私の経歴、大道芸を始めたわけ、大道芸とは何か 一九九五年・夏 ②/十分割 【仮公開】

内題:私の経歴、大道芸を始めたわけ、私にとって大道芸とは何か、などについて(友人の写真家・M君への手紙)一九九五年・夏 ②/十分割

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 第三章補足 円形劇場、イメージ・シネ・サーカスについての補足

 ここで、円形劇場とイメージ・シネ・サーカスについて、説明を補足します。

 円形劇場は、現在、正式には「劇団うらら工房・うらら円形劇場」と称していますが、もとは「集団円形劇場」、或いは「自由演劇人集団・円形劇場」などとも言っていました。この「自由演劇人集団・円形劇場」の名がこの劇団の性格を一番よく表していると、僕には思われます。東京都江東区亀戸〔かめいど〕に事務所兼稽古場がありますが、専属の座員(劇団員)は現在、ごく少数となっており、むしろ、様々な分野の演劇人を、主催者である松枝〔まつえ〕錦治〔きんじ〕氏が随時、呼集するかたちで活動しています。

 普通の劇場公演もやりますが、代表作が、何と言っても『青い鳥はどこにいる』という中学生向けの作品で、これを、主に関東・東北の中学校の秋の文化祭のシーズンや春の卒業式前のシーズンなどに、各学校に持って回ります。実は演劇の世界で「学校公演」といいますと、多くの場合これは、自主公演(本公演)だけでは賄〔まかな〕いきれない、かえって赤字を重ねていくことになりかねない劇団経営を維持していくための、〈副業〉的な性格があります。ところが、この円形劇場の『青い鳥……』は、中学生たちにお芝居を見せる仕事とは何なのかを正面から問うたうえにできてきた、本格的な仕事なのです。

 中学校の体育館の真ん中に、直径八メートルの円形の〈舞台〉を設定、その周囲三六〇度に観客である中学生たちを配し、その名のとおり完全な〈円形劇場〉で上演します。相撲〔すもう〕の土俵〔どひょう〕が連想されますが、客席との間の段差はありません。一二〇度間隔で三方に花道(俳優たちの登退場口)があり、客席は三つに区切られます。

 その内容は、中学校三年生の男子生徒チルチルと女子生徒ミチルが、高校受験を控えてわき目も振らずに勉強をしているうちに夢の世界に迷い込み、日本の歴史の旅をすることになります。……縄文時代、古墳時代。古墳時代の重労働で大きな岩を引かされているとき、この苦役が受験勉強のイメージとだぶって見えてしまったり、そういえば、黙々と苦役に服する人たちの中に大勢顔見知りの中学生たちが交じっていたり。……戦国時代の戦乱に巻き込まれ、武士たちの一団に取り囲まれた窮地に、どういうわけか体育の担任の先生が現れて助け出してくれたり。……歴史は流れて、太平洋戦争の敗戦で戦犯の罪を問われ、東南アジアの名もない村で処刑をされる青年が、自分たちの大好きな、しかし気の小さな社会科の先生で、この青年を銃殺する兵士らの一団に自分たちも交じっていたり……。

 こういうお芝居を、〈額縁舞台〉でのお芝居とは違う〈円形舞台〉ならではの可能性を絶えず発見、実験しつつ、また中学校の教育現場の抱えるその時々の問題からも常に学びながら、作品も改訂に改訂を重ね、十二年間やってきているわけです。

 一方、『イメージ・シネ・サーカス』というのは、これは劇団名・団体名ではなく、作品名です。横浜市中区野毛〔のげ〕の芸能社、むごん劇かんぱにいの社長イクオ三橋〔みつはし〕氏(パントマイマー)を中心に、フリーランスの〈演劇人〉、というよりこの場合は〈芸人〉たちが集まって会議を構成。協同創作・協同演出で作る、こちらは(基本的には)プロセニアム・アーチ(額縁舞台)用の作品です。この総合演出をイクオ三橋氏、また製作の実務、雑事をむごん劇かんぱにいの職員の方々にやってもらい、現在、年一回の東京での自主公演(本公演)、また国内での若干の買い取り公演(演劇鑑賞団体等による招聘〔しょうへい〕公演)で上演するほか、今までにカンヌ(フランス)、モルジュ(スイス)、香港などに遠征しています。

