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シーグラス-2

   谷川照一様へ
 
 ねぇ、お兄ちゃん。私はちょっと怒っているよ。ずいぶん冷たいんじゃない? この前、私が手紙で書いたじゃん。『バイト先の先輩に告白されて困ってるって』って。そりゃアレだよ。私も書きながらなんか、なんっかこう! ふわふわして浮かれて匂わせクソ女みたいかなーとは思ったよ? 
 でもアレはない。あの返事はない。完璧に、徹頭徹尾、みっちり、完膚なきまでに、無いんだよ! ちょっとは浸らせてくれてもいいじゃん。心配してくれてもいいじゃん。生まれて初めての告白されたんだから。 
 普通はさ「どしたん? 話聞くよ?」これ一択。
 ここでそのセリフ使わなくてどうすんだって話。予定調和に従え! 疑うな! 感じろ!
 ……ごめん言いすぎた。
 まあ、私にも隙があったことは認めるよ。でも言い訳させて欲しくてさ、その人、長谷川さんっていうんだけどね。絵を描くひとなんだよ。
 そう! お兄ちゃんと一緒! こりゃあテンションも上がるわ! って思って、オメー絵ぇ描くんかーつって、(こんなはしたない言葉、実際には使ってません)フランクに話しかけすぎた感はある。あるけど、でもさ、嬉しかったんだよ。
 お兄ちゃんの絵が好きだよ。書いてる時の真剣な横顔も、長い指先も好き。だから、長谷川さんに「趣味とかあるの?」って聞かれて、「NHKの将棋番組と、あと日本画を見ることです」って答えたんだよ。そしたら「僕も日本画を描いてる」って言うから。
 まさか、それが、嘘だとは思わなかったから……。
 大学のゼミでも、パートのおばちゃんに同じこと言ってもさ、「日本画って地味じゃない? 油絵とかならわかるけど」ってみんな言うから、だから、お兄ちゃんに教えてもらった日本画のことを、沢山話せて楽しかったんだ。
 ねぇ、私、全部覚えてるよ。
 日本画は絵の具に鉱石を使うってこと、だから岩絵具っていうんだ。ハンマーで叩いて、削って、ミルで挽いて粉末状にして、ニカワと混ぜ合わせてペースト状にしたものを水で溶いて。一筆、一筆塗っていく。
 前にさ、なんでお兄ちゃんは絵を描く人になったの? って聞いた時、『うまく言えないけど、それを話せたら絵を描いてないと思う』って言ってくれたこと。
『希少鉱石を砕いて、殺して、絵に残す。人口でも合成でも模造でも、鉱石の価値は美しさよりも化学で裏付けされている。でも情報は純粋じゃない。少なくとも俺は打算的だから、受け売りだけど、コウモリの糞からでも微弱な電波は出ていて、だから加工するんだよ。うまく言えないけど、たぶん俺がやってることはそういうことだよ』
 ねえ、覚えてる。
 お兄ちゃんが話してくれたことは、全部覚えてるんだよ。
 全部、忘れてないよ。
 ……
 ……
 ……
 ねぇ、お兄ちゃん!
 ごめん、便箋いっぱい破いちゃった。
 ちょっと辛いことあって、それをさ。手加減なしで書き殴っちゃった。だから、今回は中途半端なとこで終わり! コマッ、私のペンが躍動する手紙をご覧にいただけなくて残念に思ってるだろうけど、まぁ、来月帰るからさ。その時にでもまた話すよ。そんなことより楽しみだなぁ成人式!
 
 PS
 長谷川さんとは本当に何もないからね!
 ちゃんと振りましたので。ではまた。

   谷川しいな
 


 さわさわと風が吹いて緑黄樹の木々が揺れている。夏の雲が浮かぶ空の下なのにも関わらず、気温の割に湿度は思っていたほど高くない。ちょっとした環境の変化でいつも体調が悪くなってしまう藍くんも、心なしか楽しそうでいる。初めての家で、縁側の風を浴びて、風鈴の音の下で初めてのおばあちゃんに会っても人見知りを発動させることはなかった。

「ばーば、おれ、ようちえんでいちばん足早いげんよ」
「そうなんかーすごいがいねぇ。ばーば足遅いから、藍と駆けっこしたら負けてしまうねぇ」
「なに言っとるん。そんなんあたりまえやし。タタヒロもサイちゃんもおれには勝てんげん。おれいちばん早いんやから」
「本当やねぇ、速い子の足しとるわ。膝小僧も肘も擦り傷つけて、大丈夫? もう痛くないん?」
 
