私の経歴、大道芸を始めたわけ、大道芸とは何か 一九九五年・夏 ⑨/十分割 【仮公開】

大道芸人・雪竹(ゆきたけ)太郎(たろう)

内題:私の経歴、大道芸を始めたわけ、私にとって大道芸とは何か、などについて(友人の写真家・M君への手紙)一九九五年・夏 ⑨/十分割

【点検中】

[縦書き発表用にアラビア数字を漢数字に改める/「 」と〈 〉の使い分けを明確、厳格に/括弧類(「 」、『 』、〈 〉)の着脱を明確に、意識的に/漢字か仮名か、或いは振り仮名付きか/M君〔←ママ〕/一〇九百科店(仮名)〔←ママ〕/某国立大学〔←ママ〕/教会合唱団〔←ママ〕/段落の変わり目に適宜アステリスク(*)を入れる]

 第十七章 大道芸人にいろ

 ここで、とりあえず最初の

 「辺境最深部に向って退却せよ!」

 というテーゼに立ち返り、僕が一演劇人として辺境最深部に向って退却する、日本の演劇界の頂点を目指して登って行こうとするのではなく、逆に自ら進んでドロップ・アウトして行くということは、一体どういうことなのかと考えていた、ちょうどその頃、渋谷の路上で、コンクリートの地面に体をうちつけるようにして踊っている、或るダンサーを見つけたのです。これが、僕が大道芸にたどり着くまでの三つ目、つまり最後のきっかけ(契機)です。

 黒い粗末なダンスタイツの、ひざには穴があいているくらいの感じで、サザン・オールスターズの『いとしのエリー』やパッヘルベルの『カノン』などをバックに踊る踊りは、僕の目にはコンクリートの地から湧〔わ〕き出たバイ菌の踊りのようにも見えました。現代文明に対するこびやへつらいを何もかもかなぐり捨てているようでした。奇妙なすがすがしさがありました。僕はこれに異常に惹〔ひ〕きつけられました。アルバイト先の事務所が渋谷でしたから、帰りにたびたび見に寄りました。薄汚れた絨毯〔じゅうたん〕か毛布のような布切れに、太い黒い字で

 「大道芸人にいろ」

 と書かれ、それが一○九百科店のシャッターにガムテープで無造作に貼〔は〕りつけてあります。僕が、僕の生涯で「大道芸」という言葉と出会ったのは、この時です。この時が初めてです。

 「これだ!」

 と思いました。それまでにも、テレビのドキュメンタリー番組などで、ギリヤーク尼ヶ崎という大道芸人のいることを知ってはいましたが、このギリヤーク尼ヶ崎の大道芸と僕が本当に出会い、にいろ以上かもしれない衝撃を受けるのは、僕がにいろに惹かれてとうとう大道芸を始めてから、さらに四年半ほど経〔た〕ってのことです。ですから、僕が大道芸に踏み込む直接のきっかけになったのは、この大道芸人にいろです。そして、一演劇人として辺境最深部に向って退却するとは、大道芸をや(ってみ)ることだ! と決めたのです。

 と言って、僕が本当に大道芸に踏み込むまでには、かなり長い躊躇〔ちゅうちょ〕の期間がありました。僕がにいろと出会った最初の時期が、どうも正確に思い出せないのですが、どうやら半年か、一年くらい思い悩んでいた気がします。大道芸をやってみよう! と決めてはいても、では大道芸とは何なのか、今のように具体的に分かっていたわけではもちろんないのです。自分でもよく分からないことに手を出そうとしていたのです。何だか、怖〔おそ〕ろしくさえある。道行く人たちが僕をどういう目で見るか分かりません。「ストリート・パフォーマンス」などという、何だか分かった気になれる言葉がはやり出す、つまり、人が僕の芸を指さして、あ、パフォーマンスだ! などとレッテルを貼〔は〕る(説明をつけてくれる)ようになるのは、僕が遂〔つい〕に大道芸を始めてしまって、さらに一年以上が経〔た〕ってのことだったように思います。警察が僕をどういう目で見るかも分かりません。最初に僕の「始末書」の下書きをした警官は、僕のしようとした行為を

