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Making Sense - Finding Our Way 2-3

D:そうですね。最後に一言だけ言わせてもらうと、あなたの本は十分に目的を達成していると思います。しかも、とても時代にあっている重要な目的だ。ただし、基本的なロジックに批判があるとすれば、もしこれから私がいうことにあなたが同意したうえであの本を書いていてくれたなら、より優れた形で目標を達成していたのではないかと思います。
私は道徳の理論に対して、ポパーが科学理論に対してとっていたのと同じ態度で臨みたいと思っているんです。

「思考とは多くの矛盾した考えの中をさまよい歩き、最も深刻に矛盾していると思われる考えを修正することによって矛盾のないものにしようとすることなのです。」

冒頭のポパーの科学観に関するDの発言


つまり、これが道徳の基礎(不変な真理)だと主張するような道徳に関する理論はすべて間違っていると考えます。しかしながら、それが道徳の基礎としてではなく、批判とみなされる場合には価値があると思うんです。より価値が高いものもあれば、低いものもあります。例えば、カントの定言命法功利主義ロールズの正義論、神の意志、人類の繁栄など、道徳の基礎だと主張するさまざまな提言があります。これらすべては道徳の基礎に関する提言です。しかし、もしこれらを提言ではなくて批判とみなせば、これらすべてはとても価値があるものだと思います。例えば、人類の繁栄などはそれ以前の状態に対する改善の提言と理解することができます。つまり、批判です。
例えば功利主義を考えてみましょう。功利主義者は、「もし道徳とは何かということが、毎週日曜日に教会に行くことだとしたら、それはいったい何の役に立つのか?」と問うでしょう。そうすると、これにどう答えるかは、教会に行くことを提唱する人次第ということになる。目的がないと主張することは一義的には批判と考えられます。したがって、説明責任は宗教的な価値観による道徳を説く人にあるわけです。目的がないような説明をされた場合は、簡単に拒絶できてしまいますが、この場合は拒絶するべきではないでしょう。その人はこう答えるかもしれない。「それは、神がそうしなさいと言っているからだよ」
そうすると、宗教に基づくあらゆるものに対する標準的な批判はこうなります。「あなたの神が言っている主張と、他の神の考え方に基づいている主張はどう違うんですか?」。あるいは、この聖典とあの聖典はどう違うのかとか、そういうことです。「いったい、どの基準を用いて判断すれば良いのです?」と問うと、宗教的価値観を持ったひとは「私の言っている基準が正しいのです。」と答えるでしょう。それは、悪い説明ですね。皆が同じ説明をするようになってしまう。それは基準というけれど、基準と呼べるようなものではない。
あなたの言う人類の繁栄を基準とした道徳の基盤というのもこれに似ていると思うんですよ。功利主義を道徳の基盤とみなす考え方というのは間違っている。しかし、その他の道徳についての理論に対する批判という意味ではとても強力なものです。あなたの議論もこの功利主義に似ていると思うんです。ただし、あなたの場合は、より常識という要素を含んでいるとは思いますが。

H:私の言っている道徳の基準というものを別の言い方で説明させてください。それは単なる人類の繁栄の問題ではなくて、ありとあらゆる意識のシステムにまで広がる話なんです。私の主張の基盤には、ありとあらゆる可能な限りの意識や経験の空間があって、そこには良い経験もあれば悪い経験もあるということです。私たちがすべての空間を見つけることができるかどうかはわかりませんが。私の唯一の公理と呼べるような主張は、すべての人が可能な限りの悲惨な不幸にさらされるというのは悪いことだということです。「悪い」という言葉は誰にとっても「悪い」という意味で通じますよね。ポパー的な科学観が拠り所としている道徳の基準も、我々が現在経験している現実よりも、もっとより大きな想像を超える現実が存在しているという主張ですよね。つまり、間違って解釈してしまう余地があるということです。

D:「批判されることがない」という意味での基準ではないと思います。私たちはいつでも、「なぜその基準であって、他の基準ではないのか?」と問うことができます。なぜ我々が存在すると仮定するのか?なぜ真実があると仮定するのか?もし、「そうは言ったって、何かを受け入れないと始まらないじゃないか。」と言ってしまうのは、諦めだと思います。決して「受け入れる」必要なんてないんです。これが正しいと主張する議論はすべて間違っていると思います。

H:まずは意識の存在を受け入れるというのはだめですか?意識という「私であるという何か」が存在しているということは疑いのない事実ですから。確かに、水槽の中の脳かもしれないし、何もわかっていないという可能性もありますが、たとえ現実が本当に現実かわからなくても、意識があるという事実は出発点になるんじゃないでしょうか。意識という、自分が存在しているという経験があるという単純な事実が、道徳の基礎を作るために必要な要素のすべてなのではないでしょうか。そして、その道徳の基礎の中には善悪入り混じったありとあらゆる精神の世界が存在していて、私たちはそれを経験することができる。