 二人で顔を見合わせて笑っている。お母さんは藍くんの背丈にまで屈んで、笑みを崩さず。藍くんは胸を張るような仕草で得意げな顔を見せている。なんとなく、こちらまで嬉しくなってくる。皺だらけの母の手が、目元の滲みが、慎ましく穏やかな幸せを伝えるためだけに浮かんでいるように思う。 
 もしかして、藍くんはずっと寂しかったのかもしれないと、唐突に思った。
 息子は、パパがいない事実は受け入れてくれている。他の人にはいるのに、なぜ自分にはいないのだと、泣きながら顔や胸を叩かれたこともある。だけど、もしかして自分には、おじいちゃんや、おばあちゃんすらいないのかも知れないと、幼いながらに諦めさせていたのかも知れないのだと、今更ながらに気がついた。
 照れ臭そうな笑みを浮かべる藍くんを見て、改めて申し訳なく思った。
 それにしても、正直、母がここまで子供に対して柔和な態度を取るような人だとは想像していなかったし、実際に見たこともなかった。
 この町にはもう、小さな子供は一人もいない。子供が生まれてもその家庭は、すぐに内浦の方へ引っ越してしまうからだ。折戸町は日本海の波が激しい外の海の地区に属しているから外浦と呼ばれ、穏やかな内の海の内浦とでは、同じ珠洲市でも町の規模がまるで違うのだ。
 内浦にはスーパーがあり、居酒屋があり、仕事も学校もある。生活に必要不可欠な人工物が一通りが揃っている。外浦には何もない。学校だって、小中学が合わさった建物があるだけだ。
 
「杏奈、お墓参り?」
 母の声が一段低く私に迫る。私は渡されたグラスを受け取って、ごくごくと一気に麦茶を飲み干してから、「うん、今から行くところだよ」と答えた。
「しっかりお参りしてきなさい。その為に来たんやろ?」
「正解」
「久しぶりに顔出したと思ったらそんなに痩せて、あんたちゃんと寝とる? 食べとるん?」
 その言葉は、鼻の奥のツンときた。
 お腹すいてない? 学生時代、母からよくその言葉を貰っていたことを思い出した。
 父親がいない家庭で、母はひとり、私を育ててくれた。父は私が五歳の頃に、漁に出て戻ってこなかったと聞いた。この町では、特に珍しいことではない。
 蚊取り線香の匂いが充満する玄関を抜けて、学生鞄を自室に放り投げてから居間へ向かう。縁側の風鈴がチリンと鳴って、西日が差した木目の床に寝転んで、いつも母の帰りを待った。空腹のためか、疲れのためか、いつの間にか眠ってしまった私のお腹にタオルケットを被せてくれた母が、起き抜けの私を見咎めて二、三、小言を告げた後に「お腹すいとるやろ?」 そう声をかけてくれたことを──。


 四大学を卒業した後は、そのまま金沢で就職した。
 食品加工を取り扱う中小企業で、就職活動の内訳に学科試験はなく書類選考と面接のみで採用された会社だった。工場勤務は社員、パート、アルバイトを含めて四十人。配送車を扱う人間は十人にも満たない。私は経理と総務の複合事務として、本社の一区画で主に伝票処理を請け負った。
 にぎやかな会社だった。特に営業部の男たちは明るく朗らかで、各々の仕事に美学を持ち、日中は外回り、夕方になれば帰社し自身の仕事の進捗状況を話し合い、見積もり作成やプレゼン資料作成の業務を嬉々としてこなしていた。
 週末には誰からともなく声をかけ、飲み屋街へと消えていく。私が誘われることも多かった。
 北陸随一の繁華街、金沢片町に顔を出すようになったのは丁度その頃のことだ。ネオン街の煌めき、珠洲市にはまだ生きている、化石のようなアセチレンに似た光。裏通りの高級飲食店は一見さんお断りで、「いつかこういう店でたらふく飲みたいな」「お前は無理、行儀と育ちが悪い」などと笑い合い、日々の営みを完結させていく。
 なんとなく、故郷に置いてきた折戸町の住人に似ていると思えた。
 初めての彼氏ができたのも、片町がきっかけだった。
 花の金曜なのだからと誘われるままに連れ出された居酒屋に、いつものみんなはいなかった。おかしいな、みんな店間違えてるのかなと白々しく話す西村さんは汗だくで、空調の効いているモツ鍋屋の個室で向かい合って座り、「ごめんなさい嘘をつきました。今日はあなたしか誘っていません」と頭を下げてから、ヤニで汚れた前歯を見せてニッコリと笑った。
 西村さんは三十歳で、肩書きは主任だった。
 肩幅の広い丈夫そうな体に似つかわしくない緊張しいで、よく額に汗をかいていた。仕事終わりに何度かデートに誘われて、休日にドライブデートに誘われることも増えた何度目かの日曜に、「付き合ってほしい」と告白を受けた。
「ごめんね」と言う、西村さんの口癖が好きだった。彼は事あるごとにその言葉を口にした。
 特に何かのきっかけがあったわけではない。誕生日だとか、クリスマスだとか、そういった記念日とは関係のない。なんでもない平日の夜に、何度目かのキスをして、誘われるままに私は初めてを捧げた。
「ごめんね、痛いよね」で始まった初体験は結局、「もうダメだ、ごめんね」で終わった。
 泣きながら笑った。痛みのせいもある。けれど、それよりも何よりも、きっとこの人で間違いはないと思ったから泣いたのだった。彼は優しく私を抱きしめてくれて、私は彼の脇の下に潜り込むように眠った。
 何故だかわからない。でも、その日からだ。谷さんの夢を見るようになったのは──。
 




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