私の経歴、大道芸を始めたわけ、大道芸とは何か 一九九五年・夏 ①/十分割 【仮公開】

内題:私の経歴、大道芸を始めたわけ、私にとって大道芸とは何か、などについて(友人の写真家・M君への手紙)一九九五年・夏 ①/十分割

初稿脱稿一九九五年・夏/改稿冬~一九九六年・初夏

【未発表/縦書き発表用原稿】

仮公開二〇二一年三月二十一日(仮公開に当たって適宜、加筆・訂正・削除等を行う/最終加筆、二〇二◼️年◼️月◼️日)

括弧〔 〕は漢字その他の振り仮名の指定

【点検中】

[縦書き発表用にアラビア数字を漢数字に改める/「 」と〈 〉の使い分けを明確、厳格に/括弧類(「 」、『 』、〈 〉)の着脱を明確に、意識的に/漢字か仮名か、或いは振り仮名付きか/M君〔←ママ〕/一〇九百科店(仮名)〔←ママ〕/某国立大学〔←ママ〕/教会合唱団〔←ママ〕/段落の変わり目に適宜アステリスク(*)を入れる]

 M君の質問にお答えしているうちに、半〔なか〕ば自分自身のための文章、長い文章を書いてしまいました。というのは、ご質問のうちのいくつか(僕の経歴について、収入の内訳〔うちわけ〕についてなどはよいとして、ほかに例えば)、大道芸を始めたわけは? きっかけは? 僕たち夫婦のライフスタイル、つまり秋・冬・春を日本で稼〔かせ〕ぎ、夏の四か月を欧米の旅で過ごす理由は? また僕にとって大道芸とは? その理想、目標は? などが、実は今までにも新聞、雑誌の取材その他で一番多く聞かれてきたことで、しかし、限られたスペースの中で手短に答えるということができず、いつも逃げてきた質問だからです。

 「大道芸は天職だ! 天の声を聴いたのだ」

 と答えてみたりもし、実は僕は本当にそう考えてもいるのですが。これらの質問は、しかし裏を返せば、もっと真正面から答える努力をしてみる甲斐〔かい〕のある質問です。そして、時間さえかければ、それはできないことではないのです。それでこんなに長い返事になり、返事がたいそう遅れてしまいました。質問にお答えする順序もあっちへ跳んだり、こっちへ跳んだりでこちらの気の向くまま、M君に差しあたっては用のないことまで書いてあると思いますが、ご辛抱を願います。その代わり、ご質問には漏れなくお答えしたはずです。

 第一章 生年月日、他

 先ず、僕は一九五九年一月三十一日、福岡市で生まれ、現在(一九九五年七月現在)三十六歳。妻イクヨの名は、「育代」と書きます。

 第二章 日本マイム研究所

 僕の経歴についてですが、早稲田大学第一文学部で二年に上がるとき、僕は演劇学科を選択し、同時に日本マイム研究所というところに入所しました。この日本マイム研究所(東京都世田谷区駒沢〔こまざわ〕、所長、佐々木博康〔ひろやす〕師〔し〕)への入所が、僕の演劇修行、そして演劇活動の実質上の始まりで、一九七九年四月(二十歳の時)です。

 (僕がそれまでにどのような演劇経験をしたか、またなぜ演劇にひかれるようになったか、などについては省略します。)

 この日本マイム研究所は早稲田大学の演劇学科とは(系列上)無関係の教室で、ここに、大学卒業後もさらに続けて二年、計約五年間在籍。在籍中は、主としてアンサンブルのコミック・パントマイムを研究。短編作品を多数創作、発表しました。

 実は、僕の大道芸『人間美術館』は、これら多数の劇場用作品、そのごく初期作品のひとつを大道芸作品化したもので、もとは『世界の美術』という、これは、ソロ・パントマイムの作品です。舞台暗転の中、金管楽器の華やかな音楽に乗せて、劇場アナウンスが有名彫刻作品(また絵画作品)の題名を告げます。明かりがつくと、白タイツに上半身は裸の僕が、その彫刻のポーズを真似〔まね〕て立っている。数秒間じっとしている(動きは一切ありません)。そして明かりが消える。するとアナウンスが次の彫刻の題名を告げ、その間に僕はポーズをとり直し、再び明かりがつくのを待つ(以下、繰り返し)という、非常に単純な構成と演技の作品でした。古代ギリシアの彫刻から三体、日本の仏像が三体、イタリア・ルネサンスの美術から三体、モダン・アートが三体、計十二体。一九七九年の、確か十月(か、十一月)が初演で、日本マイム研究所に入所して、半年が過ぎたころです。この作品は当たりました。

