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性の営みに見る世界の曖昧さ、あるいは豊かさ


世界各地には様々な恋愛のかたちがあり、人は例えば一夫一婦制だけに基づいて恋愛を経験しているわけではない。 また、性の営みに対する考え方も様々であり、「付き合う」 や「結婚する」や「買春・売春」とは文脈の異なるかたちでの性の営みも存在する。

21歳の頃、私はインドネシアの離島でフィールドワークをしていた。人口1000人に満たない、小さな島である。 その際、仲の良い現地の男友達から「俺の彼女と寝ないか?」と言われたことがあった。 最初この提案を聞いた時、「何言ってんだこいつ?」と私は思った。 すぐさま私は、なにかの民族誌で読んだイヌイットに関する記述を思い出した。それは「イヌイットの人々は客が家を訪れると、自分の妻をその客に一晩だけ自由にさせる」という記述だった。

どうせ、夢見がちでおっちょこちょいの人類学者が、自分の欲望を異国の他者に押し付けて、勘違いで行った報告だろう。あるいは、自分が関与した非合法的で買春的な行為をそうではないものとして美化することで自分を正当化した報告なのだろう。このように私は邪推し、そのような報告を全く鵜呑みにしていなかった。

しかし現に今、仲の良い友人が、自分の恋人を私にすすめている。 正直、これにはびっくりした。

当初、私は買春の誘いを受けているのだろうかと勘繰った。しかし友人は、返事をせずに黙っている私を見て、「俺の彼女は嫌いか?」と心配そうに尋ねる。

私は「そんなことない。そんなことない」と首をぶんぶん振る。この友人は、フィールドワークの当初から、意思疎通が上手くいかなくて怒鳴り合いの喧嘩をしたり、一緒に海に潜ってウニを獲ったりと、日本から突然来てインドネシア語の不自由な訳の分からない怪しい私と、本音で付き合ってくれたいい奴なので、私は友人を落胆させたくなかった。友人は若く、まだ18歳であったが、年齢が近いこともあり、かなり打ち解けた仲であった。

首をぶんぶん振る私を心配そうにしばらく見つめた後、友人は、我々のところへ彼女を呼び寄せた。そして、現地語で何か話している。しばらくして、振り返りつつ友人は「お前とならいいってよ」と私に笑顔で言う。

私は「ごめん。ありがとう。ごめん。」と、拙いインドネシア語で友人に答える。

「お前は、女が嫌いなのか?」

友人はなおも、心配そうに私に聞く。

「女は好きだよ」と私は答える。

「お前、ずっと一人で大変だろう?」

友人が、じれったさそうに、そして本当に心配そうな顔で私に聞く。

「女は好きなんだけど、、う~ん。ちょっと遠慮しておく」

私は「女は好き」と答えつつも、結局、友人の申し出を断った。

友人の恋人は、とてもスタイルが良くて美人だったのだけれど、フィールドワーク中だし、一応学生だし、第一「浮気」は悪いことだし、と私は躊躇してしまったのだった。

しかし次のように質問することを、私は忘れなかった。

友人の彼女を指差しながら、私は友人に、「彼女が私とセックスすると、悲しくならないのか?」と尋ねた。

友人は首を振る。

彼女も首を振る。

私が「ビサ?(=できるのか?)」とインドネシア語で彼らに問うと、友人はうんうんと頷き、「ビィーサー!(できるとも!)」と答えた。彼女はその様子を、少し笑っているような顔をして眺めている。

「お前は、女とやったことがあるのか?」と友人が聞いてくる。

「ある。初めての場合は、痛いが、後から気持ち良くなるよね」と、友人の彼女を見ながら、ちょっとふざけた調子で話すと、彼女は私の肩を、「何言ってんのよ」と言いたげに、照れ笑いしながら叩いた。中高生の頃、学校で異性の同級生に軽く叩かれた思い出が鮮やかに蘇る。異性に肩を叩かれると嬉しいのは何故だろう。

っていうか、お前ら一体何なんだー!!

一人ならまだしも、その島で私は、別の友人からも、同様の申し出を受けた。

もう、意味が分からない。

もしも今回のような提案をする者が一人だけであったなら、私はこの友人を変態とみなし、この事例をことさら取り上げることはなかったであろう。

しかし私は、仲の良いもう一人の別の友人からも、同様の誘いを受けたのである。

したがって、自分の友人に自分の恋人とのエッチをすすめるという行為は、この島の人間の間で共有されている、標準的な行動様式といえるのかもしれない。

友人達は、私のことを、次のように捉えていたのだと思う。

「あいつはずっと何ヶ月も一人でいる。調査ばっかりしていて、恋人もいなさそうだし、きっと毎日ムラムラしていて大変だろう。あいつは俺の友人だ。だから自分の恋人に頼んで、楽になってもらおう」

だとしたら、とてもありがたい話である。嫉妬とか浮気とか、そういう次元の話題から超越した、常人ならざる境地だ。しかしこのようなことを考えるお前らは、本当に悲しくはないのだろうか? ていうか、もしもそれで妊娠でもしたら、どうするのだろう?

知り合いのインドネシア研究者に「インドネシア語で浮気にあたる言葉はあるか?」と日本に帰国した後で聞いてみた。

 「インドネシア語に「berselingkuh」という、日本でいう「浮気」に該当する言葉があるけど、その島の言葉に、同じような言葉があるかどうかは分からない」

という返答が返ってきた。

もしかしたら、あの島では、「浮気」という行為が存在せず、彼等は、自分の恋人が他人とセックスをすることに、怒りを感じることはないのかもしれない。 いや、かもしれないではなく、きっとそうに違いない。

私は、自分の好きな人が他人とセックスをしていると悲しい。しかしこの感覚は、知らぬ間に周囲から押し付けられた価値観の産物なのではないか?

つまり、自分の「自然な感情」というものが、私には信じられなくなったのである。

他人と自分の恋人がセックスをしていると、私は悲しい。しかしこの悲しさは、「他人と自分の恋人がセックスをしていると悲しむべきである」という言説を、日本という地域で生活することによって、知らず知らずに私が自分の頭にインストールしてしまったからこそ、存在している感覚なのではないか?

恋愛や浮気に関して、私は上記のような疑問をもっている。

なぜなら、あの島の友人達は、その恋人達も含めて、自分の恋人が他人とセックスすることに、目くじら立てることは全然なさそうだったから。

私は、あの島での出来事以来、一夫一婦制に疑問を感じるようになった。世界はもっと自由で曖昧で奥深いものに思えた。

あの出来事は、決して悪いものではなかった。お腹が減っているだろうから、食べ物を分けてあげよう。お金がなさそうだから、少し貸してあげよう。そんな雰囲気でなされる親切の一つ、のような出来事だった。

上記の出来事から既に20年以上が経過している。あれは何だったのだろうか。今でもあの島ではこれが常識なのだろうか。

何はともあれ、自分とは異なる世界に生きる人間が実際にいて、今もそうやって生きているであろうことを、とても懐かしく、そして愉快に思う。

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