神様が本当にいる神社といない神社を知る必要がない理由

エネルギーがわかってくると、神様が本当にいるところと、いないところがはっきり区別できるようになってきます。友人にそう言うと、それじゃ、ここは?あそこは?と、どんどん、聞いてくるので、最初はそのまま、いる、いないと簡単に答えていたわけです。

実際に私と一緒に参拝すると、直ぐにわかるので、「あ、本当だ」と納得してくれるんですが、そのうち、

特定の神社の熱心な信者(ファン)のような人と出会って、うかつなことが言えなくなってしまったんですね。もちろん、そういう事は最初から予想していたので、人を選んで言っていたんですが、最初に話した人から伝聞で私の事を知ったと、現れたんです、その信者さんが。

そこで、あまり正直に言うとまずいなと思い、あくまで一般論でお話したんですね。神様がいるタイミングで神社に行くと、身体がリラックスするので、わかるんですと。ところが、その人は、それじゃこのお札はどうだ、御守りはどうだと、詰め寄ってくるので、

「私にとって有益かどうかしかわかりませんよ」

と、嘘ではない、ギリギリのところでなんとか、その場をやりすごしたことがありました。

そんなこんなで、特に神様不在の神社の名前は絶対に公には口にしないことにしました。

それなら、神様がちゃんといる神社なら言っても良いのでは?と思われるかもしれませんが、それもやっぱり、経験がありまして。言うと、行く人が出るんですね、実際に。それも結構、遠方まで、神社に行かれた方がいて。でも、何も感じないし、何も起こらなかったと言われるんですが、それはもう、当たり前の話でして。神様がいる神社というのは、そもそも、本来、神社は皆、そうでして、それが普通なんですね。いない方(何らかの理由で常時いないとか、そもそも最初からいないという意味)が神社としてはおかしいわけです。

そして、そういう意味の普通の神社に参拝すれば、そうそう、何か奇跡のようなことが起こるか?と言えば、そんなことはないのは、皆さん、ご存知だと思います。

そんなことがあったので、特にネットなどでは一切、言わないことにしました。それに、大切なことは、神社なら、神社に集う人達の意識なんです。神様がいる場所というのは、人間の良心が集まる場所です。それに便宜上、神様がいると表現していますが、本当は神様は神社にいるわけではありません。神社は神様のいる次元との窓口になっているだけです。しかし、神社に集う集合的な意識が神様の次元とあまりにもかけ離れてくると、窓は閉まってしまうのです。

各地に〇〇運がよくなるという売り込みが過剰な神社があります。歴史的に考えて、そんな〇〇運とは全く縁もゆかりもない神様が祀られているところなのに、勝手に、〇〇運の神社にしてしまっているところです。もちろん、もう窓は閉まっています。本来、神様(と地域住民)の為の神社が、経済発展、町おこしの道具にされているところが、いくつもあります。

そういうところは、特別な技能などなくても、直ぐに、神様不在なのがわかります。どうせ参拝に行くなら、そういうところは避けた方が賢明だと思います。

それでは、人間の良心とは何か?なんですが、自分以外の者の幸運を願う心のことです。

もう、これは法則なんです。人間は一人で生きていけませんし、一人で存在することも出来ません。お金があれば、何でも出来る世のなかのように思えますが、お金を運んでくる人は自分以外の人です。数珠繋ぎのように、人から人へとお金が伝搬してきて、自分の元に一定期間、とどまっているだけです。

自分の事だけを考える人ばかりだと、お金は流通しませんから、自分にも還ってきません。これはお金に限りません、社会に必要なもの全てに当てはまります。つまり、少しは他人のことを考えないと、社会全体が機能不全に陥ります。

これは神様の世界でも同じで、人間の良心が存在しないと、成立しなくなるんです。

つまり、究極は神様がいるか、いないかは、そんなに気にしなくて良いんです。いる、いないは結果論にすぎないからです。

良心を取り戻して参拝をする人が増えれば、そこに窓がまた、出来ます。

ならば、神様は戻ってこられるという事です。それに、今、窓が開いている神社に行ったとしても、そこで、良心がないなら、何も神様との縁が生まれないでしょう。

もちろん、今、食べるものがない人が他人のことを思えるわけがありません。少なくとも日本の神々はそんな極端なことは要求しません。

私は自分の余力で、他人を思いやる心が現実的な良心だと考えています。自分を犠牲にしてでも、他人を助けることはとても尊い事ですが、誰もが、同じように出来ませんし、犠牲になった人を今度は社会が面倒をみないといけなくなります。人は一人では存在すら出来ないのですから。

今年は100年に一度のパンデミックが起こった年です。もちろん、感染症の原因はウィルスです。でも、最初の感染者が出て、アウトブレイクからパンデミックと移行するには、人の行動が伴って、初めて起こることです。それはちょっとした、他人への思いやりがあるかどうかだと思います。マスク一つとっても、実は自分が感染しない効果よりも、他人を感染させない効果の方が大きいと言われています。

そして、それが結局は自分に返ってくるんです。

今年はこの感染症をなんとか終息させたい人がこぞって、年末年始に参拝すると思います。ぜひ、他人のことを余力で考えて、参拝なさって欲しいと思います。多くの人がそうすれば、神様とのパイプとなる窓が開いて、目に見えない支援が顕現してくると思います。余力で良いんです。そうすれば、自分の為のお願いは他人の為のお願いになりますし、その逆もそうです。

お腹いっぱい、ご飯が食べれたら、それ以上は望まず、お腹のすいた誰かに分ける。でも、自分は一切、食べずに他人にばかり与えたら、当然、衰弱して、病院に運ばれるなり、最後は行政のお世話になってしまいますし、何より、余力でも、継続することが出来なくなってしまいます。税金も納められませんから、公共の利益になることも出来ません。

余力で人の為をする。普段は自分ため8割、9割で良いんです。こういう意識が集まれば、どこでも、神様がいる場所となると私は思います。

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