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【連載小説】企業のお医者さん 第3話 #創作大賞2024

3 闘病
 昭和26年 東北大学工学部に進学した久志は、戦後復興に向かう仙台市の発展を見て驚いた。郡山の発展も急進的で活気あるものと感じていたが、仙台市は桁違いの様相を見せていた。
(このまま仙台で暮らすのも悪くないかもしれない)
そう思わせる魅力があった。
  順調に単位を取得し卒業後の進路として医師以外の道を本格的に考え始めた大学二年の冬、久志は肺結核を発症した。

『コノトキガ キタ』
死を覚悟した。

 母や兄姉に申し訳ないという気持ちが込み上げてきたが、ようやく楽になれるという気持ちが心の片隅にあり、周囲の慌ただしい気持ちとは一線を引いたように穏やかな気持ちで過ごすことができた。

 この時代の肺結核は効果的な治療薬が無く「不治の病」とされていた。昭和10年から昭和25年までは日本人の死亡原因の1位であり、年間死亡者数が10万人を越える年もあった。特に青年期の死亡率が極めて高かった。
 最初の抗結核薬としてストレプトマイシンが日本での製造が許されたのは昭和24年だったが、化学療法が治療の主流となったのは昭和30年代半ばになってからである。歴史に「若し」は無いと言われるが、発症がもう少しだけ遅ければ久志の人生は全く異なったものになったことは想像に難くない。

 久志は大学を休学し失意のどん底で郡山に戻った。順泉堂総合病院の隔離病棟で過ごすためである。現代の医学からすれば、隔離・静養というのは治療行為とも言えないような処置であるが、当時の結核患者に対しては寛解・治癒に至る治療法が確立されてないため、感染拡大を防ぐとともに安静にしながら栄養を摂り患者の治癒力に期待することが主流だった。

 大きな挫折と絶望に包まれた久志だが、この入院により人生の転機を迎えることになった。主治医となった鈴木が久志の心に大きな影響を与えた。
 日々死と絶望と向き合う久志に対し、地元出身ながら関西の大学を卒業したという鈴木医師は可笑しな関西弁を使いながら、冗談とも励ましとも言えないような回診を続けた。
「そんな時化た顔してたらますます具合悪ぅなるで。嘘でええんやから笑顔、笑顔」
「ワイが病気を治すんや無い。治すのは久ちゃんや。病名は一つやけど体は皆、違うんやで。久ちゃんの体の治療法は、久ちゃんの体に聞かんとわからんは」
「久ちゃんが病気を治そうと思えば治るもんや。ワイには医学の知識はある。せやけど知識だけでは駄目なんよ。久ちゃんと一緒に知恵を出して、行動しないと治るもんも治らんのや」
「死ぬことに怯えんなや。それよりも生きて何をしたいかを考えんとあかんでぇ」
 冗談とも本気ともわからない捉えどころがない言葉を発しながら、鈴木は治療を継続したが病状は改善せず、飼い殺しのような安静の日々が続き「家族に迷惑をかけている」という久志の罪悪感は大きくなる一方だった。

 闘病生活が一年を超えた昭和29年3月、久志は意を決し鈴木に尋ねた。
「胸郭成形術という治療法があると聞きました。それを受けることは可能でしょうか」
普段は陽気な鈴木の顔が曇った。
「手術をすることはできる。せやけどリスクが高いんや。結核が確実に治癒する保障はない、博打みたいなもんやで。結核が治らんでも肋骨切除の傷は一生体に残る。呼吸が満足にできんようなるから体もよう動かん。良くて普通の人の5~6割の動きしかできへん体になるで」
「それでも治る可能性があるなら……手術を受けたいです。このままゆるゆると死を待つのは嫌です」
「人並みな仕事にはよう就けんで。リハビリも長くかかる一生もんや」
「体が6掛けで普通じゃなく勤め人が出来なくても、頭を10割以上働かせ資格を取得して、その道で食べていきます。僕の母は産婆の資格を取ることで一家6人の生活を支えました。母の子として自分で稼ぐ道を掴まえます」
「資格って弁護士とかか。いや久ちゃんは理系やから設計士とか」
「今度『公認会計士』という資格が新設されると雑誌で読みました。相当な難関資格になるようですが、そこに賭けようと思います」
 久志と鈴木が真剣な眼差しでお互いを見つめた。
「わー-った。久ちゃんが生きる道を選ぶんであれば応援したる。久ちゃんが『絶対に治す』と決めたんなら、結核にもリハビリにも勝てるはずや」
 鈴木はいつもの笑顔に戻り、久志の前に右こぶしを突き出した。久志も同じように右こぶしを上げてお互いの拳をコツンとぶつけた。
「絶対に治します。リハビリも乗り越えて見せます」
「せやな、頼むで。ワイもあんじょう面倒みたるわ」
 楽では無い道であることを知りながら、それでも久志は前に進むことを決意した。
(第3話 おわり)

第4話はこちらです。

第2話はこちらです。

第1話はこちらです。


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