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スピリチュアルってなんですか?

こんにちは!魔タリカ766歳、魂のR指定です!
セクシャルアルケミストのミニワークショップは多くの方にご参加いただいて、私自身もすごく勉強になりました。
いつも「スピリチュアル」や「チャクラ」という語を当たり前のように何気なく使っていますが、そもそもそれは何なんだ?と聞かれるたびに、身が引き締まる思いです。
ってことでスピリチュアルについて、話が長くなりそうですが、老害女神に相応しくちょっとした昔話から いってみようと思います。766年分撒き散らさないと!

そういえば少し前に、クライアントさんに聞かれたことがあります。
「タリカさんはスピリチュアルって信じてますか?」
私はうろたえて、なんて答えていいのやらで頭の上には???を飛ばしながら「あなたにとってのスピリチュアルって、なんですか?」と聞きました。
その方のお話では、どこぞの霊能者に言われたことが、すごくよく当たっていたのでスピリチュアルを信じる、ということでした。そ…そうですね。

昔は本屋さんに行くと、スピリチュアル系の本は「人文学」または「精神世界」という棚に割り振られていました。もっと昔は「ニューエイジ」なんて分類もありましたね。
それがね、何年か前に京都の大きな本屋さんに行ったときのこと、
シュタイナーをはじめとした秀逸な古典(と私は思う)や心理療法系の本が「女性のための趣味」みたいな棚に、恋愛ものや趣味の本と一緒に割り当てられていることに愕然として絶望してからというもの、私の本屋への厚い尊敬と渇望が消滅して足が遠のき、もっぱらアマゾン頼りになってしまいました。

本棚の担当さんの「女の子って、こういうの好きでしょ?!」そんな声がドヤ顔と共に聞こえて来るようです。おそらく女性が多く購入していることは想像に難くありませんが。
昔の本屋さんの棚は、担当している方の本に対するパッションや、知への尊敬の念みたいなものが伝わってきたものです。今や本屋さんは本を読まず、おそらくデータだけを見て並べているんだろうと思います。


続き…………

最近ではデータが最先端の権威のように扱われていますが、データはあくまでデータであって、知識 〈Knowlidge〉や知恵〈Wisdom〉 ではありません。

これもまた昔話で恐縮ですが、1990年代に霊能者だという江原さんがそれらを「スピリチュアル」と耳障りのいい言葉に言い換えてから、スピリチュアルは大きな広がりを見せました。そういう意味では功労者だと言えるのかもしれません。
けれど、おかげ様でというか何というか、スピリチュアルというのは超常現象に遭遇することだったり、見えないものが見える聞こえる、さあ、神社やお寺に行こう!みたいな流れになってきました。(それが悪いってわけじゃないんだけど)
もともとアジアの宗教は、祖先や死者を祀るものなので、死者が眠るお寺や、古来から伝わる八百万の神を祀る神社を信仰するというのは、肌があうんでしょう。私だって節目にはやっぱり行きたくなりますもんね。

ちょうど彼が活躍したのとほぼ同時期に、オウム真理教事件も起こりました。これでチャクラという言葉や瞑想なども、「怪しい...」ということで、
当時沸き起こっていた日本のスピリチュアルなムーブメントに鉄槌を下されたような気がしたものでした。
私が当時通っていたチベット仏教コミュニティには、多くのオウム真理教信者が避難して来たり、それを目掛けて公安の侵入があったりで、当時まだピヨピヨだった私にとって、教えに身を浸すにはちょっと難しい環境だったものです。

日本的霊性」の禅の鈴木大拙師によれば、日本の大衆に宗教が根付いたのは鎌倉時代以降だというのだから、歴史的に見ればかなり新しいですよね。
「何かを無闇に信じたら大変な事になる」という戦後のトラウマ的意識もまた、現代日本人を無宗教にしているのかもしれないな、などと思ったりします。

