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はんとし、

経ってしまった。

社会人になって、今の会社に勤めるようになって。怖いことが増えた気がする。というか、自分の嫌な部分が目に見えて、だからこそ眩しい人たちであったりとか、だからこそ引き剥がしたい考えとかが明るみに出たのだと思う。だから怖いものが増えた。今まで押し込んでいたモヤモヤを引きずり出さないと、私が憧れるものにはなれないことを痛覚した。やめることはできない。

「人を上下に分けて見てるよね」と憧れすぎて畏怖すら感じている先輩から言われたドキッとした。あの人のこういうところが私より優れているから、私は曖昧なこと(これが好きとか、こういうことしたいとか)を発言しちゃいけないとか。確かに、すごく思う。上下をつける判断軸はわかりやすく己なのだと思う。自分は何かに打ち込むことから逃げて、色々つまみ食いする人生を過ごしてきたからこそ、劣等感に苛まれるように思う。

思えば、大学3年の頃。友人に、あの24時間開いてるファミレスで話を聞いてもらった時も似たような悩みを話していたではないか。「これ」と決められない。選んだものを「正解」にできない。だからこそ、自分の正解を見つけたんだと我武者羅に頑張れる人たちの横に立つことがいつまでも恥ずかしく思ってしまう。そんな自分に、「期待してるよ」とか「素敵だと思うよ」とか、「もっと知りたいよ」とまっすぐに見つめてくる眼が苦しい。

私って考えすぎなんだな、って笑い飛ばすことができなくなってしまった。なんなら、考えなさすぎる時と考えすぎな時を何度も行き来しているんだと思った。周りの顔色を窺って、どうにか自分が損しない方向に動いている、気持ち悪い自分が目につく。だから、誰かに悪感情を抱かれたのかもしれないと思うと懸命に嫌われないことを考えたりだとか、自分にどうしようもないと諦めたことをさっぱり頭から追い払う癖がついている。そんな風に過ごしてきたから、いつまで経っても踏ん切りがつかない。自分の良い方に捻じ曲げている。私の自責って責任感があるからするのではない。その方が楽だからそうしているのだと思う。

「こういう人って嫌いだな〜」と意識してしまうのは、自分の中にそういうペルソナがあるからなのだと我が身で感じた。悟りたいとか。笑える。臭い物に蓋してどうするつもりだったんだろう。

唯一救いであるのは、少しずつでも何らかの変化が起きているということだ。捨て去ってもらえないことで息が詰まる思いもするけれど、おかげで自分が悪くない方に漕ぎ出している感覚もある。

お金をもらっているのだ。貢献しないと存在価値はないし、ありがたいことにその貢献をかなえていくことは、私が心からしたいと思えることでもある。人が過ごしてきた記憶とそれを肯定する解釈(=物語)が、大切に扱われる社会になってほしいと私は本気で思えている。そのほうが絶対いいじゃん!と言い続けられる気概がまだ軸にある。この物語には、こっちの物語が尊いとか、あっちは劣っているとか線引きしたくないことも当初の目的の1つだったはずだ。
ならば、まずは自分の過ごした物語を糧に前に進めるようにならないといけないのだろう。

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