 作品の内容は、分かりやすく言ってしまえば「映画の名場面集」で(しかしこれでは『イメージ・シネ・サーカス』の難しさや面白さを、何ひとつ説明したことにはならないのですが)、人々の心に残る古今東西の映画の名場面を、プロセニアム・アーチの枠の中で可能な限りの技術、ことにパントマイムの技術を駆使して(というのは、主な出演者七人全員がパントマイムの経験者なのですが)舞台に再現する、というより、原作のエキスだけを抜き取って俳句のように凝縮したり、逆に原作の一場面を私たちの思いのままに膨〔ふく〕らませたり、原作にはないシーンや登場人物まで付け加えて本当に映画にあったかのごとく演じたり(例えば、公園で子犬と戯〔たわむ〕れているチャーリー・チャップリンの前に、太古の恐竜を飼い慣らしてバスター・キートンが現われる)。これを言い換えると、〈映画技術〉よりばるかに原始的で限界の多い〈舞台技術〉で映画の原作シーンに迫り、それを越えて行くことが、イメージ・シネ・サーカスのやり甲斐〔がい〕、醍醐味〔だいごみ〕のひとつなのです。

 そして、この私たちイメージ・シネ・サーカスのグループの最大の特徴は、実は、作品の内容(コンセプト)以前に、出演者の一人一人が普段はソリストとして舞台を仕切ることのできる(こういう言い方はどうでしょうか、あえて言うと)舞台での自分の顔に責任を持つことのできる〈役者〉であり、又、舞台での自分の立ち居振舞いに自分で責任をとることのできる〈演出家〉でもあるということです。これがイメージ・シネ・サーカスのデメリットに転化してしまうこともなくはありませんが、ここでは、あえて長所だと言い切っておきましょう。

 第四章 海外活動、他

 経歴の話を二、三補足しておきます。

 シェイクスピアシアターを離れフリーランスとなった翌、一九九八年夏(二十九歳の時)、初めて海外へ出、アメリカのボストン、ニューヨークなどで二ヶ月間、大道芸をやりました。ボストンは何とかなりましたが、ニューヨークは僕の芸では全く歯が立たず、意気阻喪〔いきそそう〕しました。

 二年目もそうでした。二年目は一ヶ月限りで帰国。

 三年目からようやくニューヨークでもどうにかやって行けるようになり、この夏、初めてニューヨークを越えて、ヨーロッパ大陸に渡りました。そしてここから先は、毎年夏(三~)四ヶ月前後欧米で活動するようになり、その際、ヨーロッパに入る前に必ず一度ニューヨークの関門を潜(くぐ)ることが、僕の習わしとなりました。

 ヨーロッパは、最初パリ(フランス)に入り、パリを起点にして南に北に少しずつ活動域を広げてきました。こうして今までに欧米は九か国、三十都市前後の街頭及び大道芸フェスティバルで活動、その中でも特にバルセロナ(スペイン)、アヴィニョン(フランス)、そしてやはりニューヨークが気に入って、これらを毎年一度は必ず訪れるようになりました。

 今年の旅が八年目の旅になります(ヨーロッパに限っては六年目です)。東ヨーロッパにはまだ足を踏み入れていません。

 北ヨーロッパはストックホルム(スウェーデン)を、今年初めて訪れる予定です。(一九九五年七月現在、)今、南フランス・アヴィニョンにいますが、このあとバルセロナに引き返し、そこから飛行機でストックホルムに飛びます。ヨーロッパ大陸内を飛行機で移動するというのは、実は、今までの僕たちの旅の原則から外〔はず〕れるのですが、ここでひとつフェスティバルの仕事をしなければなりません。それからは地道に列車でオスロ(ノルウェー)、コペンハーゲン(デンマーク)、ベルリン(ドイツ)と、初めての街々を逆に北から下って来て、すでに訪れたことのあるベルギー、或いは南ドイツの街々へとつなぎます。つまり、僕たちがこれまで五年かけて描いてきた西ヨーロッパの〈大道芸地図〉と北の未知の街ストックホルムとを、線と点(鉄路と駅)とできちんと結ぶ作業をしなくてはならないのです。これを怠〔おこた〕ると、ストックホルムを僕らは単に〈フェスティバル芸人〉として訪れたことになってしまい、〈大道芸人〉として(或いは〈旅芸人〉として)ストックホルムという街を「知った」ことにはならないのです(こういう僕の旅の考え方について、これも後ほど改めて触れることになります[第九章、第十章])。

 そして、ベルギーのバーレンという街で今夏〔こんか〕二つ目のフェスティバルの仕事をしてから、アムステルダムに折り返し(アムステルダムは四年振り、二度目の訪問になります)、そこから日本へ飛び帰ろうというのが大まかなプランです[旅程の前半(アヴィニョンまで)については、第九章]。プラン通りに行くかどうかは分かりませんが……。

 以上のほかに、日本が真冬の時期に、一度、オーストラリアのシドニーとゴールドコーストを訪れたことがあります。

 実は今、僕の大道芸地図から「パリ」という街は消えています。パリが好きになれないのです。「東京」も、影が薄くなり始めています。こちらは問題です。

 受賞歴についてですが、一九九〇年七月、シャーロン・スュル・ソーヌ(フランス)の大道芸人祭で最優秀外国作品賞 Accessit du meilleur spectacle étranger 、これは賞金のない賞状だけの賞でしたが、これをもらったのが僕の最初の受賞歴で、次いで一九九二年十一月、第一回の大道芸ワールドカップ in 静岡 ‘92でジャパンカップグランドチャンピオン(賞金五十万円)、ワールドカップグランドチャンピオン(賞金二万ドル)の二賞を得ました。

