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恐怖症の一番のつらさは、まわりに理解されないこと。

前回に引き続きExposure Practiceについて書こうと思っていたのだけど、

その前に、表題の件について考えを整理しておかないと、Exposure Practiceが恐怖症持ちとっていかにつらい作業なのかが伝わらないと思うので。

身も蓋もない言い方をするけど、恐怖症のつらさって、恐怖症を持っている人にしかわからないと思う。これはどんな病気や障害にも言えることだけど。

ただ、恐怖症のつらいところは、まわりから

「そんなに怖がる必要ないじゃん」
「そんな大げさな」
「わざとでしょ?本当は怖くないんでしょ?」
「甘えすぎじゃない?」

と、軽く見られがちなところにあると思います。
当事者からすると「だから言いたくないんだよ」案件ですね。

以前、日本のお笑い番組で、芸能人がドッキリ的に10メートルぐらいあるプールの飛び込み台に連れていかれて、そこから飛び込むという企画をやっていて、お笑い芸人の青木さやかさんが飛び込み台に連れていかれた際、彼女は高所恐怖症のため泣きながらしゃがんでしまい、それをスタジオにいる他の芸能人たちが笑って見ている……という構図があったんですね。

私は高所恐怖症ではないけれど、揺れ恐怖症という別の恐怖症を持っているので、この時の青木さやかさんの恐怖がとてもよくわかるし、泣いて顔をぐしゃぐしゃにしながら「本当にだめなんです、やめてください」と懇願する様子を見ていて本当に胸が痛みました。むしろこれはテレビのためにやっている演技なんだと思いたいぐらいでした(たぶん演技じゃないと思うけど)。

高所恐怖症の人がいきなり高いところに一人で置かれるのは相当な拷問だと思うのだけど、さらに地獄だなと思ったのは、スタジオにいる他の出演者たちがそれを笑って見ていたこと。テレビの制作側も、それを面白いものとして扱っていたこと。

この、「怖がっている様子が面白い」という構図、本当に地獄。
そしてこの構図こそ、恐怖症の本当の意味でのつらさだと、私は思います。

つらさを周りに理解してもらえない。

なんなら理解なんかしてくれなくてもいいから、そっとしておいてほしい。「そういう人もいるんだな」くらいに思って、受け流してくれればいいのです。

ところが、世の中というのはそういう風にはできていなくて、「なんで?何がこわいの?」「ぜんぜん平気だよ、こわくないよ、なんでこわいの?」といった感じで、自分の基準を押し付けてくる人というのが多いのです。

人間、「理解できないものは存在しないことにしたい」という心理が働くんでしょうね。

なので、私も自分の揺れ恐怖症のことは、家族以外には基本的に話していません。例外的に数人だけ、友人に話していますが、それ以外は、親友にすら話していないのです。(セラピーを受け始めて、そろそろ話してもいいかなという気もしてきはじめましたが)。私がその人を信用していないからではなくて、なんというか、いろんな意味で心理的負担をかけたくないので、特に打ち明ける必要がないなら黙っていよう、となってしまいます。


恐怖症がどういうものかというと、私は食物アレルギーと同じようなものだと思っています。

たとえばナッツアレルギーの人が、ナッツを食べるとアナフィラキシーショックを引き起こし、すぐさま病院で処置を受けないと命の危険がありますよね。だからナッツ入りの食べ物は絶対に口にできないし、食べなくても触るだけで症状が出る場合もあるので、食べ物だけでなく肌につける化粧品などの成分表も入念にチェックが必要だったりして、とにかく周りから見ると「大変そうだなあ」と思いますよね。

で、こういうアレルギー持ちの人に対して、「気にしすぎだよ」とか「本当はそんなに大変じゃないんでしょ?」なんて言う人、さすがにもうほとんどいないと思います(少し前までは、食べ物の好き嫌い程度にとらえている人もいたようですが)。

アレルギーの原因が何かとか、根源的には気持ちから来ているのかそうでないのかとか、そういった話はいったんここでは不問にして、

とにかくアレルギーって「本人にはどうにも制御できない体の反応」なわけですよね。

恐怖症も、まさにそんな感じなのです。本人はめちゃめちゃつらくて苦しんでいるけど、自分では全く制御不可能な領域。

10メートルの飛び込み台でしゃがんで泣き崩れている青木さやかさんを笑うのは、ピーナツ食べて呼吸困難でヒューヒュー喉を鳴らしている人を笑うのと同じくらい、残酷だなと思います。

高所恐怖症なんて甘えだとか、一緒に高いところに登ってあげる、なんていう人は、ピーナツアレルギーの人に「食べ物の好き嫌いはよくない、甘やかされて育ったからだ」とか「私も一緒にピーナツ食べてあげるよ」と言うのと同じで、完全に的外れだし、当事者からすると絶望以外の何者でもないんですよね。

