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【連載小説】企業のお医者さん 第1話 #創作大賞2024

 あらすじ
 福島県の中心に位置する郡山市。明治以降に急速に発展したこの都市は2024年に市制施行100周年を迎えた。

 現代では「農商工のバランスがとれた都市」「経済県都」とも称されるが、この都市を耕し基盤を構築したのは教科書にも市史にも載らない「名も無き偉人たち」である。

 一人の男の半生をここに書き残し、皆さんにお伝えしたい。
 
 自分の生に絶望し何度も夢を諦める寸前まで追いつめられながら、足掻き続け、藻掻き続けた男が「企業の医者」になるまでの物語。

 公認会計士という資格を初期に取得し、企業の裏方、企業の医者として経済の成長を支え続けた彼が居なければ、郡山市の繁栄は存在していない。
(あらすじ おわり)

プロローグ

 特に理由は無い。ただ時間と金に少し余裕があったから「終点を見てみたい」と感じた心に従い、東北本線の汽車に乗っただけのことだった。
 時は明治20年3月、島田新之助が23歳のことである。

 気象学者のエドワード・ローレンツによる
「蝶がはばたく程度の非常に小さな撹乱でも遠くの場所の気象に影響を与えるか」
という問い掛けから始まる話は「バタフライ・エフェクト」と称されている。あくまでも寓話的な話であるが、ある男の人生を考える時にこの言葉を意識せざるを得ない。

 偶々、島田と隣り合わせの席に、終点となる郡山市の商家の山口が座った。終点郡山駅までの8時間を共にした2人は意気投合し、島田は郡山駅で降りると山口の家に宿泊した。もともと島田は終点からとんぼ帰りするつもりだったが、疲れから山口の好意に甘えることにしたのである。

 医師として就職先を探していた島田に対し、山口は郡山市での開業を勧め、初期費用を負担しても良いと持ちかけた。島田の人柄に惚れ込んだ部分もあるだろう、また商人としての目利きの力が島田の潜在的な能力を見極めたのかもしれない。
 島田は、山口の言葉に乗せられるように、東京と郡山を何度か往復し開業の準備を進め、明治20年8月山口家の敷地内で「島田医院」を開業した。
 後に郡山市を代表する「保健・医療・福祉の法人グループ」に成長する順泉堂総合病院の事始めとして伝えられている話である。

 そして、蝶の羽ばたきのように、この出来事が「企業の医者」を目指し実現した男の物語に影響を与えることになった。

1 末子
『オレハ ナガイキガ デキナイダロウ』
 物心ついた時から山部久志の心に、いつも影のように離れない暗い意識がある。漠然とした将来への不安、はっきりとした理由はわからないが、その意識は一日も離れることはなかった。

 体が弱く、ことあるごとに熱を出していたせいかもしれない。1歳半で父を亡くしたことが要因の一つかもしれない。5人兄姉の末っ子として、兄姉たちから可愛がられ、何かと守られる立場が多いことも、自分は生きる力が弱いと感じた背景にあったかもしれない。
 さらに、久志が生まれた時から、日本という国が戦争の影に覆われていたかもしれない。昭和6年10月30日、久志は福島県郡山市、郡山駅からほど近い清水台の借家で生まれたが、同年の9月に発生した満州事変を皮切りに、迷走しながらも着々と日本は戦争への道を進んでいった。
 幼き時から死への恐怖を感じながらも、その不安というものは、口にしては駄目だとも久志は感じていた。

 後に郡山経済の中心地となる清水台も、この頃は周囲に大きな目立つ建物もなく、明治初期に行われた安積開拓による入植者が、寄り添うにして住む集落が点在している状況だった。久志の父は入植者ではなく、東京で職業軍人を退役後、指物大工として商いを起こすために郡山に移住してきた。新しく、都市としての成長が期待できる郡山市に居を構えたという経過があった。
 しかし、父は夢半ばにして天に召され、小さな住宅には母であるトキ子と久志を含む5人兄弟の6人が残された。突然伴侶を失ったトキ子の失意はどれほどのものであったか、現代の者が想像することは難しい。しかし母は強かった。周囲には再婚を勧める者もいたが頑なに断り
「子どもたちは、自分の手で育てあげる」
悲壮ともとれる決意のもと、設立されたばかりの「安積産婆看護婦学校」の門を叩いた。