という事で、「霊性・スピリチュアリティ」というとアレルギーを起こす人たちの方が一般的には大多数を占めているのかもしれませんが、それは世界でも同じで、長い間既存の宗教の束縛に苦しめられていた人たちが、もうたくさんだ!と、科学という最新の宗教に乗り換えて「データを出せ」「エビデンスはあるのか?」と、鬼の首をとったかのように論理的な証明を求めてきます。

ま、いいんですよ。どんな宗教を信じていても、
その人が幸せで満ち足りているのなら。


海外を見ると、1960年代のアメリカではベトナム戦争の反戦デモが盛り上がり、ウッドストックで音楽で繋がり、フラワーチルドレンなどの、愛と自由、平和を求めるヒッピーたちのムーブメントになっていきました。
OSHOがインドからオレゴンに移ったのは、1980年代ですね。

二次大戦の終戦は1945年、二つの大戦を合わせると、世界では一億人以上の人が亡くなったといいます。
その数にはホロコーストや強制収容所での民間人も含まれていますが、人々はもう戦争や殺し合いに疲れ切って、旧体制や古い信念からの脱却と、人としての高い理想を生きるという選択を探究し始めたのでした。

日本ではその頃、戦後復興の高度成長期で忙しく、当時起こった大規模な学生闘争も、良き就職口、良き社会的地位をエサに、最後は丸め込まれてしまったのだと聞いたことがあります。
そういうのに丸め込まれることなく世界に飛び立って行ったのが、OSHOサニヤシンの大先輩たちの年代なんだと思います。

今では、先見の明のある人たち(サニヤシンに限らず)が世界から持ち帰ってきてくれた様々なワークやセラピーなどが定着して根付いています。私の知る限りでは、オーラソーマは典型的だと思いますが、清水友邦さんにも確認してみたところ、カラーパンクチャーやゲシュタルトセラピー、バイオエナジェティクスなど、アメリカのスピリチュアルなセラピーの総本山とも言えるエサレン研究所で教えられていたセラピーがたくさん流入していて、エサレンと交流のあったOSHOコミューンでも、セラピーや瞑想の花がたくさん咲いたのだそうです。

ね!スピリチュアルというのは、一過性の流行や既存の宗教という枠組みなどではなく、社会の変化に深く根差した、新しくて古い潮流です。進化とは、過去の流れを否定することではなく、含んで超えることです。
現代科学は世界の古い伝統を否定して、含めることができないでいます。そこに本当の進化があるのかは、疑問に思うところです。

宗教も科学もスピリチュアルも、盲信するのではなく「それは本当なのか?」と疑問を持って眺めることが必要なんだと思います。
科学がどれほど進化して他の惑星のことを語ったとしても、風邪ひとつ治すことができないし、人間の体の神秘を全て解き明かしたわけではありません。戦争は終わらないし、武器は精度を上げてあっという間の大量虐殺も可能です。遠い土地に住んでいようとも、直接何もできないとしても、無関心でいることはできません。
人類の貴重な発見や知識を、何に、どう使うのか?どんな意図でその力を使うのか?どれほど現代科学や技術が進化したとしても、それを見れば意識の進化の度合いがわかろうというものです。

私にとって霊性〈スピリチュアリティ〉とは、物質的な世界や物理的な側面だけでなく、精神的な成長や意識の拡大、内なる平和や喜び、自己の発見や成熟を探究する「生き方」のことです。私たちの背後にあって、人間を、宇宙を動かしている大いなる見えない力に頭を垂れること、そんな生き方を探究している人たちはみんな、スピリチュアルなんだと思うのです。
先人たちがもたらしてくれたこれらの叡智の流れを、私たちは含んで超えていくいくことができるんでしょうか?今、日本に生まれて、安全な場所で暮らしていることには、感謝しかありません。

あぁ、老害撒き散らしました?
いつもながら、長くなってすいません。

Love♡

Tarika

2024/ 3月7日発行メルマガより



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