見出し画像

白昼夢の2次創作を経験して、森博嗣先生について思うこと。

森博嗣先生。名古屋大学の元助教授にして、理系作家(東野圭吾先生が狭い界隈で理系作家と呼ばれていた時期があったことは、若い人は知らないと思う。)の代表格と言うべき人気作家です。御本人の認識はともかく、ジャンルとしてはミステリィ作家に分類されるのかな。デビューのきっかけにもなっているし。

そして、把握しきれないほどの数の著作を輩出している、とんでもなく速筆多作の作家としても有名です。
代表作を挙げるなら、御本人がおっしゃるところの「スカイ・クロラ」シリーズか、高い知名度を誇る「すべてがfになる」あたりでしょう。

私が二次創作をさせていただいた「白昼夢の青写真」の原作者の方(緒乃ワサビさん)は、森先生について、「憧れている」とか「好き」という表現は用いていませんが、作風はひとつさておき、作家としての在り方みたいなところに関しては、おそらくいくらか意識されているだろうな、と、自分は思っています。

森先生は前述のとおり速筆多作で、様々なジャンルでバラエティ豊かな作品を多数残している作家ですが、自分の中では、小説よりもエッセイにおいて真価を発揮される方だと思います(言葉選びや言葉遊びも卓越していますが、あえて。)。

私は森先生の友人・知人や教え子等ではないので、「商業作家・森博嗣」以外の「素の森博嗣さん」のことは承知しないのですが、とにかくもう、各種のエッセイを拝読する限りにおいて、作家としての森博嗣先生というのは、本当に変わり者なのです。

話を戻しますが、森先生は、ブログというものが流行る遥か前から、おそらく2000年以前には既にウェブ上で、ブログ的なことをやっていらっしゃいました。そのブログは紙媒体で出版もされていて(当時は今のフォーマットとしての電子書籍はおそらくなかったはず。)、あまり初期のものは名前を失念してしまいましたが、中期以降は「モリログアカデミィ」として、たしか13冊、刊行されました。私は森先生の著作の中で、この「モリログアカデミィ」が一番好きです。

「モリログアカデミィ」では、森先生の身近なところや、世間を騒がしていること等等について、森先生がその独特過ぎる感性で何かしら言及を行うものですが、時に「いやマジでそのとおりだよね」と納得させられたり、「この人すげーな」と感心させられたり、「それはどうだろう」とか「真意はどこにあるのかな」と考えたりしながら読んでいました。

作中、「メディアよりコンテンツ、誰が言ったかより何を言っているかが大事だ」といった発言をされていたと思いますが、本当にそのとおりで、例えば人殺しが殺人はダメだ、と言っても、それは正しいことです。
私の母がまさに、誰が言ったかが大事な人で、私が子供の頃から、私に対して何か小言を言いたいときは「父さんはそう言ってたよ。」とおっしゃっていました。正直にいえば、本当に「だから何?」としか思わなかったのですが、私の母親は、家族にとって父親が権威そのもの、という世代の人なのです。

そして、テレビでも職場でもどこであっても「お前が言うな」とか「説得力がない」と言った台詞を、まま耳にするのですが、そのたびに、この人は頭で考えることができないから、エモーショナルな反応をするしかないのだろう、と思ってしまいます。
そもそも説得力ってなんでしょうか。頭とは違う部分の心情的納得、ってことなのでしょうか。であれば、そんなの、要る?

「人は感情の生き物」というもの(私はそこまでは思いません。)の悪い部分が独り歩きし、あらゆる場面で罷り通る中、森先生が主張するような、本人の人格と意見を切り離して考える、という土壌がようやく、一部の理知的な人たちに根付きつつあります。森先生はそれを20年前から指摘していました。

はてさて、比較的最近の著書では、…たぶん「思考を育てる100の講義」だったと思います(手元にないので、自信はありません。)が、その中で森先生は「使いやすい、食べやすい、飲みやすい、わかりやすい」そんな易きに流れる姿勢に、シニカルでありながら、結構強い調子で否定の意見を示されていたと思います。

