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「正しさ」が言葉をさらっていく

母は「正しさ」で叱る人だった。「何でこんなことをするの?」「何が悪かったと思う?」と母から問われるたびに、幼い私は自分の行動の要因となったであろう、ふわふわとした「何か」を言葉にしたいともがいていた。

けれど、思春期を迎えたあたりからは、母が考える「正しさ」に合った解答を探すようになった。初めはきっと、母も私の言葉を待ってくれていたのだと思う。もともとは、自ら考えて行動する、ということを大事にしてくれる家庭だった気がする(彼女もそれを大切にしたいと口にしていた)。

転機となったのは母と父の離婚だったと思う。もともと忙しかった母がさらに忙しくなり、私が言葉を探す時間に付き合う余裕が消え、何か問題が発生した時には「私と生きるのか、否か」という決断をせまるようになった。

「母と生きない」。つまり、離婚した父親の元へ送られるというのは、当時の私にとって「死」に近いものだった。母と(離婚した父親の元についていかざるを得なかった)兄は、離婚前から父がいないところで彼の悪口で盛り上がっていた(私も同調していた)。

「あんな風になっちゃダメ」「あんなのは大人じゃない」人として父を否定する言葉が飛び交う中、私はそれが全て「正しい」と(勝手に)思い込んでいた。自分の頭で考えることを放棄して「あぁ、そうなんだな」と鵜呑みにし、生みの親を軽率に見下した。

振り返ってみると、私はその「正しい」が何をもって「正しい」ものとされているかの考えたことがなかった。それは私の行動理由においてもそうだし、周りに浮遊するさまざまな意見・現象においてもそうだ。自分がなぜそれをしたのか、しないのかを語ることが難しかった。

何が、どんな価値軸で周囲はそう動く・動かされているのか。多くのことを曖昧に放置したまま過ごしていたのだと思う。だからこそ、自分の「正」がはっきりしている母にとって、自分のことを言葉で語りきれない私は、意味のわからない生命体だったのかもしれない。

日々に疲れ切って離婚を決めた母のまわりには多くの「敵」がいた。世間体を気にしてどうにか娘(母)が考え直すよう、経済力を盾に半ば脅しながら説き伏せようとしてくる祖父母。田舎らしい旧態依然とした、狭苦しいコミュニティに染まった親戚たち。

母のまわりは酷い有様だった。だからこそ母は強くならなければいけなく、何を残して何を捨てるのか、その判断軸が着実に固まりつつあったのだと思う。それと同時に、周りの「正しさ」を理解することを諦めた。それらは彼女にとって、敵対するものでしかなかった。まさに、生きるか否かの世界だったのかもしれない。

話が若干逸れてしまったけれど、母の「正論」はあくまで母の「正論」だということを、私は知らなかった。その環境下で、母が生き延びていくために必要な「正しさ」。それは、母と一緒に暮らす私がもちろん尊重すべきことでもあったと思うが、別にその「正しさ」に染まる、もしくは全てに肯く必要はなかった。

母には母なりの、私には私なりの「真実」と「正しさ」があったはずだ。他者と自分の価値判断を混ぜこぜにしてしまうことで、自らの意思を見失い名状し難い何かが呼びかけてくる感覚だけが残っていた。

圧倒的な存在から落ちてくる「正しさ」というものが、時に私たちの言葉を奪う。自分の言葉で何があったのか、どんな人生を過ごしてきたのか、を語ることはいっとう大切なことなのではないかと、確信めいた気がした。

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