 また、この『世界の美術』の姉妹編として、後に『ロダンの芸術』、『日本の仏教美術』というのもやりました。この当初はロダンの「考える人」も、広隆寺〔こうりゅうじ〕の「弥勒菩薩〔みろくぼさつ〕像」も台座に腰かけてやったのですが、後にヨガを少し勉強し、そのポーズからヒントを得て、〈大道〉に出したときこれらが初めて中腰の姿勢をとるようになり、人間美術館の売りのひとつとなります。

 ところで、いろいろな彫刻の真似をするというこのそもそもの思いつきが、初めどこから来たかというと、初めは「ミロのヴィーナス」です。パントマイムを習い始めたばかりで、パントマイムで壁や綱引きや風に向かって歩く、またエスカレーターなどなど、目に見えないもの(そこに実際にはないもの)を表現するテクニックに新鮮な驚きと興味を感じ、これらに熱中する一方で、まだ誰も思いついたことのない、僕のオリジナルなパントマイムのテクニックを発明したい! ところが、これがそう簡単ではない。現代マイムの祖エチエンヌ・ドゥクルーというフランス人が〈マイムの文法(身体の動きの分析、及び表現の規則)〉を整理し、この〈文法〉の上に立って巨匠マルセル・マルソーが、壁や綱引きその他、パントマイムの古典的、基本的なテクニックのほとんどすべてを、ただひとりで発見し尽くしてしまった感があるのです。

 こういうジレンマの中であれこれ模索しているうちに、或るとき僕は、左腕を、着ている半そでシャツの中に引っ込め、その腕を胸の前で上手にたたみ、このシャツの脹〔らみ〕で女性の乳房を表現することを、ようやく思いつきました。でも、これでは腕が片方もげてしまった格好〔かっこう〕ですから、これがミロのヴィーナスになります。脚や腰や首にも適度なひねりを加えます。

 この思いつきから、世界の美術より前に、先ず『ヴィーナスの誘拐』と題する作品をやりました。美術館から盗み出されたミロのヴィーナスが、深夜にひとり美術館に帰ってきて、出産をするという話で、しかしこれは成功作とは言えませんでした。

 この一方で、ミロのヴィーナスのほかにも、身体表現の研究材料としていろんな美術作品の写真の切り抜きをストックし、それを真似ることを始めていました。これが伏線となって、あるとき不意に『世界の美術』という作品の構想を得たのです。

 この劇場用作品『世界の美術』から大道芸作品『人間美術館』への転換については、のちに改めて[第十八章]ということにして、経歴の話に戻します。

 第三章 円形劇場、大道芸、シェークスピアシアター、イメージ・シネ・サーカス

 早稲田大学の演劇学科を卒業後さらに約二年間、道路工事のガードマンのアルバイトをしながら、日本マイム研究所でのパントマイムの研究、創作、発表を続けました。

 このときの道路工事のガードマンのアルバイトが、僕の最初で最後の、いわば「就職」です。

 あの劇団、円形劇場と出会ったのがこの時期、学業を終え、演劇活動に専念をし始めてから、一年ほどが経〔た〕つころです。はじめ、この劇団の〈学校公演〉の手伝いに、日本マイム研究所から派遣されるかたちで関わったのです。客演です。ところが、この劇団の演劇のあり方、考え方には目の開かれるところが多く、とくに舞台の周囲三六〇度に観客がいる、舞台と客席との間に段差がないということなどは、僕がこのしばらく後に大道芸を始めたとき、大道芸とは何か、大道芸で何ができるかを考えていくうえで、直接的、具体的なヒントにもなっていきます。僕が円形劇場と出会ったのが一九八三年の春(二十四歳の時)、大道芸を始めるのが同年の秋。そして、翌春(二十五歳の時)、日本マイム研究所を離れてからも、この劇団との関係は続いて行き、現在に至っているわけです(ただしこの劇団には、座友というか、比較的自由な立場で関わってきており、専属の座員として在籍したことはありません)。

