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【熟考】常識を考える
「常識」とはなんだろう。
マナーとか、挨拶とか色々あるが、それが「できない」人間のことを考えたことがあるだろうか。実は私はこれを永遠のテーマというか、もっと全員が熟考すべきことではないのかと思っている。ちらほら書いてはいるが、ここに全部まとめよう。
誰かが挨拶やマナーのどれかひとつができなかったときに、「お里が知れている」「人間ではない」など、その人の生育環境から人格を否定していく言葉を平気で投げかけるのをとてもよく見る。そういう人は無視して良かったり、縁を切ったりしていい人間であると。
とてもじゃないが私はそんなことは言えない。
それらを身につけることができるのが「運」であり、身につけることができたとしても、大半がその行為の理由を述べることができることができないのを知っているからだ。
何でだめなのか?
厳しいご家庭で育てられたりした方は、「当たり前だ」「これができないと駄目なのだ」と言われたりしてきたと思うのだが、ではなぜ駄目なのだろう。
私はこれに関して2つの理由があると考えている。ひとつは「挨拶やマナーが、容易に相手に対して敵意がないことを伝えるための手段として発展したものである」ということと、「マナーは、一番向いている道具の使い方」ということである。
挨拶は割と世界中であるもので、その大体の語源が相手の今日の幸せを願ったり、今日はいい日だよなと確認するものだったりするわけである。これを確認しあえる間柄というものは、大体敵ではない。自分に敵意や害を及ぼす人間とは極力話をしたくないものなので、「今日も敵意はないですよ」と相手に対して示すものに違いないと思う。あらぬ誤解や危機回避の文化であろう。
食事のマナーに関してもそうだ。食事の場というのは古今東西、比較的容易に人を殺せる場である。西洋料理のマナーにて「手を机の下に隠してはならない」というのはその真骨頂で、武器や毒を隠しもったりしていないですよという意思表示の意味もあるという。「敵意がない」という意思を見せるのが、相手にも自分にも、危機回避の手段となっているのだろう。
・道具をうまく使う
主に食事のマナーに関してなのだが、お箸やお椀にはルールが多すぎる。そのルールはどうしてあるのかここで考える。私は、これらは「道具を体に負担なく使う」ということに尽きると思っている。
☆背筋をのばしましょう→消化に悪い
☆お箸の持ち方→あの持ち方が一番掴む、切る、食べるということに向いている、落としにくい
☆お椀はちゃんと持つ→消化にいい姿勢でものを食べられるし、落とさない一番の方法
というふうにである。
ちなみに隣の韓国では、器を持って食事をするのはルール違反であるらしい。なぜなら器が鉄でできているからである。他にも理由はあると思うが、一番その土地に合った道具の使い方なのであろう。
・偽マナー
上記の理由から私は「偽マナー」が死ぬほど嫌いである。
例えば「縁が切れないように、お酌は注ぎ口の裏から」なんてやり方は愚の骨頂であると言わざるを得ない。あれは注ぎ口があるのだから注ぎ口から注ぐに決まっているのだ。注ぎ口の裏から使うのは発明者に対しての大いなる侮辱であるので、信じていた人間は改めてほしいものである。調べたらやはりSNSから広がったデマのようなので、これを広めるマナー講師は引退してどうぞ。
少し前に「慶事にお茶を贈るのは不吉」とテレビ番組が報じて、お茶の製造元が抗議の声を上げたことが話題になったこともある。偽マナーは産業や関わる人を大いに傷つけるので本当にやめてほしい。「知らなかったマナー」に関して疑いをもっと持つべきであろう。
・「身につけられなかった人」というのは
ではこの上記の常識やマナーに関して、「身につけられなかった人」というのはどのような人なのだろうか。考えたことはあるか。
この要因の一部として考えられることが、「幼少期に何らかの理由で親や学校に、これらの文化を与えられる事がなかった」ことにあると考える。
具体的に述べると、
家庭内暴力、ひきこもり、学校でのいじめ、ネグレクト、及び貧困により家に親がいない(仕事で)、大人と食事をしない などの理由があると思う。
もちろんこれらのことがあっても、どこかで技術を拾えた人もいるとは思う。寧ろ、半ば必要以上に厳しく叩き込まれてしまった人もいるのではないだろうか。
そのような人は、人に対しても異常なまでの厳しさを持つ傾向があるように思うし、頭ごなしに正しいとされることをする。その行為の発端に関して考える余裕も持たないために、人に対する押しつけや、自分が神になったかの如く人を品定めし、選民行為を行う。これも「正しく身に着けた」とは言えない。
わたしも何度か述べている、「文化資本」という考えに繋がるのだが、ようは「目に見えない財産は家庭環境で受け継がれてしまう」というものがある。マナーや常識もこれに当然当てはまり、余裕のない家庭の子供はそもそもそれを知ることも、必要性も感じる場面もないまま大人になることが多い。本人の努力の外で価値形成がなされていくので、いきなり頭ごなしに必要であると言われても、一見不合理に思えるし、わからない(生育環境が大変だった人はしばしば、高度な社会的技術に目を向ける思考回路にないことがある)。
なので「育ちが悪い」という表現は、あながち間違ってはいないが、それは同時に社会階層により知る機会がなかった、とも表すことができるのだ。
・疾患、疾病による可能性
これもよくあるのだが、精神疾患による理由である。彼らは挨拶をすることにも凄くエネルギーを要する。仕事をする上で人が怖いとか、何か思い詰めていて前からくる人に気づかないとか、色々あるだろう。そんな人を見たらどうか話を聴いてあげてほしい。必要であればヘルプマークの受取や、適切な機関へ行くように指示するのもよい。その人を救えるのは働けているいまのうちである。
・どうしてこのような思考に
私がこのような思考になったのは何を隠そう、私自身が「育ちが悪いから」である。
借金まみれのスラム街に住む、あんまり親が仕事で家にいない家庭に生まれたら、それはそれは生きるのに必死で、マナーとか挨拶とか、正直意味がわからなかったのだ。私の中では生命維持に必要ないことは「へんなもの」であった。
人と会えば何か要件を話せばいいし、飯は食えればそれでいい。それ以上もそれ以下もなかった。「へんなもの」は無駄でしかなかった。
ただひとつだけ、父が私に、お箸とお椀の使い方のみ説明してくれたことがあった。こうすれば使いやすいということだけを教えてくれていた。それだけは納得していた。
高校に入って、授業でのマナー講習でマナーや常識の成り立ちから教えてもらい、「父の言ってたことが割と本質を食っていた」ということと、「マナーは敵意がないことのあらわれ」と理解した。
家庭内や学校で敵意を向けたり向けられたりすることが割と多かったので、そろそろ人と仲良くなりたいと思っていた私は、一生懸命身に着けた。
そしてその中で「偽マナー」に出会っていくわけである。
・まとめ
人間、理由を理解できないと動けないものである。 誰かのマナー違反で怒っているあなた方は本当に運がいい。あなた方は「持つ者」である。なので「持たざる者」にどうかそれを分け与えてくれないだろうか。
その財産を分けた瞬間に、それを受け取ってくれる人は少ないだろうけれど、いつかきっと、ロジックをわかって受け取ってくれる日が来る。その「受け取れた人」が、また他の人にそれを分け与えるのだ。
そうすることが、誰かを救うと私は信じている。
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