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シーグラス-3

 不意に手を引かれ、慌てて振り返ると藍くんが私を見上げていた。
 母の姿はなく、ぽつんと取り残された藍くんが不安そうに私を見つめている。
「どうしたのー」と抱っこして、「よしよし甘えんぼさんかー?」と体を揺すると笑いながらジタバタと振り解こうと抵抗してくる。
 しばらくして戻ってきた母は、「はい、線香と蝋燭。花はそこら中に咲いとるから綺麗なの選んで持っていきまっし」とビニールバックを手渡してくれる。

「それじゃ、まあ。行ってくる」私は藍くんに手招きをした。「海、行くよ」
「海!」
「そうだよー、泳げないけど。足先パシャパシャぐらいはさせてあげるよ」
「ぱしゃぱしゃできるん!」
 
 はしゃいでいる藍くんが靴を履いている間中、玄関先に留まる母は私を見ていた。
 不意に思い出す。私はこの顔を見たことがある。あれは、そうだ。成人式を控えた美容室で、鏡越しに見た微笑みと同じだ。

「行ってらっしゃい、杏奈」
 その言葉には応えずに、私は背を向けて息子の手を引いた。胸が苦しかった。ダメな娘で申し訳ないと思った。何よりもなお、私は、今の今まで母に嫌われていると思っていた。そんなわけがないのに。いつもそうだ。私はいつもそうだ──。
 

   谷川照一様へ
 何を書いていいかわからず、手紙の返事が遅くなってしまったことを、まずは謝るべきですね。ごめんなさい。
 もう外はすっかり梅雨で、ずっと雨が降っていることをいい事に、最近はずっと部屋に引きこもっているよ。大学もあんまり行けてないし、バイトも辞めた。でもまあ、貯金もあるし今のところは大丈夫です。
 なんて、馬鹿みたい。こういうとこがダメなんだよね。でも、今まで。どうやって手紙書いてたかもわかんない。
 本当にごめんなさい。
 お兄ちゃん。
 ねえ、本当にごめんね。
 これを書いてる今も、あれからずっと、お兄ちゃんにもう手紙送っちゃダメなんだって、もう終わりにしなきゃなんだってわかってるのに、ごめん。
 ねえ、ねえお兄ちゃん。
 ずっと嫌だった? 違うよね? だって、お兄ちゃん嬉しそうにしてくれてたじゃん。
 だったら、ねえ、いつから嫌だった? 
 私、うざかった? 気持ち悪かった? 
 そうだよね。
 でも、そうだよねって思いたくない。
 酷いよ。
 私、お兄ちゃんが好きだった。
 ずっと一緒にいたって、そう思ってる。もちろん、離れて暮らしてて、他人だし、外で会っても見つめるだけで、声すらかけなかった。
 それでも、思い出はあるんだよ。
 子供の頃、二人でよく海に行ったよね。お兄ちゃんは海岸の石が好きで、ずっと歩き回って覗き込んで、沢山の綺麗な石をポケットに詰めてた。
 私は水着の上にTシャツで泳いで、いつもお兄ちゃんに手を振った。あの夏の日の、綺麗な里山の海で、私、こんな日がずっと続けばいいって、続くはずだってそう思ってた。
 なんて、ごめん。やっぱり私が悪い。
『甘えてた、ごめん』じゃないんだよ。
『もう解放してあげる』じゃないんだよ。ねえ、なんで泣いたの。泣かないで欲しかった。言わないで欲しかった。ずっと、私は、お兄ちゃんの側にいたかった。
 甘えてたのは私の方だ。お兄ちゃんは悪くないよ。
 ねえ、私、友達いない。
 本当はバイト先のみんなにも無視されてる。一日、誰とも話さない日もある。わからないんだ。ほんとになんで私、嫌われるのかわからない。
 朝起きて、いつも必ずポストを確かめるんだ。お兄ちゃんから手紙が届いてないかって、それが一日の始まり。それから大学へ行って、誰とも話さないままお昼ご飯の時間になって、トイレで一人、お弁当を食べる。
 講義が終わって、バイト先に行って、黙々と天ぷらを揚げてさ。
 パートのおばちゃんに嫌味言われて、バイトの女の子に陰口叩かれて、ねえ。私ヤリマンなんだって、そう言われてる。パパ活女だって、穴モテなんだって、そう言われた。わからなくて調べたら酷い言葉だった。
 だから男の人近づいてくるんだって、やっとわかった。店長も、長谷川さんも、すぐにヤらせてくれる女だって、そう思ってるから触ってくるし、誘ってくるんだ。
 本当はずっと辛かった。早く、珠洲に帰りたかった。お兄ちゃんに会いたいってずっと、いつも思ってた。
 だから、家に帰るときにポストに手紙が入ってると、本当に嬉しくて、いつも泣きそうになった。
 でも、甘えてばかりじゃダメだってことも、ちゃんとわかってた。
 このままじゃダメだって、それを伝えてくれたんだよね。
 うん。今までありがとうって言わなきゃだね。
 ね、本当にそう。
 しゃんとしなきゃってわかってるのに、最後なのに、ごめんね。また心配かけさせるようなこと書いちゃったけど、まあ、大目に見てよ。かわいいかわいい、妹でいてあげたんだから。
 なんか、自分で書いててちょっと笑っちゃった。妹ではいてあげたけど、(私は頼まれた記憶がないけどね!)かわいいかどうかは別だった。
 最初の手紙って、いつだっけ、私が小学校二年生だったことだけは辛うじて覚えてるけど、よくもまあ、続いたもんだよね。
 じゃあ、まあ。つらつらと書いたけど、これ以上は野暮だよね。
 今までありがとう、お兄ちゃん。成人式の振袖、見てくれて嬉しかった。あっ、かわいいって言われなくて残念だったことも思い出しちゃったじゃん。もう。あれ悲しかったんだから。
 それじゃあ、元気で。風邪に気をつけてね。
 さよなら、お兄ちゃん。大好きだったよ。


