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未来の建設業を考える:建設論評「江戸を作り上げた土木」

歴史の謎はインフラで解ける教養としての歴史学(大石久和、藤井聡編)

 先般、土木学会(大石久和会長)の会長特別委員会「安寧の公共学懇談会(石田東生座長)」 が中心となり、「歴史の謎はインフラで解ける教養としての歴史学(大石久和、藤井聡編)」を 出版した。本書では、土木が社会や文化を作り上げる大きなパワーをもっていたことを、史実に基づき示している。土木の社会的役割の大きさを知る上で、貴重な本だ。

江戸は土木技術を大いに活用した都市

 ところで、本書でも指摘しているが、江戸は土木技術を大いに活用した都市であった。
 豊臣秀吉の命により、1590年家康が入城した頃の江戸は、鎌倉や小田原と異なり、港町の集落があるぐらいで、閑散とした湿地帯であった。江戸城から西はとても住めるような場所ではなかったようだ。ましてや、今のような世界的大都市東京の面影はなかった。
 そこで、湿地帯の江戸を住めるようにするため、家康が最初に実施した土木事業は、平川(現 在の平河)の流れを整理して支流を城の堀とし、低地での氾濫を止め上地を確保することだった。1606年には当時海であった日比谷の入り江を埋め上地を拡張した。また、当時の重要な経 済資源である塩を確保するため、小名木川、道三堀(今の江東区)を掘削し、「行徳の塩」を船 で江戸城まで運ぶ工事も行った。

江戸時代の 水道の総延長は152km

 さらに、「水」は市民生活に最も重要な資源だ。井ノ頭池(現在の井之頭公園)の水を引き込 むため、神田上水63kmを整備した。1653年には玉川上水も整備され、江戸の水道環境は相当 高いレベルとなった。当初、日野あたりで取水したところ、「水食らう土(関東ローム層)」に あたったり、福生に変更したら岩盤に阻まれたりするなど、2度の失敗を克服し、その後、羽村 から四谷大木戸を結ぶ43km、高低差92mの玉川上水となり、現在でも使われている。玉川上 水の水は、四谷、麹町はもちろん、増上寺、京橋、八丁堀、築地あたりまで潤した。江戸時代の 水道の総延長は152kmにもなる。
 江戸時代の水道は高低差を利用した自然流下式。地下埋設の水道管は、木樋は松や檜で作られており、水が漏れるのを防ぐために檜の皮を使い、大容量の水を扱う石樋は石と石の間に粘上がつめられた。江戸市中の辻々に水道桝(水道井戸)が設置され、いつでもきれいな水を確保できた。
 その後、土と水を制した江戸は、世界でも有数の都市として、260年強の繁栄につながる。

ローマ時代の繁栄を支えたのも土木のカ

 ところで、ローマ時代の繁栄を支えたのも土木のカ。当時のコンクリート技術は2千年後の今 でも強度を発揮するくらい優れた技術であった。また、コンクリートを用いた水道技術も、1キ 口当たり34cmという勾配で、総延長350kmもの水道を作り上げ、ローマ人は現代人の3倍も の水を消費できるくらい優れた水道整備を行っていた。

社会を構築する骨格の役割を果たす土木技術

 江戸時代も、ローマ時代も、すべての繁栄の基は土木技術にあったことは間違いない。現代の 土木技術者も、社会を構築する骨格の役割を担っていることを誇りに、今の仕事に取り組んでいきたいものだ。

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