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足りなさのこころ

Beloved ♡ さん

こんにちは!魔タリカ 741歳 、魂のR指定です!パンデミックで国内に閉じ込められてからというもの、ずっと仕事ばかりしていますw

日本は仕事するところ(特に東京は)。お休みは海外で、というスタイルがここまで深く染み込んでいたとは、我ながら驚きです。

ずっと仕事しかしていないのに、毎日新しいことばかりが起こって意外と飽きないってことにも驚きです。まぁ、自分が面白いと思うことしか出来ないタチなので、それもまたアリなのかもしれません。儲かるかどうかは、また別の話となっているところがやや難ありですが。

仕事ばっかりしていると、さて、成功とか幸せの概念とはなんだろう?と、自問自答を繰り返します。

若い頃は、お金がこのぐらいあれば、こんなこと、あんなことができるのに。なんて思ったものですが、そのお金がいざ手元あったとしても、やっぱり足りない、これじゃダメだ、なんて思うものです。一体どのくらいあれば「足りる」のでしょうか?

要は、いくらあっても足りないってことですよね。

さて、この「足りなさ」は、お金をいくら持っているのか、という問題とは、実は別の問題です。この欠乏感は、赤ちゃんの頃、お母さんの母乳が十分に出なかったとか、忙しくて不在気味(面倒見や愛も含めて)だった、というあたりに(多くは)端を発している、古い古い感覚です。

大人になっても常に「足りなさ・欠乏感」と共にあり、たくさん物を持っていることが安心につながる、と思い込んでいるので、強い収集癖があったりして、物を手放すことが苦手です。ということは、そうです。お察しの通り、どれほど愛を受け取っても「足りない、十分ではない」と思ってしまうのです。お金も食べ過ぎも、同じフェーズです。

いくら食べても栄養にはならない。(脂肪にはなるかもですが。)手放したくないものが人間関係だ、ということを例にとると、これはかなりややこしいことになります。長年のセックスレスで会話もろくにしない冷たい関係だったとしても、相手に別の男(または女)がいたと知るやいなや、絶対に相手を手放さないためのあれやこれやを繰り広げたりして。

自分はずっと我慢してきたのに!という怒りや嫉妬、そして復讐心でいっぱいになるという図ですね。

同じ「足りなさ」でも、「私はこの程度(残り物)で十分、お先にどうぞ。」とか、「私なんか、それを受け取るに値しない」という自己肯定感の低さは、どんなにいい人のように聞こえても、それが自分の内なる「足りなさ」を過剰にカバーしようとする力が働いている場合もあります。どちらも自分の真のニーズを満たすことができないままなので、やはり内側では静かに煮えたぎる嫉妬が渦巻いていたりします。

そこに無意識、無自覚でいると、人生は危険な戦場である、自分はいつも一番最後、という被害妄想的な中に生きているので、ことさら安全を求めて防衛を固めるとか、

身の回りの世界にある危険や戦いと、世界の戦いとは、違う構図だなんて言えないのではないでしょうか。自分の内なる戦いをやめて、あるがままに世界を見る、という態度は、シンプルで身軽でいられますよね。それは、風の時代の生き方だと言えないでしょうか。

つらつらとそんなことを考えていると、やっぱり最後は「生きてるだけでめっけもの!」なんだと思えてきます。そして、「タオイストはいつもYESから始めなさい」というユタ先生の教えは、私の人生を豊かさへと導いてくれたと思います。

大自然の声を聞きながら、そこに人の在るべき真実を感じ取りながら、何ごとにも執着し過ぎることなく、ほどほどにw仕事も人間関係も「三方よし」を旨として、誰かの人生に貢献することを自分の喜びとする。私にとっては、それが成功の形なんだと思えます。

最近私の周りはそんな人でいっぱいです。ありがたやありがたや。

Love♡

Tarika

2022 3/ 31 発行メルマガより


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