここにあります。私にとってアニメーションとして抽象化された100年前のスペインは途方もない異世界です。しかしアニメのキャラクターである主人公のブニュエルが対象にカメラを向けるとそこに写るのは実際の、スペインの貧困街の景色、貧しい人々、やせた動物たちです。この瞬間私は見てはいけないものを見たような気持でした。夢の中の世界に何の前触れもなくシリアスな現実が現れてしまったのです。

アニメの世界の形をして表される貧困街やその中の人々と、現実の映像のそれらの落差は恐ろしいほどの距離感です。一方でアニメで表現される彼らは、私たちと同じように身近で素朴でした。遠い国の昔のお話である彼らの生活が、隣人のように身近に感じる瞬間(アニメ)と果てしなく遠い瞬間(実写)とが物語の中で共存しており、その行き来のスリリングさに背筋がぞくぞくする、そういう映画体験はめったに味わえるものではないと思います。

と共に、映画というものの持つ本質的な残酷さがこの映画の面白さを担保しています。その残酷さとは何か。それは、映画は嘘っぱちだということです。

絵や文をもって本当のことを表現することは容易いことではありませんし、本当はカメラを用いてもそれは同じことです。しかし写真はそのままの姿を捉えることが容易で、それが簡単に真実であると思わせてしまう力があります。今となってはスマホ一つで写真や映像は撮り放題です。しかし、その力はとても強力です。それは引き金一つ引くと人を簡単に殺してしまう銃のようなものなのです。

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映画(劇)をテーマにした映画は洋の東西、古今を問わず無数にあります。映画を撮る以上、作り手にとって映画とは何かというテーマは大きな問題なのです。バックステージものの映画を大きく分類すると3つに分けられるように思います。

1 映画とは夢であり、儚くも美しい

2 映画とは嘘であり、醜く残酷

3 映画とは狂気であり、暴力的で混乱している

1は『蒲田行進曲』『カイロの紫のバラ』 『雨に唄えば』『アメリカの夜』『キートンの探偵学入門』…

2は『ベリッシマ』『有名になる方法教えます』『映画女優』『羅生門』…

3は『8 2/1』『ホワイトハンターブラックハート』『ゲット・ショーティー』『イナゴの日』

1は観客の目線。2は演技者の目線。3は監督の目線。と、無理やり言い換えることも出来るかもしれません。その物語の主体がどこにあるかでこのテーマの現れ方は変わってきます。実際は単純に3つに分割できるわけでもなく、これらの要素や比重が各作品ごとの濃度で存在している、といった方が正しいようにも思います。

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カメラによって撮る撮られるという関係はかなり一方行的で、その力が強者から弱者に向けて行われることは、多くの問題を孕んでいます。先ごろ特に盛んに議論されるようになった文化盗用などの諸問題もそれに当たります。そしてこれは、それよりさらに前の帝国主義時代の支配関係に端を発する問題だと思います。そもそも日本においても映画が広く人口に膾炙した一つの要因は戦争にありました。第一次大戦の記録映画が国民に広く観られたことが、本邦の映画(活動写真)の発展に寄与していることからもそれがわかると思います。

先述した作品名の中に一つだけ劇中劇映画ではないものがあります。『羅生門』です。この映画は芥川龍之介の小説『羅生門』と『藪の中』をミックスして黒澤明が監督しました。日本で初めて海外の映画祭で賞を撮った作品としても有名です。

この作品を何故、劇中劇と定義したかというと、物語の中で、ある殺人事件の犯人として捕らえられた下手人たちが代官の前で彼こそが犯人だと当時の状況を語る、という構造が劇における演者と観客の関係と相似形だからです。と同時に、何故こんなことを思ったかというと、先日クリント・イーストウッド監督『ホワイトハンター・ブラックハート』を観た時に『羅生門』のことを思い出したからです。

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『ホワイトハンター・ブラックハート』はイーストウッド監督が翌年に撮った名作『許されざる者』と連続した贖罪というテーマを持っている作品でした。この映画は『アフリカの女王』という1951年にジョン・ヒューストン監督によって撮られた実際の作品の撮影期間をモデルにした作品です。

イーストウッドは傲岸不遜な大監督のジョンを演じます。物語冒頭、監督のジョンとその相棒の若手脚本家のピートは議論をします。物語の落ちの部分をハッピーエンドにするのではなく、ヒロインと主人公が共に死ぬというバッドエンドに変えろというジョンの怒りに対し、ピートは、人間には良心があり未来があるはずで、それを表現するためにもハッピーエンドであるべきだと主張します。しかしジョンは、客や出資者の顔色をうかがって映画作りをするつもりはない、とピートの案を却下してしまいます。

彼は誰の言うことも聞きません。プロデューサーや出資者の反対を押し切りオールアフリカロケを敢行します。にもかかわらず、サバンナの王と呼ばれる幻のアフリカゾウをハンティングすることに囚われてしまい映画を放り出す始末です。彼は最後ハンティングの失敗で仲間を殺してしまい、身も心もサバンナの大自然に打ち負け、ようやく撮影を開始します。

ジョンは撮影の始まる前にピートにこう言います。私の考えは間違っていた…シナリオの最後は君の案でいこう…。そして、とても弱々しく…アクション…という言葉を発し、そのままこの映画は終わります。この映画の落ちにかかわる部分に私は『羅生門』を感じたのです。芥川龍之介の『羅生門』の最後の一節はとても有名です。

下人の行方は誰も知らない。

この物語をこう締めくくることで、乱世で荒廃した羅城門の世紀末的なムードを色濃く伝えます。しかし映画『羅生門』で黒澤明は最後のシーンに変更を加えます。人々の殺しを目撃しその救いのなさに辟易とした事件の参考人は、羅城門で偶然会った旅の坊主にその話をし終えます。その刹那、門の裏にうち捨てられた赤子が泣き出します。参考人は、よろよろとその赤子を抱え

自分の家には子供が多い、一人育てるのも二人育てるのも一緒だ

と言い、雨上がりの街に消えていきます。末法の世に最後の希望を見たという顔で、旅の坊主は参考人を見送ります。肥大したエゴを打ち砕かれ、己の卑小さを知り、しかし人間はそれでも生きねばなりません。イーストウッドも黒澤明も、最後にそのことを物語りたかったのだと思います。

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銃のような力を持ってしまった世界の人たちは、それを使わずにはいられません。その銃を最終的に誰に向けるかは、その人間の持つ運命が握ります。

映画を銃とするならば、銃口は誰に向けられるのか。映画を撮るのは監督や会社の意向です。その矛盾の中で戦い続ける映画人が、自らのことをどのように物語にしているか、そういう目線でバックステージものを観るとまた違った味わい方が出来るような気がします。





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