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浮気しないでね。と言われるのが苦手だ。

擦れた女を気取るわけじゃないが、どうしても、ずっと苦手だ。恋人と順調だとしても、そうじゃないとしても。

結婚前は何してもOK!どんどん遊んでこー!というような自由主義者や、複数パートナーとの関係を持つことをスタンダートとするポリアモリーというわけではない。恋人がいるとき、相手はひとりだし、恋人を悲しませること=浮気はしたくない。

ただ、どうしても表現方法に窮屈さを感じてしまって、苦手なのだ。

こんな面倒なことを言うと未来の恋の可能性が減るかもしれない…?が、吐き出してみたい気分なので書いてみる。

「言っても意味がない不毛な言葉」

文章にするにあたり、自分と同じようなことを考えている人はいないだろうかとGoogle先生に聞いてみたところ、いらっしゃった。

日常会話の中には、「言っても意味がない不毛な言葉」ってたくさんある。たとえばその代表格が「ぜったい浮気しないでね」だと思う。

そんなん、なにがあっても浮気しないタイプの相手には、そもそも言う必要がないし、機会さえあれば浮気するタイプの相手には、それこそ言っても無駄だよね。

引用:佐藤友美「ぜったい浮気しないで」って言わずにすむと、みんな楽になるのかな?

かなり共感した。「浮気しない」という口約束は不毛で野暮な言葉である気がしてならない。誤解を恐れずに言うと、それは本質的に不可能だと考えているからだ。

恋するときはふたりだけれど、結局「付き合う」というステータスを成り立たせているのは、ひとりとひとりの、個々の感情である。心の動きはいわば反射で、なにかを「思え」「感じるな」という感情操作は、自分に対しても物理的に不可能だ。まして他人のそれなど、どんなに向かい合っても直接操作することはできない。

それをどうして口約束ひとつで実現できようか?そんな風に思ってしまう。

無意識をコントロールする?

「デートの約束は守ってね」「(同棲中なら)当番の日はお皿を洗ってね」と言ったような行動に関する約束ならわかる。実際のアクションは意識的に変えられるからだ。

恋は大抵の場合、無意識下で発生する。だから「落ちる」という表現が使われるのだ。気づいたら落ちてしまうものをコントロールできるだろうか?

だから、「浮気しないで」なんて言われると、居心地の悪さを感じてしまうのだ。
相手だけを好きでいることをわざわざ言葉で強制されている状態では、自分の好きは真実ではなくなってしまうような気さえしている。わたしなら、ねだって無理やりもらう好きなどいらない。

「いいからやれ」という言葉をずっと窮屈に感じていた、偏屈な子供時代からのくせかもしれない。小賢しい。
すきぴしか勝たん♡一生一緒♡なんて、素直に恋愛できたら良いのに…とも本心では思ってしまうが、性格上無理なのもわかっている。

遊んだ後片づけようとしてるのに、ちゃんと片づけなさいって言われた気分

書きながら煮詰まったので、ためしにインスタで「浮気しないで」と言われたらどう思う?と友人たちに聞いてみた。思った以上に答えてくれる人が多くて楽しくなりました。ありがとうございました。

見出しは回答のなかのひとつで、しっくりきた表現。自分にとって当然のこと、もしくはすでに心掛けていることを重ねて言われるとうんざりしてしまう心理、あるよなぁ。ポリアモリーでないかぎり、相手を恋人として選んでいる時点で積極的に浮気する世界線がないことを意味しているのに、野暮なことを言わないでと思ってしまう。

他には、

- する前から疑われてるように感じて、いい気はしない
- 言っても効果あるとは思えないから何故言うのかわからない
- そんな選択肢あるってことは逆にあなたがするってこと?
- 好きなのに、信用されてないと感じる
- 言われたらできないなぁと思う

などがあった。類友という言葉があるように、友達は似たような思考を持った人間が多くなるので、これが世論というわけでは決してないが、個人的には頷けるものばかりだなと思った。

じゃ、どうしたらいいの?

ここまで可愛気のない理論を展開してきたが、浮気しないでという直接的な表現に疑問を抱いているだけで、浮気を無条件で是としているわけではない。浮気自体がしたいわけじゃないし、恋人が自分を置いて他に行ってしまったら、きっととても悲しいと思う。

これまで、恋人しか見えない時期も、他の人に惹かれてしまった倦怠期も経験したことがある。

ただ、それは必ず時の流れに沿って訪れるイベントというわけではなく、最初から最後まで絶えず好きで、ほかの人が全く目に入らない恋愛だってある。

そんなときは、浮気という概念自体が自分の世界から消え去っているものだ。相手が好きなら相手しかいらないし、わざわざ悲しませたくなどない。
誰かを好きになることが本当は自由であるこの世界で、浮気禁止という言葉で相手の心を縛るより、自然と「あなたが必要だ」と思ってもらえるようでありたい。

こういう状態を保つことが、浮気で関係が終わることを自ずと防ぐのだと今は考えている。
そのためにできるのは、目の前の相手にまっすぐに、愛と感謝を伝えること。相手を思う言動や行動で幸せを感じてもらうこと。こういうシンプルなことを積み重ねていった先に、人生を共にしたいという思いが芽生えるのだと思う。

浮気禁止令で相手をコントロールする不可能に挑んで虚しさを感じるより、相手を笑顔にするために自分が何ができるのだろう?という前向きなテーマに心のリソースを費やしたい。

あとがき代わりの余談

この記事を書いていて、恋愛リアリティショー「バチェロレッテ」の衝撃のラストにヒロインの萌子さんに対するディスがSNSにあふれていたのを思い出した。

集められた男性メンバーと時を過ごし、最後には「真実の愛」―つまり、1名の恋人を見つけるという趣旨のこの番組で、萌子さんが選んだラストは「誰も選ばない」というものだった。
ディスには「バチェロレッテとしての責任を持て」みたいな意見が多かったけれど、これには浮気禁止令と同じ類の大きな違和感を抱いてしまった。感情をコントロールしてまでする恋愛、それじゃよくできた、でもたぶんつまらない芝居だ。全然リアリティショーじゃないよね。

恋愛は義務なんかじゃない。それでもひとは不意に恋に落ち、強制されたわけでもないのに相手を思い、自分の意思で恋人を大切にする。その景色の中に幸せがある。
だからこそ、たとえそれが番組だとしても、他人の恋愛感情に部外者が責任という固い言葉を投げ込むのは、とても野暮ったいなあと思ってしまったのだった。

こういう考え方だから、ラストも含め、バチェロレッテはとても面白かった!萌子さん、とても好きでした!
恋愛ショーを見たというより、パワフルで魅力的な彼女のドキュメンタリーを摂取したような感覚、新しかったです!!

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