でも、悲しいかな、これが世間一般の、大多数の反応です。

テレビで青木さやかさんが泣き崩れていたのは、もう10年ぐらい前だったと思うけど、とはいえそれほど現状は変わっていないのではないか、と思います。


そもそも、普通に生活しているだけでは、それほどの恐怖を感じることってないですよね。あわや交通事故に合いそうでヒヤッとしたとか、仕事でミスしてやべ〜どうしよう!!みたいな恐怖もあるにはあるけど、そういった日常的に起こりうる恐怖感と、恐怖症の恐怖感って、私としては似て非なるものという感覚です。

恐怖症の恐怖感は、なんというか、まじりっけなしの恐怖100パーセントの塊が、ぐわっと押し寄せてきてそれに押しつぶされる感じ。このまま押しつぶされていると気が狂ってしまうだろうなと、毎回思います。

私は自傷行為もしたことがないし(痛いの嫌いなので)、自殺願望や希死念慮も一切なく、健康で長生きしたいと思っていますが、そんな私ですら、

「恐怖症のパニック状態の時にもし目の前にピストルがあったら、衝動的に頭を撃ち抜いてしまうかもしれない」

と常々思っています。
それぐらい、恐怖症による恐怖感というのは、圧倒的なのです。

そう、圧倒的という言葉がしっくりきますね。

あまりにも圧倒的すぎて、本人の気の持ちようとか、努力とかやる気とかでどうにかなるレベルじゃない。


私は日本で一度結婚していたことがあって、いろいろあって離婚したのですが、その主たる原因のひとつが、私の揺れ恐怖症だったと思っています。

家の中に揺れるものを置くことができない、揺れるものがある場所には一緒に出かけることができない、一緒に映画を見ていて揺れるものが映し出されたら私は退出しなければいけない、外食先でお店に揺れる電球などがあったらお店を変えなければいけない。

一緒にいるほうは、大変ですよね。ほんと、ごめんなさい。でも、どうしようもないんです。

どうしようもないとわかっていても、これが何年も続くと、相手も疲れてきます。さすがに、「それ、どうにかならない!?」って苛立ってきます。

一緒にできないことがあるたび、がっかりするし、でかけた先で揺れるものがあってお店を移動することになると、それまでの楽しい気持ちが一気にしぼんでしまう。そのたびに「ねえ、なんで恐怖症なの?それ本当に治らないの?」と詰められる私もつらかった。

分かれる直前、私の母も含めて出かける機会があり、その外出先でやっぱり揺れるものに遭遇して私は一時退席したのだけど(揺れるものが去った後に私は再び席に戻りました)、

私が席を外したとき、母は

「あら、こんな揺れる仕掛け、作らなくてもいいのにねー」

と、さらっと言っていたそうで、それを聞いた元夫は、

(そうか、こんな風にただ受け入れて、受け流せばよかったんだ)

と、驚いたんだそうです。
今まで私の恐怖症に対して、「どうにかならないのか」「治らないのか」と言ってばかりで、何も変わらないことに対して苛立ってばかりだったけど、ただそういうものだと受け入れて、私の退席も「ふーん」と受け流せばいいだけだったんだ、と。

ピーナツ食べれないんだ、じゃあ別のもの食べればいいよね、ってな感じで、軽く受け流してくれればいいだけなんですよね。無理にピーナツ食べさせたり、食べれないことを責めるのって何の意味もないですよね。それと同じ。だけど、それが、難しい。

けっきょくこの時には関係がすでに破綻していたので、気付きもむなしく別れましたが、とても象徴的な出来事として、私の記憶に刻まれています。

大切なパートナーだからこそ、心配する気持ちが裏返って「治ってほしい」という思いから「なんで治らないんだ」という叱責になってしまっていて、お互いにとてもしんどかったです。

これも、恐怖症の無理解と誤解のせいだと思うわけです。

塊の恐怖が襲ってくる感覚は、体験したことがない人には想像ができないだろうし、それを理解しろというのはほぼ不可能だし意味がないと思うので(そんな恐怖は味わわないでいいならそれに越したことがないし)、

どんな風に怖くてどんな風に耐え難いのかを、つぶさに理解する必要なんてなくて、ただ「そういうもの」として受け入れて、受け流してくれればいいんです。

とくに私の場合、揺れ恐怖症というかなり珍しいタイプの恐怖症なので、知らない人からは理解されづらいと思うし。


ただ、私も大人になって、アメリカに住んでいたり、いろいろと環境が変わる中で、自分の恐怖症をもっと開示してもいいのかも、という風に心境が変化してきました。これについては、いつか時間があったらnoteに記しておきたいと思います。

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