   斎藤杏奈

  
 
  岩壁に囲まれた要塞のような隠れ岬の窪地で、車を止めてエンジンを切った。母から持たされたビニールバックは、かつての私たちがこの海に遊びにくるときに人知れず用意されていたもので、今更だけど、母はきっと私たちの関係に気付いていたのだなと思った。全貌は知らなくでも、少なくとも勘づいてはいたのだと。そりゃそうだ。子供のやることだ。手紙も、その筆跡も、最初の頃は郵便番号はおろか住所も記載されてはいなかった。
 ときおり抜けていく風が優しい。コンクリートに裂け目に生える逞しい草花を抜けて、石段を登っていく。藍くんはニコニコと微笑みながら、よいちょよいちょと自らに掛け声を掛けて私の数歩前を一人でに歩いていく。
 背の高い大きなひまわり畑を抜けた広場にお墓があり、そこに谷さんがいた。
 時計を見ると午後六時。日の入りまでにはあと一時間はあるだろう。約束の時間ピタリに来た私たちとは違い、谷さんはもしかしたら、ずいぶん前からここにいたのかも知れない。
 綺麗に磨かれた墓石の香立てには、三分の一ほどまで短くなった線香が煙をたゆらせていた。その前で、しゃがみこんで目を瞑り、手を合わせている。

「谷さん。来たよ」そう声をかけた。続けて藍くんの手を引いて、「藍くん、谷さんだよ」と目の前の男を紹介した。

 ゆっくりと目を開けた谷さんは、やっぱりゆっくりと立ち上がり、私の目を見て微笑んだ。
「久しぶり、杏奈」
「うん、本当に」そう返事をした。
 立ち上がった谷さんに驚いたのだろうか。藍くんが私の背に回り込み、ひょこりと顔を出して見知らぬ男を観察している素振りを見せる。
 
「ちょっとだけ待ってて」
 
 ビニールバックから取り出した蝋燭と線香に火をつけた。マッチの火が風で消されないように手のひらで壁を作る。マッチを擦ると燐が炎上音を立て始める。既に火を灯している蝋燭がある事を思い出したのは、すっかりと、線香に火を移し終えてからだった。私は少し、緊張しているのかも知れない。
 ポケットから数珠を取り出し手を合わせる。目を閉じて、祈る。内容はなかった。だけど、それでもいいと思えた。続いて、藍くんを手招きし、同じように手を合わさせた。

「あれから、色々あったんだ」声色に意味を乗せるように、私は言った。「この子は私の息子で、名前は藍。藍色の藍だよ」
「うん。小さい頃の杏奈によく似てる」
「ね、かわいいでしょ」

 しばしの沈黙が流れた。声色に意味を乗せて、十年分の空白を上乗せして、あの時、選ばなかった言葉の意味を考えた。 

 語りたい生活があった。
 演じたい女の子がいた。
 夢を見た初恋があった。

 しいちゃんがいた。あの時、この場所で、私と谷さんと、しいちゃんがいた。苦しい毎日に、いつもお兄ちゃんがいてくれた。辛くて悲しくてやり切れない日々に、いつもお兄ちゃんがいてくれた。

「お願いがあるんだ」
 谷さんが口を開いた。十年ぶりに聞く、唇の震えたあの日の声だった。それを合図に私は立ち上がり、彼の前に一歩進んだ。

「なに?」

 心臓が確かな鼓動を実感させる。脳が、肺が酸素を欲しがっていることがわかる。私は、泣いていたのかも知れない。自分ではよくわからないけど、頬が冷たく、そうして熱かった。
 折戸のみんなの顔が浮かぶ。しいちゃんの顔も、よくやく思い出した。小さく笑うひまわりのような女の子。私が演じた、もう一人の私。
 悲しみは海に、笑顔は空に、この町の道は金沢へ通じていて、いつも私たちは繋がっていて──。

「頭を、撫でていいか? 杏奈」

 頷くと、谷さんが三十路の私の髪を撫でた。


お肉かお酒買いたいです