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シュタインズ・ゲートの再放送を見て、思ったこといろいろ。

「STEINS;GATE」の再放送が、テレ玉でオンエアされています。これが何周目なのか、自分でもわかりません。
9月29日の放送分で、第10話です。まだまだ平和な日常を過ごすラボメンたちが微笑ましいです。

もう結構前の話になりますが、Twitterで「#貴方にとっての最高のアニメの神回」というタグを見掛けました。文字数の制限があるのでツイートはしていませんが、自分の中での最高はひとつには絞れないにせよ、本作におけるオカリンの「勝利宣言」回(たぶん22話)は、そのうちのひとつです。

「STEINS;GATE」での怪演で、宮野真守(岡部倫太郎=オカリン=鳳凰院凶真)さんのファンになりました。誕生日も一緒なんですよ。だから何だよ、って話ですが。

それはさておき、個人的にこの作品での一番の見せ場であると思っているオカリンの勝利宣言は、原作(ゲーム)版では鳳凰院凶真として、凶真らしい堂々とした姿勢で臨んでいますが、アニメ版ではどこか本来の心優しい岡部倫太郎の匂いがするというか、かなり泣きの入った悲痛な演技になっています。

原作には、まゆりを生かしクリスを殺す道を自らの意思で選択する、凶真の悲痛な思いを描いた地の文があるので、凶真としての矜持を貫いた力強い勝利宣言が非常に映えます。

しかしながら、アニメ版では地の文を誰かに説明させたりするわけにもいかないので、宮野真守さんの演技ひとつで、原作の地の文を補完しなければいけなかったわけです。

どちらが優れているとはなかなか言えません。心が震えたのは原作版ですが、涙不可避なのはアニメ版です。

声優の大塚明夫さんが「声優は俳優でなければならない。」というような話をされていたと思います(これは、明夫さんのご尊父たる周夫さん世代の声優が、「当て屋」という、いささか敬意に欠く呼ばれ方をされていたのも大きいかと思います)。

結局、「芝居」とか「演技」という言葉の定義の問題に収斂される話だと思いますが、むしろ俳優にとっての表現方法の優劣とは、芝居の上手い下手だけではないと考えています。

例えば舘ひろしさんなんかは、芝居の巧拙どうこうじゃなくて、いかに画(え)としてかっこいい佇まいを表現するか、というタイプの俳優だと思っています。昭和40年代くらいまで主流だった映画俳優的表現というか。黙っていても、絵になるんですよね。だから、舘ひろしさんのことは、優れた俳優だと思っているわけです。

その点、声優は、ライブだとか写真集だとか、アニメーションを離れた場所ではまた別ですが、アニメ作品の前では、声ひとつ、演技ひとつで勝負しなければいけません。その意味では、俳優よりもさらにシビアかもしれない。俳優以上に、より声優であることに忠実でなければいけないのかもしれない。

その台詞を言ってるときの仕草がかっこいいとか、そういう評価はありません。アクション派声優、という評価は聞いたことがありません。
とはいえ宮野真守さんはめちゃくちゃ脚が長いので、台詞を吹き込む仕草もまた、凶真よろしく抜群にかっこよさそうですが。

実際、あんまりバタバタすると、マイクが音を拾ってしまうから、じっ、とはしているんでしょうけどね。宮野真守さんに限らないですが、そのテンション、その演技を、直立不動に近い形でやっていたら違う意味ですごい、っていう表現、ありますよね。

それにしても、オカリンって愛されていますよね。嫌いな人って、聞いたことがないです。こう言ってはなんですが、後発の「アノニマス・コード」は、だいぶシュタゲの焼き直しというか、失敗や絶望を繰り返しながらもタイムリープを駆使し、艱難辛苦を乗り越えて世界も愛する人も周りの人たちもまるごと救うって話で、その点ではオカリンもポロンも変わらないのに、たぶんポロンはそこまで愛されてない(ポロン、すごくいい奴ですけど。)。

愛される男性主人公を考えるのは、難しいです。書いているものの水準が、およそ公表できる域にないので、noteには上げていませんが、今も1次2次問わず、ちょいちょいとスマホを叩いて創作に挑んでいます。

そして、小説を書く技術は、小説を書くことでしか伸びないな、とも感じています。日記とか随筆的なものとか、他のものを書いていても、たぶん上手くならないでしょう。アウトプットするものを物語化する訓練が、それに特化した練習が、きっと必要です。

逆に、その技術さえ身につけば、書くものすべてを物語にできるのかな?さて、どうでしょうね。

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