D:意識が存在するからといって、何かが解決するわけではないと思います。意識とは何かということについて、あなたはなんらかの本質的な概念を持っている。そして、これまで話してきてわかったように、概念というものは人それぞれで異なります。例えば、私は心というものは、常に自己一貫性を持たない動的なものだと考えています。あなたは幸福を一つの独立した状態としてとらえていますが、私は幸福を生み出す何かから幸福を切り離すことはできないと思います。例えば、モーツァルトの幸福だけをダウンロードすることはできないでしょう。必ず、彼を幸福にすることに寄与しているであろう彼の抱えるその他の問題も一緒にダウンロードしないといけない。

H:これは物事の捉え方、つまりフレーミングの問題でもあると思います。ある種の不快な体験は、それが幸福感を増大させるために必要だとフレーミングすることができる。例えば、山登りのような激しい肉体的な行為は、道中ずっと苦しいかもしれないが、その苦しい行為自体が深い達成感の基礎となる。こうしたフレーミング効果は、それ自体が経験に基づく主張であり、それぞれのケースで本当に幸福感を増大させることに寄与しているのかどうか調べることができると思います。幸福感を向上させることに寄与する苦労もあれば、それ以上の利益を生むことなく私たちの幸福感を損なう苦労もあるでしょう。
あなたは物理学という登頂困難な山に挑戦していて、問題を解くことで苦労と喜びを経験しているとします。その中で、間違いがもたらす苦しみでさえも、あなたの研究をより興味深いものにしているかもしれない。しかし、もし毎朝飲む紅茶に何かを加えることで、理論化の全過程を通じて、従来の意味であなたを少しだけ幸せにすることができるとしましょう。おそらく、あなたの精神状態を調整して、いつもより2倍快適に、2倍クリエイティブにする最適な方法があるかもしれません。

D:良いですね。ぜひ試してみるべきだ。でも、「人類の繁栄メーター」はそれを読み取らないかもしれない。この部分が私があなたの主張に反論している部分なんでしょうね。

H:なぜそう思われるのですか?もし、2倍が足りないのなら、10倍幸せになるというのはどうでしょうか?そうすれば、毎日のように今日が今までで一番素晴らしい日だと感じることができるでしょう。それに、もっとクリエイティブになることができる。それでも繁栄メーターはそれを読み取らないといういうのですか?

D:ちょっと、あなたが紅茶にどんなものを入れようとしてるのかわからなくなってきました。現代の私たちは、昔なら考えられなかったような快適な生活に慣れてしまっている。例えばニュートンやモーツァルトは、信じられないような不快な生活を送っていたはずです。冬は決して暖かくなく、夏は決して涼しくなく、彼らは常にさまざまな危険にさらされ、衣服はかゆくなり、といくらでも例を挙げることができますが、それでも彼らは幸せだったんですよ。あなたの提案はもちろん価値があると思います。ただし、その変化によってクリエイティブになり、有益なことがあるという場合に限ってです。しかし、一度その変化を経験してしまうと、それ以上に幸せにはなれないでしょう。あなたを幸せにすることができるのは、創造することだけです。

H:確かに、科学者であるあなたがそう言うのは理解できますが、あなたの幸福の定義は若干偏狭なのではないでしょうか。科学者や芸術家なら賛同するでしょうが、幸福の度合いに大きな変化を感じるような一般の人々は賛同しないのではないでしょうか。例えば、あなたは今とても幸せで、これまでにないほど充実している。しかし、突然奥さんが亡くなったり、子供が亡くなったりしたとします。明らかに幸せではなくなりましたよね。それは、創造性が突然失われたからというわけではないですよね。

D:いいえ、創造性が失われたからだと思いますよ。その状況であなたが不幸を感じるのは、あなたのこれまでの思考を進歩させる方法が、亡くなった人々に起因していて、彼らから得られたものを即座に置き換えることができないからだと思います。

H:「思考を進歩させる」というのはどういう意味ですか?