 経歴については、以上です。

 第五章 収入の内訳〔うちわけ〕、国内の場合

 ここで、僕の収入の内訳についての質問にお答えしておきます。これは、実際のところ年ごとにまちまちですし、今、手元に記録がないので、とりあえず過去三年間ぐらいを思い起こしながらお答えしてみます。先ほど触れましたが[第三章]、大道芸及び大道芸関連以外からの収入(円形劇場、イメージ・シネ・サーカス)を、ここでは考えないことにします。

 先ず、国内の場合です。

 大道芸及び大道芸関連の活動です。そのうち、大道芸フェスティバルやイベントの大道芸コーナーなど第三者のお膳〔ぜん〕立てによるものを除いた、いわば日常の街頭での〈本来の大道芸活動〉からの収入(投げ銭)の総計が、国内での総収入の【四割】前後。残念ながら、そう多くありません。

 というのは、東京の街頭で息長く大道芸をやって行こうとすると、例えば、ひとつの場所で一度警官に見咎〔とが〕められると、三ヶ月は同じ場所に立ち入ることが憚〔はばか〕られます(この「三ヶ月」というのは、一応根拠のある数字です)。ですから僕は、日常の街頭での一日の収入の〈最高目標額〉を控え目に設定してあり、これを越えたと思ったら欲張らず、早めに撤収して家に帰ってくる。その代わり、一日の収入の〈最低目標額〉に達するまでは帰って来てはいけない、これが、僕の東京での活動指針のひとつになります。

 ほかに、警官に見咎〔とが〕められても、決して反抗的な態度を取らない、などというのもあります。このように、東京で大道芸をやって行くための僕なりの心得がいくつかあるわけです。

 ところで、これら一日の収入の〈目標額〉は、月に延べ二十日間、日常の街頭で働けたとして、実はそれだけで、イベントやフェスティバルの仕事が一切なくてもやって行ける、生活と活動を維持して行けるだろうと考えられる額です。そして、この前提のもとに、イベントやフェスティバルの仕事を引き受ける場合の出演料(ギャラ)を僕は大胆に設定してありますから、僕の芸には買い手が付きにくく、僕が日本国内で引き受けるこれらの仕事は年に十本か、せいぜい十五本くらいに過ぎません。そして、これら年に十本か十五本くらいのイベントやフェスティバルの仕事で、これを企画した企業や自治体などから支払われる出演料の総計が、国内での総収入の約【三割】。さらに、これらイベントやフェスティバルのお膳立ての上での〈大道芸〉で、観客たちからいただく投げ銭の総計が、やはり【三割】。

 以上のように、日本国内での約八ヶ月間の収入の見当をつけておきます。

 *

 さて、イベントやフェスティバルの仕事が一切無くともやって行けるはず、とは言っても、海外でならともかく、日本国内で本当にこれをやり通そうとすると、毎日がおどおどびくびく緊張の連続で、心底すり切れてしまいます。事実、冬の間三ヶ月程〔ほど〕はイベントやフェスティバルの仕事が皆無に近く、専〔もっぱ〕ら日常の街頭で働かざるを得ず、また、ほかにも実は原因があったのですが、僕は一九九三年以降、ひどく滅入〔めい〕った気分で秋を迎え、冬を越す、厄介〔やっかい〕な心の習慣を身につけてしまったようです。

 そこで、納得の行く、気に入ったイベントやフェスティバルの仕事は、多少出演料が割安でも(場合によっては皆無でも)引き受けることがあります。ときには警察のことなど気にかけず、思う存分の〈大道芸〉がしたいのです。中でも春の『野毛大道芸フェスティバル(横浜)』、秋の『大須大道町人祭(名古屋)』には、毎年欠かさず参加するようにしています。

 ことに、僕の『人間美術館』以外のもうひとつの大道芸作品『アントニオ物語』は、規模のやや大きな、その分だけ手の込んだデリケートな作品で、東京の行き当たりばったりの路上ではとても上演できません。この場合、警察その他の街頭管理の問題に加えて、東京の人々の都市生活のリズム、街頭の騒音など、東京の街のあり方全体がこの作品には不向きなのです。

 またイベントやフェスティバルの企画によってお膳立てされた状況であっても、これをさらに僕自身で吟味しなくては、そこでこの作品を上演できるかどうか、決めかねます。

《私の経歴、大道芸を始めたわけ、大道芸とは何か 一九九五年・夏 ③/十分割》に続く。


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https://note.com/tarafu/n/n6db2a3425e5c

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