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パーキンソン病の母から学んだこと。

昨日、施設に入っている母の面会に行ってきた。

パーキンソン病の進行が急激に進んでしまい、
寝たきり状態になってしまっていた。

去年までは賃貸アパートで一人暮らしをしていたのにだ。

階段の上り下りが辛いというので、
エレベーターのある部屋に引っ越したばかりだった。

その時は「肉が食べたい」というので、ステーキ弁当を買って
名古屋名物「御座候」という大判焼きを2つ、それを
モリモリ食べていたのに、今は流動食しか食べれない状態。

会ったのは1年ぶりだが、ずいぶん痩せて
起き上がるどころか、自分で寝返りもうてない。

喋る事もうまくできず、力もなくなりスマホも持てず
電話にも出れない状態になった母。

まだ、77歳だ。

面会に行くと、ホロホロと涙を流しながら
「電気を流されている。」と訴えてきた。

喋れない母から聞き取るのは難儀だったが、
なんとか聞き取ると、話はこうだ。

どうやら、24時間監視されていて、
指に繋がれた管から、コンピューターで毎日電気を流されている。

自分はコンピューターに詳しくないし、誰がやっているのかも分からない。

その事を病院の人や職員さんに話をしても、誰も信じてくれなくて、
文句を言うと、腰をギューギュー締め付けられる。

それが毎日辛くて「いっそ、殺してくれ、と思う。」
と、涙を流しながら訴えてきた。


施設の職員さんは同席していなかったので、
もしかして「虐待?」と思ったけど、

母のお気に入りのケアワーカーさんに聞くと、
そういう妄想を、ここのところ、ずっと話していて、
この施設の、前の病院や施設でも言っていたので、
どうやら虐待ではないらしい。

病気による体の中の痛みや、おむつの締め付けが
そう言う妄想に結びついているのではないのか?
という事だった。


母は、体が動かなくなってしまったけど、認知症ではない。

そうなると、しっかりした頭と、動かない体で、
その痛みしかない世界を、ベットの上で、
ただじっと過ごしているのかと思うと、
確かに「殺してほしい」と願うような、地獄の毎日だと思う。


去年までの母は、歩けなくなってきても、入院を拒否して、
どうしても、一人暮らしをしたいと望んでいた。

理由は「自分でやりたいから」。
洗濯も掃除も、買い物も、自分でやりたいからと言っていて、

不自由な体で家事をこなすのは、1日がかりになるのに、
退院後、誰からも世話をされずに、自由にお茶を飲めるのが
本当に幸せだと言って、はしゃいだ声で電話をしてきた。

今思えばその頃だって、正直あまり健康とは言えない体だったが、
今の寝たきりから比べると、すごく元気だったと思う。


そんな母との別れ際、よろよろと手を差し伸べてハグを求められた。


母とハグをした経験はない。

多分、私が物心つく小さい頃は、母に抱かれて育っていたはずなので、
それ以来になると思う。


初めてと言っていい母とのハグ。

ものすごく、
ガリガリで力もなく、
口が臭かった。

でも、泣けた。


私たち、そんなに仲のいい母娘ではなかったのに。

まるで、最後のお別れみたいだなと思った。


私は母とのその面会の帰りに、
10年ぶりになるだろう知人と会ってお茶をした。

彼女は生まれたての赤ちゃんを連れて会いに来てくれ、
「赤ちゃん面白い!」と話す彼女は、幸せそうでキラキラしていた。

正直、母のことや元夫のこと、定職もない私に、彼女は眩しかった。


母とハグした後、赤ちゃんを抱くのは気がひけたので、手を握らせてもらった。

母の手も痩せてはいたけど、白くて柔らかくて、
赤ちゃんの手と、そんなに変わらなかったな思った。


昨日は、そんな母の面会に名古屋遠征をしていたので、
毎日更新を続けていた、noteを書くのを忘れてしまった。

せっかく毎日更新を50連チャン記録していたのに。


もう、どんなに頑張っても、私は昨日のnoteを書くことができないし、
明日も書こうと思えば書けるけど、明日のnoteを今日書く事はできない。


私は赤ちゃんを抱く友人ほど、幸せな毎日は過ごせないけど、
でもきっと母が憧れるような、毎日を生きることができるんだなと思う。

人と比べて、いいとか悪いとかではなくて、
今できること、今やりたいことを、明日ではなく今やる。

「自分の足で自由に歩けるなら、いいじゃん、やりなよ。」って
今の母なら、そう言うんじゃないのかな。


私は、昨日書けなかったnoteを後悔するよりも、
今日書けるnoteを、今日書こうと思う。


ささやかでいいから、今の自分を生きればいいんだと
教えてもらった気がして、はじめて母に感謝した。


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