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自分が「もてなされない」空間が持つ居心地の良さ

私は、遊園地が苦手だ。
人混みが嫌いだし、行列も嫌だ。そこの行くまでの渋滞も嫌だし、入場でもまた渋滞する。5分のアトラクションに乗るために2時間並ぶのは当たり前。食事でも並ぶ、トイレでもまた並ぶ。入り口でも出口でも、とにかくスムーズにいかない。
人気の飲食店のように、そこでしか食べられないから並ぶのならまだ理解できるが、美味しいからではなく、他に選択肢がないから並ぶのはたまらなく不毛だ。
8時間を遊園地で過ごしたとき、楽しい時間は1時間がせいぜいじゃないだろうか。並んでる間のおしゃべりも楽しい?なら雰囲気のいいカフェで座り心地のいい椅子に座って好きなだけ話せばいい。

これに対して、遊園地好きな方々が言いたいことは、なんとなく想像がつく。
遊園地の魅力はアトラクションだけじゃない。その場所そのもの、非日常に彩られた空間そのものを楽しむのだ、とか言うのだろう。
この指摘にはしかし、頷かざるをえない。遊園地に並べらられた「楽しい」記号たち。アトラクションだけではなく、イルミネーションはもとより、建物や道の造形もそうだ。遊園地の敷地外では、渋谷のハロウィンくらいでしか使いようがない衣装を身につけた来場者たちも、その記号の一つになって、他の来場者を楽しい気分にさせる。そんな魔法が、あの場所には掛けられている。

それはご指摘の通り。だが私が遊園地を苦手に思う理由はそこにもある。
魔法がかけられているはずの空間で、不意に訪れる日常の光景に気づいてしまうのだ。
それは、アトラクションとアトラクションをつなぐ細い通路や、正面に比べて煤けて見える建物の裏側や、レストランの影に並ぶプロパンガスのボンベ、どうしても隠せなかった設備用の配管類などだ。
手すりの影に這わせた電気ケーブルなどを見つけると、それが理想と現実の境界線のように見えてしまう。

これはなにも、遊園地サイドの怠慢を訴えたい訳ではない。
彼ら彼女らは、丁寧に丁寧に気を使い、私達を楽しませようとしてくれている。だからこそ、楽しげな顔で、楽しげな装飾を施し、音楽を奏で、時には悲鳴を聞かせたりして盛り上げようとしてくれる。そのおもてなしの心はしっかりと感じられる。
だからこそ、どうしても生まれるその隙間を感じ取ってしまう時、ふと現実に引き戻される気がする。その感覚が、一番苦手だ。


長男の強い希望で出かけた、富士山の麓にある有名テーマパークでそんなことを考えていた次の週末、近所でとても居心地のいい場所を見つけた。
それは、歩いて5分の場所にある、稲荷神社だ。
この神社は、初詣や子どもとの散歩でよく訪れる場所で、私の知る限り、御朱印が特徴的とか、絵馬が独特とか、アニメの聖地になったとか、お狐様がキュートとか、そんなことは一切ない、ごく平凡な神社だ。そんな住宅街の中にある神社は、お社と社務所と手水舎が建っていて、町内会のイベントとの時以外は、大勢の人が集まることもない、静かで落ち着いた場所だ。

初詣と餅つき大会以外では行列が出来ないこの神社で、もっとも居心地が良い場所は、お社の裏手にあった。
そこは、立ち入りが制限されてはいないが、そもそも人の出入りを想定された場所ではなさそうだ。お社の脇から入れるのだが、隣地との間に小さな土手があるため、一見は行き止まりに見える。しかし奥に入ると案外開けた空間になっていた。どうやら、お社に対して土手が少し斜めに続いているため、奥が広くなっていたのだ。奥に入ると、土手とお社とは3、4mほどの離れている。土手の上に植えられたくぬぎの木は低いところの枝はしっかり落とされていて、頭上をゆるく覆う。そんな樹勢によって、周辺から隔絶されず、かといって地続きでもない、ゆるく連続した空間ができていた。

そこに何があるのか、と言われれば、特筆するべきものはない。
お社に何か装飾されていたりしない。ご神木もない。つまりただの空き地だ。あえて用意されたスペースでも、一時的に空けている場所でもない、斜めの土地に四角いお社を建てたら「出来てしまった」タイプの空き地だ。
そんな土とくぬぎの木とでゆるく囲われたその内側には、彼らが作る木漏れ日が点々と落ちている。ゆるゆると形を変えるそのまだら模様は、葉のざわめきから想像するよりゆったり動いていて、頭上からは葉が擦れる音がど次々に降ってくるのに、体の周りの空気はのっそりと、どこか厳かに動く。
そんな、聴覚と視覚と触覚とが少しずつずれる感覚と初めての場所で、しかも不意打ちで貰った衝撃は、150㎞離れた遊園地で感じた非日常より、よほど非日常だった。

自宅から徒歩5分の場所にある、知っている場所と知っている場所の隙間にある、空白地帯。
お社の奥にそんな空間があったことにも驚いたが、一番驚いたのは、建物とその周辺が、正面と変わらずに手入れされていることだった。
地面は石畳や飛び石こそないものの、踏み固められた土が見えている細い道があり、雑草などは見当たらない。
お社も掃除されていて、建物の痛みなども感じられない。土台の石も掃除されているのであろう、苔なども付いていない。
そう、建物の裏手でよくみられる、正面との手のかけ方の違いからくる落差、「裏側感」が感じられなかった。それが、居心地の良さを生んでいた。

なぜ裏側にまで手をかけているのかは単純で、人間の為ではないからだし、正面を盛り上げよう、飾り立てようとする建物でもないからだろう。
掃き清めるのも、人間が居心地良くするためではなく、信仰が主で、その結果人の居心地も良くなっているのだ。
その労力は、私のためにかけられたものではない。人に対する「おもてなし」の精神などはそこにはないし、なくていい。
もてなされない空間は、はっきりと私には無関心で、それがたまらなく居心地が良いことを、この日初めて知った。

先日、娘と散歩がてら、この神社を訪れた。危ない所もないので好きに歩き回っていた彼女は、しばらくは手すりにつかまったり、絵馬を揺らしたりして遊んでいたが、不意にお気に入りの裏手に続く小径を進んでいった。
裏手の入り口に立った彼女は、ためらいなく裏手に進んでくと、どんぐりを見つけてニコニコしている。お気に入りの仲間が、一人増えた。

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