 さて、それまでパントマイムに専念していた僕は、円形劇場と出会ったことで目が開け、もっといろんな演劇の世界に触れたい、ことに科白〔せりふ〕術の勉強は是非ともしておきたいと思うようになり、日本マイム研究所を離れることを考え始めます。

 ところで、日本マイム研究所在籍中は月一回の定期公演(発表会)があり、そのほかにも、お酒を飲んでいる観客たちを相手のショータイムのステージもあって、頻繁〔ひんぱん〕に舞台に立つ機会にめぐまれ、自分の作品や演技を絶えず生の観客たちの目にさらして試し、磨いていくことができました。これは、演劇の勉強にとって一番大切なことなのです。僕の演劇修行の最初の五年間、日本マイム研究所という風変わりな教室に身を置いたことは、いま考えても、僕の出発点でのたいへんな幸運のひとつだったと思います。

 しかし、この研究所を離れてしまったら、こういう実地修行の場は、自力でどこかに確保して行かなくてはなりません。この先どのような環境で演劇の勉強を進めて行くにしても、その新しい教室なり、劇団なりですぐにこういう場を与えられることは、まずないだろうと見なければなりませんでした。

 こういう岐路〔きろ〕に立つ僕の前に〈大道芸〉という道があった。これが、僕の大道芸の始まりについてのひとつの説明です。

 (これはあくまで一つの説明で、僕が大道芸を始めたわけは? きっかけは? というM君のご質問にはのちほど改めて、また別の角度から、お答えし直さなくてはなりません[第十二章、第十六章、第十七章]。)

 僕の大道芸の始まりが一九八三年秋、そして大道芸を演劇の実地修行の場として確保していけそうな見通しの立ったころ、一九八四年二月末に日本マイム研究所を離れました(二十八歳の時)。そして少し間をおいて、同年五月から、今度は東京都杉並区高円寺の劇団シェイクスピアシアター(主宰、出口〔でぐち〕典雄〔のりお〕師)附属の研究所に入所、科白術の勉強を始めることになります。

 この、日本マイム研究所を離れシェイクスピアシアターの研究所に入所するまでのつなぎの二ヶ月間、僕はとりあえず大道芸に専念。このとき、僕の未熟な大道芸でもガードマンのアルバイト程度には稼〔かせ〕げることがわかりました。これは大きな発見でした。大道芸を手にしたことで単に実地修業の場を確保できただけでなく、この先々の演劇修行、演劇活動を支えていくための〈副業〉を持つ必要がなくなったのです。ガードマンのアルバイトはすぐやめました。

 このあと三年半在籍することになるシェイクスピアシアターでは、他の同輩や後輩、先輩たちが皆、忙しい劇団活動の合間にいろいろなアルバイトをこなさなければならなかったのに、僕は、一日の時間のすべてを〈演劇〉に集中させることができました。日本の演劇界の厳しい状況を生き残っていくための手立てを、僕はかなり早い時期に見つけたことになると思います。そして、このころから次第に僕は、自分をプロフェショナルの〈演劇人〉だと考えるようにもなっていきます。

 ところでこのころ(一九八〇年代中頃)、東京の街頭には大道芸人(あるいは大道芸をやる人)というのがまだ数えるほどで、大道芸が今のようにあたりまえの風景だったわけでは全然ありません。外国人大道芸人たちが大挙上陸してくるのはもっとずっと後のことです。大道芸をやる人というのはそれぞれがとても孤立した存在でした。相互の連携、連絡がほとんどありませんでした。

