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【一次創作】30歳の憂鬱

30歳になった。経済的自由、社会的裁量が、大人の入口と呼ばれる20歳の頃とは桁違いだ。20歳になった日より、遥かに感慨深い。

自分自身が確立されつつあり、他者との比較で揺らぐことが少なくなってなお、憧れる人、かっこいいと思う人は、確かにいる。でも、それらの人のようになりたいとか、彼らの真似をしたいとは、おれは思わない。

どうしたいかと言われれば、おれは、おれを極めたい。おれであるということを突き詰めたい。誰かがとてつもなく凄くたって、その誰かになりたいわけじゃない。

しかしながら、「おれのおれ」は、少なくとも職場においてさしたる価値はない。おれがおれであることで、会社にもたらす利益は、給与よりも低いかもしれない。…深く考えると滅気るから、その話題はやめよう。

とはいえ、趣味の世界に逃げ込んても、正確な測定指標はなくとも、おれより高いところ、深いところ、またはおれよりセンスが優れている人は、間違いなくいる。

少し前に戻る。そんな状況にあって、お前がお前を極めて、お前はどうなりたいのか。どう思われたいのか。極論、他者と同じだったら、どうなのか。お前は死ぬのか。内なる自分に問われる。

他者と自分を隔てるオリジナリティが欲しかった。その気持ちは、決して漠然としたものではなかった。怖かった、のかもしれない。若いうちはまだよくても、30になり、40になり、おれが誰かと置き換わっても、何の支障もなくまわりがまわり続けていくことが。そんな歩みを続ける人生が。

おれは、何なのだろう。おれという確固たるおれになって、どうするのだろう。それで死んで、満足か。死んだことはないけれど、たぶん違う。

「なぜ、なぜ」の掘り下げが足りなかった。セルフ問答を突き詰めた気になっていただけだった。

一番にならなければいけないのだろうか。社会の役に立たねばいけないのだろうか。それが断じて否であることは、10年前に結論を出している。

ただ、今日30歳になって、おれがおれでいることを極めにかかっても、その先の次の一歩に明るい未来が見えないことを、うすうす感じてもいた。

夜中中考えて結局、解答が出なかった。

          *

それからしばらくしたある日、草サッカーをしていたら、相手チームの、見るからに好青年っぽい子が「ルーズボール!」を「ルーズボーズ!」といい間違えた。

そんな笑うとこでもない。ただ、草サッカーらしからぬ真剣さで試合に向き合っていたはずの好青年の気まずそうな表情と、みんなルーズボーズと聞こえていたはずなのにスルーするその空気感が、なんだかおれにはめちゃくちゃに面白かった。

特に何かに苦しむことなく、適当に笑って、楽しく生きている。

だから、おれがおれを極める生き方をしたって、別にいいじゃないか。
なんだか逆説的ではあるけれど、そう思えたのだ。生き方くらい、在り方くらい、好きにさせてもらっても、笑えない人生にはたぶんならない。

不惑とは40歳を指す。だから、なんだかんだ今後10年、まだまだ揺らぐだろう。しかしそれでも、おれがおれを極めることにこだわりたい。おれでしかないおれでいたい。

次、40歳になったら、答え合わせをしようか。

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