 「……路上で芸術をしようとして……」

 と作文しました。自分のやろうとしていることを人にはうまく説明できない、親兄弟など到底〔とうてい〕納得させられない、自分でももうわからない、とにかく怖〔こわ〕い。でも、ここを通らなければ、この先の僕の人生は、考えられない気がする……

 「清水〔きよみず〕の舞台から跳び降りる」

 ということを、僕はこれまでに三度、経験しています。一つ目が、この生まれて初めて大道芸をやったとき、二つ目が、生まれて初めて海外(ボストン)で大道芸をやったとき、三つ目が、昭和最後の日とその翌日、平成最初の日(一九八九年一月)、そしてそのひと月半後の大喪の日に、厳戒下の東京で大道芸をやったときです。

 第十八章 人間美術館の誕生、そして変貌

 大道芸に踏み込むまでの躊躇の理由のもうひとつは、実際、何をやるか、ということで、この点にいろはダンサーで僕はパントマイマーでしたから、にいろは手本になりません。結局、思い浮かんだのが、はじめにお話した『世界の美術』で[第二章]、ただし明かりをつけたり消したり、彫刻の題名をアナウンスしたりができませんから、彫刻や絵画の題名をあれこれいっぱい書いたスケッチブックを用意し、それを彫刻が自分でめくって行って、ひとつひとつ真似をする(動く彫刻です)、こういう、初めはやはりごく単純な構想を立てました。

 これを実際に大道芸でやって見て、いろんなことがわかりました。例えば、立てておいたスケッチブックが風で倒れて、これをどう取りつくろったらよいのか僕が、というか彫刻が困っていると、観客たちが笑ってくれたり、つまり、街頭ならではのアクシデント(この場合、風)は芸のディテールにもなり得る(芸をよりリアルに、豊かにする)、むしろこれらのアクシデントを積極的に芸の中に取り込んで行くことが、大道芸の場合、ひとつ大切なのではないかと気がつきました。すぐ近くにあった植え込みにもぐり込んで、植え込みの中からロダンの「引きつった手」をにょき、と突き出して見たり、つまり、現実にそこにある風物、風景を、大道芸では大いに大切にしたいとも考え始めます。川べりや港の風景をうまく利用すると、僕の「叫び」はムンクのオリジナルの叫びに劣らぬ美しい作品になります。風が公園の木々を揺さぶりザワザワと音をたてる時には、僕の演ずる彫刻は動きを止め、観客たちと一緒にその音に聴きいることが心に沁〔し〕みました。

 こんな風にして七年近く経った頃、彫刻が初めて台(茶箱)の上に立ってみました。彫刻を取り囲む人垣から彫刻だけ頭ひとつふたつ上に出るようになった分、遠くの人たちの注意を引きやすくなりましたが、今度は動きが著しく制約されました。それまでのように、人垣の中をあちこち、めりはり良く動き回りながら『人間美術館』の世界を構築するのではなく、約四十センチ(cm)× 七十センチ(cm)程の狭い台の上でのわずかな身振りや視線、間の取り方などで観客の注意を引いたり、注意を逸〔そ〕らしたりする術〔すべ〕を覚えました。

 地べたに置いてある「モナリザ」の額〔がく〕を観客の誰かに取って、持って来てもらうことも、この台の上で覚えました。このとき、観客には気軽に〈舞台〉に上がって来てもらわなければなりません。大道芸の場合、舞台が聖域であってはならない、舞台と客席との間に段差があっては困るということを、ここで改めて確認しました。モナリザに使わない小さい方の額は、以前ピカソの「泣く女」で使っていたもので、今は必要ないのですが、僕の人間美術館十二年間の歴史の痕跡のひとつとして懐かしく、今もそこに置いてあります。また、誰かがモナリザのとき、間違えてこの小さい方の額を、或いはそこに挿〔さ〕してあるゲルニカの赤い薔薇〔ばら〕を持って来てくれたりすると、彫刻は困惑して、彫刻とこの観客との無言の対話は非常に濃密なものになります。

