結局イデオロギー?
「恋人ってなんで存在するんだと思う?」
少し前に知人とのスペース(Twitterのおしゃべり機能)で話したテーマの1つ。
私は恋人という関係性が人生において必要な意味をまだ知らない。恋人って素晴らしいと思う確信に至れるプロセスを踏み切れていない。なんなら恋人という関係性が怖い。
誰かと一緒に過ごすことで幸せを感じるから、というなら友人という関係性で充分じゃないんだろうか。そこに肉体関係があろうとなかろうと、「セックスフレンド」というワードが社会に出始めている時点で、恋人っていう枠に囚われなくていいんじゃないかなって思ってしまう。なんなら、この世の関係性に名前をつけること自体が間違っている気もする。
私とあなた、の関係性。
それだけで事足りるんじゃないんだろうか。
もし名称が消えたら。カテゴライズしないことは分かりにくくてカオスだし、暗黙の了解(恋人同士だから他の人に目移りしないとか、友人同士だから互いに困った時は助けるとか、親友だから秘密は全部打ち明けるとか)=「言説」を期待することができないから、莫大な不安につながるのかもしれない。
でも人と対話しないで健やかな関係(お互いが安らぎを感じる状態)を結び続けることって難しいと思うし、人は考え方もスタンスも絶えず更新されていくものなんだから、それを無理にとは言わずともできる限り受け止めていくべきなんじゃないかと思ってしまう。あなたと私が対話していく中で関係性(約束やお互いのあり方)は決めていくべきだ。そんなカテゴライズで整頓できるほど世界は分かりやすくない。わざわざ「〇〇」という枠を設ける意味ってなにさ。
関係性に名称なんて必要ないぞ、と声を中ぐらいにして主張したい。
けれど、それとは別として、私は「恋人」というワードに忌避感を持っているという事実もある。(と、この前今のパートナーに言われた)
そう、私には今「恋人」(パートナー)がいる。「恋人」いらないって言っておいて、なんだそりゃって話だけど。
私はその人と可能な限り一緒に過ごしたいとは思うけど、その人なしでは生きていけないという状態に陥りたくないという恐怖もしている。それは「恋人」は寄り添い続けるものであって、共に苦難を乗り越えるものであって、いかなる時も思い合い続けなければならないという、~べき的言説に私が縛られているからだろう。その期待に応えられないなら、その関係性に手を出すべきじゃないと警鐘が鳴る。
別に会いたいときだけ会えばいいんだし、ちょっと距離取りたいなっていうなら期限付きでもおやすみ期間もらえばいいんだし、1人でやり遂げたいことは1人でやるって伝えればいい、おそらく肩に力が入りすぎている。気にしすぎなんだ、私。
(何はともあれ、こんなめんどくさい人間と真面目に関係を築こうとしてくれる彼には頭が上がらない。)
ところで「恋人」ではなくて「パートナー」という言葉を用いる時、私の気持ちは幾分か楽になる。どちらも「共に歩む人」「好き合う人」という印象を持つワードだが、「パートナー」は「恋人」よりもなんだか重苦しく感じない。きっと前者が後者よりも私の中において比較的新しい言葉で、付与された意味の数がそこまで多いと感じないからだと思う。そこには私と彼だけが築く関係性を描くスペースが充分に用意されている気がするのだ。
「〇〇という関係」に付与された制約や言説に惑わされることなく、それぞれの人と冷静に向き合うことができるなら、名称化された人との関係性に悩まされることはないんじゃないのっていうのが今の結論かな。
まだまだ考え続けたいトピックです。
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