D:そうですね。まあ、覚えておいてほしいのは、私はどのような知識を知識として認めるかについてお高く留まるようなことはしません。より良い精神状態に到達するには創造性なくしては不可能です。そして、到達するために努力して成功することが幸福なのです。科学にも、芸術にも興味がなく、一般的に進歩や創造性とみなされるものに興味がない人は、まだ何かを考えている途中だということです。幸福に必要なのは、その人が「何か」について考える前よりも考えた後の方が良い人間になるということです。そして、その「何か」とはなんでも良いのです。もしかしたら、社会的に価値がないために名付けることができない何かかもしれない。それは、家族とその人の特別な関わり方かもしれない。いずれにしても、その人はそれをより良くするために考えなくてはいけない。「そうだ、もっと上手くできたはずだ。よし、より上手にできるようになった。」という具合に。それには創造性が必要なんですよ。多くの人はそれに気付いていないし、上手くできていないと思います。

H:それでは、誰にとっても最悪の不幸は悪いことだという私の主張の話に戻したいのですが、それが 道徳の基礎となる主張だということの何が問題なのでしょうか。苦しみを感知することができる器官が、考えうる最大限の苦しみを際限なく感じている世界を想像してみてください。そこに明るい兆しは何一つなく、なんの救いもないのです。つまり、存在しうる最悪の地獄でしかない。私の基礎となるな主張は、このような最悪な状態も可能な世界のひとつであり、それ以外はこの地獄のような世界よりはましだという意味なんです。

D:わかります。客観的に見て、良い世界と悪い世界があるということを否定するつもりはありません。今あなたが説明した世界はその客観的に悪いと言える世界のひとつでしょう。

H:では、それが道徳の基礎となる主張だと考えることがなぜだめなのでしょうか。

D:おそらく、異なる様々な道徳の理論と異なる様々な人類の繁栄に関する理論は、どちらの状態が悪いかという議論に関して必ずしも一致するとは言えないからです。

H:いろいろな意見があるということは認めます。でも、もし世界にある程度限られた数の人間しか存在しないとしましょう。私が言っているのは、ある時点においてその全ての人が最悪の苦しみを味わっているということです。その場合、「全ての人」が誰なのかということに拠りますが。つまり、いろいろな人が存在するわけですが、その人なりの、または他の人との繋がりの関係という意味で、それぞれの人がなりうる限り悲惨な状態にあるわけです。この場合、もしかすると若干曖昧な点があるかも知れません。ある人にとっての不幸は、他の人にとって状況に拠っては蜜の味かもしれないですね。

D:それはあまり関係ないですね。

H:わかりました。では、ひとつの最悪の状態が存在するのではなく、いくつかのすべての人々にとってより悪い状態があるとしましょう。そして、もし彼ら全員、もしくは一部の人の人生がより良いものになり始めたら、それは私たちが 「良い」と呼べる方向への動きを意味するのではないでしょうか。「良い」と呼べることに関するいかなる理論も、すべての人にとっての最悪の不幸から遠ざかるということが伴うのではないか、というのが私の主張です。カントの定言命法であろうと、宗教であろうと、帰結主義であろうと、徳倫理学であろうと、あるいはまだ生み出されていないものであろうと、道徳的理論はその点を認識しなければ語れないと思うのです。可能な限りの経験が存在する世界において、全ての人にとっての最悪の不幸から遠ざかることが、価値あることだと思うのです。

D:そうかもしれません。しかし、この最悪の状態からほんの少しでも遠ざかったとしても、改善する方法はいくらでもあるし、その方法には良いものもあればそうでないものもあるでしょう。それに、最悪の状態から逃れたとしても、人々がそれを善いのか悪いのか、あるいは繫栄かそうでないか、といったことを判断するのには様々な要素が影響する。それは、「あなたのガンは完治しました。もう幸せですね。」というようなものです。でも、そうではないかもしれない。なぜなら、ガンになる前は幸せではなかったので、その状態に戻っただけかもしれないからです。つまり、最悪の状況から物事が改善しているということが、必ずしもことの良し悪しに関する意見の不一致を解決するわけではないということです。

H:だからこそ「モラルランドスケープ」、つまり道徳の基礎となる地図のようなものに意味があるのではないでしょうか。その地図の中で意見が合わない山や谷の姿があるかも知れませんが、もしかしたらどちらも正しいという場合もあるかも知れません。この地図のなかでは、異なる倫理観を持った人たちが、同等だけれでも相いれない幸福の状態について話をしているのかも知れない。

D:そうだとするならば、より高い山、つまりより良い幸福があり得るのかもしれない。そちらのほうがさらに良いですよね。

H:その通りなんです。そして、見つけることがない場合もあり得ると思います。単純に運がなかったり、正しい精神状態になかったりして。

D:私たち人間は汎用的な思考をする機械なので正しい精神状態にないという可能性はないと思いますよ。

H:そうですね。十分な時間と頭脳のリソースがあれば可能なはずですね。その点も惑わされないように気を付けないといけないポイントです。その場合、ホモ・サピエンスが正しいテクノロジーがないためにより高い山を見つけることができないという、世界の歴史の中での不慮の事実なのかも知れません。それでもなおその山は、私たちが今いる状態よりも、いかなる合理的な意味で「高い(良い)」としている状態よりも良いと言えるでしょう。

