筆の使い方 ― 望月もちぎ「エッセイの暴力性 〜自分の過去を人に話したい人へ。」を読んでの自戒
深い井戸の底から一生懸命這い上がろうとするのに、そもそも落ちた衝撃で弱った体は思ったように動かない。疲れてしまって声も上げられない。状況に絶望して、そのあと命がどうなろうが冷たい水の中で眠ってしまいたくなる。
月末~月初の1週間はPMSで身体的にも精神的にも最悪のコンディション。どうしようもなくなりがちで、いつもこんな調子。
生理が来た瞬間にすべてが元通りになって、あっさり地上に上がれるんだから不思議だ。
投薬でもアロマでもヨガでも、色んなことを試してはいるがなかなか治らない。完全治癒は難しそうで、付き合っていくしかないと思うと気が重い。
こんな時期にでも、創作意欲が湧くタイミングはある。
ただ、この時期はその欲求が良からぬ方向に行きやすいという自覚がある。
後述の「地獄」が生み出されるのは大体この時期だ。
今日はそのことについての自戒を書いていこうと思う。
エッセイの暴力性
ずっとファンだったゲイ風俗のもちぎさんの記事。
途中から有料記事なので、内容すべては引用できないが、エッセイに宿る暴力性について書かれている。
素晴らしい文章だったので、気になる方は是非購入して続きも読んでみてほしい。
アカウントに眠る地獄
主題は別にあるが、過激な内容~のくだりを読んだときは反射的に自省してしまった。
私のnoteアカウントには大量の非公開記事が眠っている。
半分は未来に完成させたいと思っている記事のメモだが、残りは、ただの内部告発だったり、行き場のないどろっとした憂鬱さをぶつけた闇記事だったりと、地獄みたいな文章の掃きだめだ。
最近は生活が安定しているので、これ書きたい!と思うのは大体、人のやさしさやかわいげなどの人畜無害な内容だが、書きたい衝動を掻き立てるのはそんな平和な感情だけではもちろんない。
半年くらい前までは、なんとかこの不条理を社会にわかってほしい、というような青臭い怒りが主な創作の動機だった。明確に、「こんなにひどいことをしたあいつへ」というような特定の個人への抗議目的で書いたものもいくつかある。
その記事はぜんぶお蔵入りにしたが、その時期はちゃんと公開した記事もそのマインドがうっすら見え隠れしているなあと、読み返してみると少し恥ずかしい。
ただ地獄のほとんどを自分にしか見えない掃きだめでなんとか守れているのは、鼻息荒く憤る私にも少々の想像力が残っているからだ。
人の見た目をこきおろすのが大好きだったあの人、
まだ幼いお子さんがいると言っていた。
万が一パパが大変なことになったら…
ここでこの言葉、行動を選んだのは
この人なりの理由があるのかもしれない。
こんな風に一度冷静になると、公開ボタンで地獄の一端を社会に放流することをギリギリで防げる。感情だけで告発文のようなものを世に出してしまうのは、いきなり筆で人を殴るようなものだと思う。
暴力を奮ってしまうほどの衝動に駆られたのは紛れもない事実だが、それを実行に移すか移さないかで運命は大きく変わる。
勿論世には、この筆で成敗すべき問題も沢山あると思う。いじめや、セクハラパワハラとか。
私の掃きだめの中にも、本当に、公開して何とかしたほうが良いんじゃないかと思うような状況もあった。しかし、何も感情のままいきなり記事にすることだけが解決策ではないとも思い、踏みとどまっている。
(子持ちの方に向けてのくだりは、冷静になれよという自戒と、お願いだからお子さんまで人の見た目を笑うような大人にならないでほしい、という願いのダブルミーニングをこめて書いているが、これは正常な判断で公開しておこうと思う。本人は読まないし、読んでもきっと気付かない。そこだよなぁ…と思いつつ。)
暴力性はすべてのエッセイにはらむという自覚
とまあ、私はアカウントに眠る地獄をなんとか放し飼いにするのを食い止めているといったようなレベルにとどまっていたが、もちぎさんの言いたいのはここじゃない。
実体験をもとにしたエッセイには、批判的な内容でなかったとしても暴力性が宿っている、というのが主題だ。
確かにと考えさせられた。自分以外の他人が登場する時点で、私は自分の文章でその人の印象を自由に操作することができる。たとえそれが前向きな内容だとしても、意に介していないかたちで読者に受け取られてしまう可能性もあるだろう。
あくまで私の文章を公開するうえでの基本趣旨は、
自由に楽しんで書く。
それで誰かの心に前向きなものを残せたら最高だ。
といったような完全ゆるふわ営業で、とてもじゃないけど責任というような堅苦しい言葉は似合わない。
ただ、他人が出てくる経験談を語る以上、自分の文章でその誰かの印象を変えうることへの責任は持つべきで、なおかつそれは決して軽くないということを忘れてはいけない。私自身の誰かとの経験を書くのだから、それをひっくり返せば、誰か自身の人生の1ページを書くことになる。
そんな他人をピックアップして自分の書き散らす文章のなかでも生きていただいているのだから、敬意を持って、本人に許可をとるなり、メッセージが変わらない程度に大きくフェイクを入れるなり、今後もしていきたい。
(余談だが、このフェイクを入れる作業が個人的に好きだ。設定は大胆に変えてるのに伝えたい内容は伝わるのって、たとえばその人の性別や年齢なんてのは記号で、大した違いじゃないのだと気づかされる)
登場人物が意図しない形で不幸にならないように。
ゆるふわ営業でもそれは守っていきたいともちぎさんの記事を読み返して思いましたとさ。
なんなら私の記事で幸せにするから、なんてプロポーズできるくらいの、良い物書きになりたいなぁ、なんて。
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