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【白昼夢の青写真 case1 二次創作 第8話】

目が覚めた瞬間、激しい動悸に襲われた。その上、横隔膜が下がりきらないのか、呼吸が浅い。ひたすら息苦しい。明らかに、眠りも足りていない。とはいえ、本を質せば妻の不倫−そんな理由で、欠勤をするのはどうかと思った。精神状態も体調も最悪だが、いつも通りに出勤をした。

仕事というよりは、作業をしている気分だ。決められたとおり、これまで何度となく繰り返してきたとおりに授業を進める。
自分が学生だった頃、ときどき授業の本筋から脱線し、その作品がいかに素晴らしいかということを嬉々として語り始める教師もいたが、この場には、受験で必要のない知識を求める者はいないだろう。

授業中、内職をしている者が数名いる。私に気を遣ってバレないように努めているが、教壇に立っていれば、生徒が何をしているかはわかる。
そんなことで、私はとがめない。好きにすればいい。余計なことをして、陰で悪口をいわれるのもつまらない。元々、したくてしていることではない。ならば、淡々とこなしていたい。たかが仕事のことで面倒を抱え込む余裕は、私にはない。

1日の授業が終わった。
いつもなら図書館に向かうところだが、体育館の裏にあるプレハブ建ての喫煙所に入り、たばこに火をつける。たばこを吸っていると、否が応にも考え事をしてしまう。言わずもがな、祥子のことだ。
煙は換気扇が外へ排出するが、頭の中は悪いこと、嫌なことばかりで満たされてゆく。考える暇なんか無い方が、良いのかもしれない。まだ二、三口しか吸っていないたばこを吸殻入れに放り込もうとしたとき、喫煙所の扉が開いた。

「おっ、有島先生。なんかお疲れだね。」
社会科の渡辺だ。今年から、私と同じ非常勤講師として、この学校で働いている。人と人との間の垣根を飛び越えるのが上手く、気がつけば、私とも他愛のない会話をする関係になっている。

「あー、俺も疲れたよ。生徒にナベミツとか呼ばれてることを主任に怒られちゃったよ。でもそれって、呼んでる方を怒るべきじゃない?俺がお願いしてるわけじゃないしさ。うん、マジ疲れたわ。だから、たばこちょうだい。」
何がだからなのか分からないが、いつものことなので、もう何も言わず、たばこを差し出す。ライターだけはちゃんと持っているあたり、余計タチが悪い。

「いつも悪いね。ああー、たばこは美味い。美味いわ。特に人からもらうたばこは。有島先生、ホントいつも悪いね。」
思ってもいないことを、二度も言わなくていい。
「悪いと思っているなら、ワンカートンくらいくれても罰はあたらんぞ。私は昨日誕生日だったんだ。」

「うーわー、有島先生、その年で誕生日とか言っちゃう?んじゃあこれ。コンビニのお寿司の50円引き券。誕生日おめでとうございます。」
屈託のなさに、心の波が少し静まる。

それでも、家に帰るのは憂鬱だ。今日は祥子も帰ってくるだろう。他の男に抱かれてきたであろう妻を、どんな顔をして迎えたら良いのか。今朝もずっと考えていたが、答えは出なかった。渡辺ならどうするだろう。話してみるか。
いや、やめておこう。そんな距離感ではないからこそ、彼とは上手く付き合っていけるのだ。

それにしても、渡辺はいつも渡辺というか。
渡辺だって人間だ。彼の人生にも、失敗をして惨めに思うことや、逃げ出したいと思うほど嫌なことは、きっとあるだろう。悩みのない人はいないし、辛いことのない人生はない。しかし、渡辺の切迫した様子を、憔悴した様子を、見たことがない。
仮に何かあろうとも、そうしたところをおくびにも出さず、飄々と、極めて安定的に振る舞える渡辺がうらやましい。

「なんだよ。何か言ってくれないと、俺がアホみたいじゃん。先生、ほんとお疲れだな。まあ、家に帰ってゆっくり休んだら。俺もこれ吸ったら帰るよ。また明日ね。たばこ、ありがとさん。」

気がつけば渡辺のことをほっぽり出して考え込み、会話をすることを放棄していた。どうして私はこうなのだろう。

「ああ、たまには自分でたばこを買えよ。」
「嫌だね。買ったら、有島先生に話しかける口実がなくなっちゃうじゃん。」

渡辺がたばこを吸い終わるまで、中村先生の横顔がかわいいだとか、かわいい横顔の条件であるとか、あまりにも益体のない話を、適当な言葉を挟みながら聞いていた。

たばこを吸い終わり、じゃあと言って喫煙所を出ようと立ち上がる渡辺の、お尻のポケットの中が一瞬見えた。未開封のソフトパッケージだった。

           *
時間を潰したところで、どちらが先に家に帰ってくるかの違いでしかない。祥子が寝静まる頃に帰っても、問題を先送りにするだけだ。こんな思いを、明日まで抱えていくのは耐えられない。どういう結果を迎えるとしても、祥子と顔を合わせて話をしなければならない。

帰ろう。

自分を叱咤しながら、また一歩と家へ進める。
自分の家に帰るだけなのに、どうして叱咤が必要なのか。
「何をしているのだろうな。」
溜息とともに、つい、そんな言葉が漏れた。暗い気持ちはそのままに、玄関の前までやってきた。

鍵が開錠されている。祥子は先に戻っていた。リビングの前を通過しようとしたところで、祥子が「おかえりなさい。」と事務的な挨拶を口にする。不意打ちを食らった気がした。妻が、帰ってくるべき場所に帰ってきただけなのに、何が不意打ちなのだろうか。

昨日、家を出るときは、これでもかと言わんばかりに女であることを主張する服を着ていたが、今は既に、家着に着替えていた。私に対して、女であることを誇示する必要はないということか。祥子は女でも、今の私は、男でもオスでもない。

祥子のスマホからLINEの通知を伝える音が鳴った。テーブルの上にあるスマホを手に取り、ロックを解除する。不意に、指輪が目に入る。私たちの絆そのものであるその指輪をしたまま、他の男に抱かれたのだろうか。そんな真似を、祥子は、この人は、自分の中で許せるのか。そんな自分を、許せるのか。

−ダメだ−

やはり怒りよりも、寂しさや悲しさ、虚しさ、私自身の情けなさ、惨めさ、そうしたものが入り混じった感情が先に出る。眩暈がする。吐きそうだ。話なんか、できそうもない。

逃げるように自室へ向かう私を、祥子が呼びとめる。

「ねえ、あなた」

何かを言うべきだ。何かを。何かを。どんな言葉でもいいから、何か、言わなければ。
−全てが終わってしまう。全てが。それだけは避けなければいけない。怯むな。止まるな。歯を食いしばって、1ミリでもいいから、前へ進んでくれ。一言でいいから、祥子に。祥子に−。

「…何でもないわ。」

何も言えなかった。心の中で、あぁと天を仰いだ。自然とこみ上げてくる大きな溜息を、鼻でついた。止まっていたかもしれない呼吸を始めるが、胸の中が焦げついたかのように、呼吸が滞り始める。

「ご飯は食べてきたから。あなたも適当に済ませて。あんまり寝てないから、先に休むわ。」

「そうか、おやすみ。」そういうのが精一杯だった。問題を先送りしても、解決しないのに。今日と同じ苦しみを、明日も繰り返すだけなのに。
私は、立ち尽くすことしかできなかった。

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