私は少し前まで、生まれて初めて2次創作として小説のようなものを書いていましたが、何より大事にしていたことは「読んでもらえるものを描くこと」で、これは「読みやすいものを描くこと」とほぼ同義です。少なくとも、私の中ではほとんど同じことでした。

「わかりやすいものであること」が重視される傾向は、特に10年くらい前から一層顕著(だからこそ森先生も触れたのでしょうけど。)で、例えばアニメであれば、むかしは「3話切り」という言葉があって、これは言葉のとおり「今はイマイチでも、3話までは見て、視聴を続けるかどうかは、そこから判断しよう。」というものでした。

加齢で記憶力や集中力が落ちてきた私も含め、今は、なかなか3話まで猶予を与えるユーザーも、少なくなっているというか、特に若い人のあいだでは「タイパ」と呼ばれるものを重視する傾向がとても強いそうで、対するクリエイターの人たちも、そうした風潮に苦心している様子が窺われます。

2次創作ごときが、って言われるかもしれませんが、物語を書いてみて、完成させて思うのは、大袈裟でなく、一人でも多くの人に読んで欲しいということでした。世の中に、前述のタイパを重視する人たちが増えてきたことを踏まえると、そのためには避けては通れないポイントが、いくつかあるように思います。

よく、野球とサッカーがライバルとして扱われてますが、ユーザーの時間を奪うものは、スポーツの枠もエンターテイメントの枠をも超えて、全て競合的な関係にあると考えます。野球とビジュアルノベルが競合関係にあると言われても、私は全く違和感を抱きません。なんならお昼寝とでも。時間という制約の前では、等しいものといえます。みんな、人の時間を奪い合ってるんです。なので、1分間で入れるくらい「わかりやすく」、て、そして「面白く」ないと、と思っています。

このように、ことさら一面だけを取り上げた発言をすると、森先生は知性や品性の足らない言動や振る舞いを「微笑ましい」と表現されることが多いのですが、その意味で、今の私に対して森先生が何かおっしゃるとしたら、「微笑ましい」しかないようにも思います。別に、読みやすくなくても面白いものはいくらでもあるし、貴様の主張は失当だと。

そのあたりは、「信頼と安心の◯◯先生ブランド」という看板の力の影響もあるように思います。例えば羽海野チカ先生が新連載始めます、という話になったら、どんなにわかりにくいスタートでも読み続けますし。他と時間を奪い合う、という概念すらないかもしれない。「争いは同じレベルでしか発生しない」(若木民喜先生)のAAよろしく、羽海野先生と時間を奪い合えるコンテンツなんて、なかなかないでしょう。

ところが「ゴールデンカムイ」の野田先生は後への布石・導入となる、少し地味な話が続いたとき、読者に対して「頼むから我慢してくれ!」と思っていたそうです。あんなに面白いのに、シビアな世界だなぁと思いました。

ビジュアルノベルや新書の単行本なんかは、購入時にまとめて結構なお金を払うので、書き手としては「こんだけお金出すんだし、しばらくは我慢してくれるだろ?」というスタンスなのかもしれません。前者は「後ろが太っとい」のが、ものづくりとしての正解例だったりしますし。

縷縷書きましたが、とりあえず、読んでもらえるもの、そのために読みやすいものを書きたいなという気持ちは変わらずです。読みにくいけど面白いものを書けるようにはなれないな、と思います。

今はcase2の二次創作を考えていて、シェイクスピアの名言や作品をもとに、一話完結型のウィルと何かしら問題事を抱えるお客さんとの酒場トーク、人生相談、というのを基本線として想定しています。
しかしながら、現在頭も中で考えていることをそのまま書いていくと「これ、白昼夢の青写真と関係なくない?」となりそうです。そして、case2の見どころがウィルの成長、覚醒と、オリヴィアの覚悟、情熱、真摯な愛情にあることを踏まえれば、そこから離れ過ぎることにも抵抗があります。そうなると、たぶん面白くならないからです。

もうちょっと準備が必要です。作家って、すごいなぁ。
そんな感じです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?