 平成や令和の時代以上に女性が自立した生活を送ることは難しい時代である。まして5人の子どもを養うということは、ありえないと誰もが考えた。
 しかしトキ子は時代の先を見ていた。それは亡夫の言葉でもあった。
「今の郡山は小さな町だけど、開拓した土地があり水があり電気がある。これからは大きく発展して人が増えるはずだ。そうなりゃ家具を必要とする人も増えるはず。ここなら先々の暮らしの心配は無いぜ。城下町みたいな家柄とか、しがらみが少ないのもいい。変な邪魔は入らないだろうからな」
 トキ子が亡夫の笑顔とともに思い出す言葉だった。
 女の自分には、家具職人のように男性と張り合う商売で生活していくのは無理なこと。だけど女だからできる仕事なら稼げる、子どもたちを食べさせていけるかもしれない。
 この街が大きくなり、人が増えるのであれば生まれる子どもが増えるだろう。ならば産婆が足りなくなる。資格が無ければできない仕事だから産婆の資格を取ろう。
 と考えたのである。

 清水台の自宅近くに「安積産婆看護婦学校」が開校していたことも、トキ子の考えを後押しした。若い子に交じり、子育てをしながらする勉強は楽しいとは言えないものだったが、トキ子は子どもが寝た後にも勉強を重ね、苦労しながらも産婆の資格を習得し、稼ぐ道、生きる術を確保した。
 一般的には資格を取得したとしてもすぐに客が付くものではないが、郡山という街の発展ともに産婆の需要は高まり、女一人で子育てをするトキ子への周囲からの支援もあり、産婆の仕事は予想以上に順風となった。
 もちろんトキ子の覚悟や姿勢が人を惹きつけたことも大きい。声がかかれば、いつでもどこでも妊婦の元に駆け付けた。
 何よりも5人の出産経験がある。母子の状態、特に母親の心身の具合を的確に把握する洞察力に秀でていたことから、大きな信頼が集まり多くの依頼が来た。依頼が来ることで経験値が上がり、腕も上がり産婆としての評価は高まる一方だった。

 もっとも、子どもたちが寂しい思いをしていたことをもどかしく感じることも否定できなかった。食べていくためには仕方が無い、と思いながら産婆の仕事には夜も休日も関係ない。産気づいた時はもとより、妊婦に何か異変があれば、時間に関係なく呼ばれる仕事である。
 トキ子は何度も後ろ髪を引かれる思いをしながら、子どもたちを家に残し、命を守るために奔走した。何を差し置いても妊婦の元に駆けつけ、母子の命を守ることに力を尽くした。

 家に残された子供たちは、長兄長姉を中心に助け合い支え合いながら、お互いを育み合うようにして成長した。
 少し歯車が狂えば、人道を外れて進んでもおかしくないような家庭環境だったが、山部家の子供たちはでき過ぎなくらい健全に育った。父がいないことが良い方向に作用し、母子がお互いを守ろうとする強い絆を生み出したのかもしれない。

 昭和10年、久志が4歳になる年に行われた国勢調査で、郡山市の人口は5万4千人を越え、県内市町村で人口が1位となった。この前後には市役所、学校、消防署などの社会基盤が着々と整備され、都市としての発展を続けた。

 末子である久志は、基本的には家族の中で「守られる」ことが多かったが、久志としても家族を守る意識を強く持っていた。特に母を守ろうとする気持ちの強さは、久志を勉強へと向かわせた。
「自分が勉強をできないせいで、母の評判を落としたくない。父無し児が駄目だと思われたくない」
 兄姉が多いので、着物がお下がりばかりなのは切なかったが、本のお下がりが多いことは有難かった。兄姉も家事の手が空いた者は久志の勉強をみた。体が弱く外で遊ぶことが苦手な久志は、子どもの頃から本を友とする生活をしていた。

 このような経験が功を奏し、郡山第二尋常小学校に入学した時には、周囲の子どもより格段に読み書き算盤に長けており、一年生で級長に選ばれると六年まで級長を続けることになった。
 もちろん級長に選ばれ続けたのは、勉強だけなく久志の穏やかで公平な性格が級友たちに認められていたからでもある。子どもの社会でも社会性や人格を必要とされる。勉強ができるだけで、級長に選ばれることが無いのは今も昔も変わらないものである。
(第1話 おわり)

第2話はこちらです。全10話を予定しています。

第3話はこちらです。

第4話はこちらです。

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第6話はこちらです。

第7話はこちらです。

第8話はこちらです。

第9話はこちらです。

第10話(最終回)はこちらです。


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