 それで、この時期の僕は、大道芸とは何か、大道芸で何ができるかを、ほとんど手本なしに探っていくことになります。日本ではまだ新しい演劇分野を切り開いているのだ、という自負もありました。その際、大道芸を考えるヒントになったのが、ひとつには、先に述べたように円形劇場での経験でしたが[本章第三段落]、残念ながらシェイクスピアシアターでは原則、外部出演が禁じられていましたから、劇団円形劇場との関係も、シェイクスピアシアター在籍中の三年半、中断してしまいます。同じ理由から、シェイクスピアシアター在籍中の三年半は、大道芸関連のイベントなども経験していません。本当は、イベントやお祭りの広場で「大道芸」というか、それに近いことをやる先達〔せんだつ〕たちがいたのですが、僕はこれらの人たちの存在を知らず、これらの人たちから何かを学ぶということもありませんでした。結局、東京の雑踏が僕の大道芸世界のすべてで、ここで大道芸とは何か、ときどき警察のやっかいにもなりながら一人でコツコツと探っていき、少しずつ収入も増え、芸を学ぶ以上にまた街について、人々について、社会について学んでいきます。

 僕の大道芸にはほとんど手本がなかった、いやおうなくオリジナルなものにならざるを得なかった、このことは、後々海外で彼の地の大道芸人たちと渡り合っていく際、出発点での困難を報いて余りある強みにも、やがてなって行きます。

 一方、僕の大道芸についての考え方(モラル)、これをこれから追い追い述べていくわけですが、これは、最近になってから街頭に繰り出した日本人大道芸人たちの考え方とは、幾分(随分〔ずいぶん〕)、趣〔おもむき〕を異にすることがあるようです。

 経歴の話に戻します。

 大道芸と同時進行で科白術を学ぶために身をおいていた劇団シェイクスピアシアターでも、実は、研究所に入所してすぐに舞台に立つ機会を得、やがて正劇団員となり、その間いくつか大きな役もやり、小さな役もやりましたが、次第に〈プロセニアム・アーチ(舞台の額縁)〉の枠の中での演劇というものに不満を感じるようになり、というのは、以前の円形劇場での経験とそれにつながる大道芸経験の方が、僕の中により確かなものとして根を下ろし、根を張り始めていたからなのですが、三年強の在籍の後、一九八七年夏の初めに退団の意志を表明、持ち役の引き継ぎをして、同年秋まででこの劇団との関係を終えました(二十八歳の時)。

 ここからあとは現在に至るまで、僕はずっとフリーランス(無所属)の大道芸人、あるいはフリーの俳優・演劇人です。

 シェイクスピアシアターに退団の意思表明をしたときから外部出演が可能となり、一九八七年十月に初めて『野毛大道芸フェスティバル(横浜)』に参加。イベント業界との交渉が始まりました。日本や海外のさまざまな芸人たちを知るようになり、目からうろこの落ちる思いもしました。

 そして同じころ、むごん劇かんぱにい製作の『イメージ・サーカス』に初めて出演。これが現在の『イメージ・シネ・サーカス』に発展します([本章補足]に後述)。

 現在、僕はフリーの演劇人として、(一)大道芸、及び大道芸関連のイベントや大道芸フェスティバルでの活動、(二)劇団円形劇場、(三)イメージ・シネ・サーカス、以上の三つを主にしており、それ以外の仕事は極力避けるようにしています。

 収入の点から見ると、(一)大道芸、及び大道芸関連のイベントや大道芸フェスティバルでの活動からの収入が、僕の全収入の96パーセント以上を占めると思います。(二)円形劇場、(三)イメージ・シネ・サーカスは、収入よりもむしろ演劇修行、研究、発見の場として大切で、しかしこういうことを大切にすればするほど、話し合いや稽古〔けいこ〕に費やす日数、また交通費等の経費がかさむことになり、その間、(一)大道芸、も休止せざるを得ず、経済的にはマイナスとなってしまいます。

 ですから、収入の点からだけ見るなら、僕は「俳優・演劇人」を名乗るより「大道芸人」を名乗るべきかも知れませんし、実際そうすることの方が多いのですが、ただ僕は大道芸を〈演劇行為〉のひとつと考えており、またその前提にまで立ち返らなければ、僕にとって大道芸とは何か、この先々説明して行けないだろうと思うのです。

《私の経歴、大道芸を始めたわけ、大道芸とは何か 一九九五年・夏 ②/十分割》に続く。


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https://note.com/tarafu/n/n6db2a3425e5c

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