 けだし大道芸では、芸人と観客との対話がとても大切です。近代演劇の演技術では普通、俳優が観客たちに向って発話する、観客たちと対話する側面よりも、舞台上の相手役と対話する側面の方ばかりが重要視されがちですが、大道芸の場合、演技の一瞬一瞬がすべてどこかで観客たちに直〔じか〕に語りかける式のものでなければ、観客たちをこの〈演劇〉に、〈劇場〉につなぎ止めておくことができない、できにくいのです。観客たちから孤絶した演技、表現というものも本当は可能なのですが、これにはよほどの注意と緊張が、或いは本物のリラクセーションと観客たちを信頼しきる勇気が要求されます。

 それから海外に渡り、ニューヨークの観客たちを何とか笑わせようとして、考える人(The Thinker)が初めて煙草〔たばこ〕を吸う(smoking する)ようになりました。アメリカの嫌煙主義者の御婦人は、

 「Thinking と smoking とは絶対に違うと思う」

 などとクレームをつけて行ったりします。また、弥勒菩薩像(Buddha of the Future)の左の掌〔てのひら〕が上を向いて、その手先の動きで

 (……もっと拍手を……)

 と、観客たちを煽(あお)るようにもなりました。

 観客たちを前に大道芸人として自己紹介をする(啖呵〔たんか〕を切る)、自分の出自を明かし、自分が

 「生きていくため、金のために大道芸をやっているのだ」

 と大上段に語る(speech をする)ことを最初に覚えたのが、ここニューヨークです。このことを指南してくれ、そのための英語の台本を書いてくれたのはミスター・エキセントリック、当地出身、現日本在住の大道芸人です。本物のニューヨーカーらしい思い切り高飛車な押し出し、語り出しに、言葉遊びまであるテキストで、これはおそろしく勉強になりました(青ざめました!)。僕がシェイクスピアシアターで学びえた科白術とは由来の異なる、生〔なま〕の人間たちと直〔じか〕に渡り合い、過酷な街を生き抜いていく覚悟、性根〔しょうね〕のようなものの問われる台本でした。

 それからもうひとつ海を越え、また国境を越え、パルセロナで、僕は改めて言葉を失って行きました。こんどはこのむっつりとした観客たちを笑わせようとして、「ダビデ像」がお腹を掻〔か〕くようになりました。そのうちにミロのヴィーナスも、ボッティチェッリの「ヴィーナスの誕生」も、皆、お腹を掻くようになりました。

 法隆寺の「羅漢像」が、この時ばかりは台を降りて土下座〔どげざ〕し、投げ銭箱を前に、

 (……金を呉〔く〕れよ!……)

 と嗚咽〔おえつ〕するようになりました。

 モナリザが鼻の穴を掻き、その指先を額縁に擦〔こす〕りつけたりすると、バルセロナのお客以上に、今度はエディンバラ(スコットランド/イギリス)の観客たちが大喜びしてくれ、イギリスでは少し悪のりも覚えましたが、こういう悪のりは日本ではあまり歓迎されないことを、帰国後に確認し直しました。

 ピカソの「ゲルニカ」は、昔はひとりでやっていました。ゲルニカの群像のひとつが地面を背に転がっているだけの、単純なものでした。これでもゲルニカを知っている人、好きな人には喜ばれました。このゲルニカの群像に観客たちを加えることを思いついたのは5〜6年目のこと、さらに、このゲルニカに原作にはない十字架像を仕込むようにしたのはつい最近、人間美術館の10年目から、ここアヴィニョンでです。

 この十字架像を設〔しつら〕えるタイミングを、或いは最後の最後に僕の演ずる彫刻が、この十字架像役の男性客を肩に担〔かつ〕ぎ上げ、客席にまで返しに運んで行くタイミングをうまく午後7時に合わせると、法皇宮の隣にそそり立つマリア像の鐘が、数分間に亘〔わた〕って力強く立ち鳴らされます。こういうときのヨーロッパ人大道芸観客たちの拍手喝采〔かつさい〕は、日本では到底〔とうてい〕経験できません。

 僕の象〔かたど〕る彫刻群はアヴィニョンの石畳〔だたみ〕、石造りの風景によく馴染〔なじ〕み、白粉〔おしろい〕で白い僕の体は西陽〔にしび〕に染まり、西陽に火照〔ほて〕る体を時おり風に晒〔さら〕して冷ましながら、午後7時を迎える頃には、観客たちを覆〔おお〕っていた木陰がようやく僕の足もとにまで、或いは胸もとにまで及びます。そして十字架像を高く担ぎ上げたとき、それまで約十分間にわたってこの十字架像になってくれていた男性客の額からは、汗が血のように滴〔したた〕っているかも知れません。僕の人間美術館 The Living Museum of Art は、こうして、きっとヨーロッパの受難の歴史や、さらに遠く原始キリスト教徒や異教徒たちの苦難の伝説とも響き合うのです。驚いた演劇記者、評論家風情の人物が芸が終わってからやって来て、

 「なぜ君がキリストを担ぎ上げると、必ず鐘が鳴るんだ?!」

 そういえば昨日も、ちょうどタイミングのよいところで鳴ったのです。僕は、

 「天が鳴らすのだろう」

 と答えることにしました。

 「大道芸を始めたわけは? きっかけは?」

 「大道芸は天職だ! 天の声を聴いたのだ。」

 こうして僕の大道芸は、この人間美術館の場合にも、だんだんと日本の土壌から離れて行きながら、豊かになって行ってしまいます。もっと日本にいる秋・冬・春の八ヶ月を大切にし、日本の土壌、風景、文化に合った、日本人たちの心と響き合える人間美術館を探さなくてはなりません。

 大道芸は劇場の壁の中、社会から隔離された抽象的な空間(「なにもない空間 The Empty Space〔ジ・エンプティー・スペース〕」)で構築される演劇と違います。人々が現実に生き、働き、楽しみ、苦しんでいる社会生活の真っ只中で(或いはそのすぐ傍〔かたわ〕らで)、そして私たちの生きているこの世界と歴史の真っ只〔ただ〕中で、ときにこれらと四つに組んで格闘もしながら紡ぎ出し、織り上げて行くものです。安全な高みに立った解説や批評は受け付けぬ、厳しい仕事です。そして、本当に面白い仕事です。

 (付け加えるなら、人々の社会生活の真っ只中、世界と歴史の真っ只中に芸を、身をさらす以上、警察権力、その他さまざまな権威の手がすぐにも及び、簡単にねじ曲げられたり、圧しつぶされたりするものであることは、初めから覚悟しておかなくてはなりません[第十九章]。)

 こうして最初、演劇の実地修行のひとつの場として、また一演劇人の辺境最深部への退却の試みとして始めた大道芸でしたが、これこそが僕のライフワークだと考えるようになったのは、かなり早い時期、まだシェイクスピアシアター在籍中、大道芸を始めてニ、三年目の頃だったと思います。思い出すのは、ある時、このシェイクスピアシアターが青山円形劇場という新しい劇場のこけら落としをすることになり、僕は「円形劇場」ということに特別な思いを持っており、楽しみにしていたのですが、このときの公演パンフレットに掲載された演出家と翻訳者(でしたか)の対談録に、全観客を同じタイミングで、同じように笑わせることができなければ、この公演は

 「失敗だったということになる!」

 そして、この前提での演出家の心労などが縷々〔るる〕書かれてあり、これを読んだとき、僕の考えている演劇とは違うらしい、僕は遠からずこの劇団から離れることになる、と感じ始めたのです。

 大道芸こそが僕のライフワークだ(そして、ライフスタイルだ)、この感は、年を追ってますます強くなって行きます。今もそうです。僕の大道芸についての感じ方、考え方の中身も、年を追って変わって行きます。ただ脈絡なく変わっていくのでなく、たぶんより思いの深い、こだわりの多いものになって行きます。或いは、つまらないこだわりは捨てて、より本当らしい、自由自在なものになって行くようにも思います。

《私の経歴、大道芸を始めたわけ、大道芸とは何か 一九九五年・夏 ⑩/十分割》に続く。


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https://note.com/tarafu/n/n6db2a3425e5c


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大道芸人・雪竹(ゆきたけ)太郎(たろう)
1959年1月、福岡生。83年秋より、東京及び近郊の路上で大道芸活動を開始。88年夏以降、先ずアメリカ、次いでヨーロッパ、さらにその他、海外の諸都市の路上でも活動。90年7月、フランス、シャーロン・スュル・ソーヌの大道芸人祭にて、最優秀外国作品賞(賞金なし)を受賞。他受賞歴若干。