D:そうかも知れません。しかし、人類はその「より高い山(幸福)」を飛ばして、別のより高い山を見つけることでしょう。

H:そうですね。より良い幸福という未開拓の地は常に隠れてしまうかもしれません。そうしたら、私たちは山頂に到達することはできないのかも知れないし、到達してもそのこと気付かないかも知れません。

D:そうですね。実際には、私たちが新たな発見をするたびに、また新たな問題が発生するんです。それは、道徳においても同じです。私たちは常に改善し続け、そしてその改善がまた新たな問題を生み出す。

H:しかし、これらの問題はより洗練されたものになっていきますよね。例えば、どのブランドのソーラーパネルを設置するべきかといったような問題で、近隣の人たちをどうやって奴隷に仕立て上げようかといった野蛮な問題ではない。

D:もしくは、すべての戦争を撲滅したので、自己防衛が難しくなってしまったことに気付くとか。

H:でも、このような問題というのは局所的な問題ですよね。つまり、我々が洗練されていないから起こり得る問題です。こういった問題は最終的にはたいてい解決されていくでしょう。もちろん、私たちが進歩し続けるという前提ですけど。

D:そうですね。たいていの問題は局所的な問題です。しかしながら、進歩がまた新たな問題を生み出すというのは万国共通の問題です。山の頂上というのは、私たちが近づいていると頂上に見えるものですが、実際に到達してみるとそこには新たな問題が山積している。

H:しかし、この手の高尚な問題というのはとても希薄なものかもしれませんよね。

D:私たちの観点から言えば間違いなくそうでしょうね。

H:あなたの場合は、間違いなく創造性に優れていて、偉大な喜びを感じ、物理的な複雑さが非常に少ない状態とういものを経験したことがあると思います。つまり、そのような状態が続くと、「果たして、どちらがより崇高に美しいだろうか?『A』だろうか、それとも『B』だろうか?」といったような問題に気付くけれども、逆に「台所のゴキブリを追い出すことができなくて、自殺したい気分だよ!」といった問題に直面することはないということです。

D:どうでしょう。私はその点に関してはニュートラルな考えですね。例えば、私たちの存在を脅かすような重大な問題は常に存在しているでしょうか。私にはわかりません。でも、私たちが起こし得る間違いの大きさに限界があるとは思えないのです。

H:それはまさに現在の問題といえますね。限界はないように見えます。

D:改善する方法は常にあります。でも、その方法にたどり着けるかどうかはわかりません。

H:しかし、あなたが説明してくれたように、私たちはこれ以上工夫しなくても良いように、問題の解決をうまく自動化することが得意です。服を一度発明していまえば、再び発明する必要はないです。必要なときに新しいジャケットを買えば、問題は解決するわけですから。

D:そうなんですが、数十億年後に人類は存亡の危機に直面します。太陽が赤色巨星になり、地球を飲み込んでしまいますから、我々は太陽系から脱出しなければならない。そうなったときにいったいどのような道徳の問題が起こるかわかりません。おそらく、誰が先に太陽系を去るかというような問題ではないでしょう。なぜなら、その頃には非常に強力な機械や技術を開発しているでしょうから。そして、あなたが言うようにその頃には、あらゆる種類の不幸というものが全く存在しないかもしれない。しかし申し上げたように、私にはそうなるとは思えない。私たちが犯しうる過ちの大きさに限界があるとは思えないんですよ。わからないですが、それが私たちの最大の問題であれば良いですね!

H:問題というのは、その他もろもろの責務を破棄せずに赤色巨星から逃げるということですか?

D:そうですね。

H:申し訳ないのですが、私たちの意見の相違の糸口を失ってしまったように思います。一つの問題は、あなたが知識や道徳などには基礎となるものがあるという概念に対してアレルギーがあるということです。その点、あなたはポパーの考えに同意しているということですね。私も、基本的にはそう思います。ほとんどの人が「基礎」だと主張するものには、明らかにそうではないものもある。しかし、現実は私たちの知識を超えていて、私たちがそれを知っているか否かにかかわらず、永遠に探求し続けなければいけなくて、しかも常に理論を修正し続けなければいけないという主張は、とてもポパー的な基礎のように思えるんですよ。先ほども言いましたが、私は道徳をナビゲーションの問題だと思っているんです。どういうものかはわかりませんが、自然の法則などに制限されたナビゲーションの問題だと思っているんです。私の理論の中から道徳という概念を排除しても、私の理論は間違っていないと思います。私たちはあらゆる経験が可能な空間のなかで生活をする意識を持った器官です。そして、ある経験は他の経験より良かったり、悪かったりするということを発見し続けます。よりクリエイティブだったり、そうでもなかったり。ですから、無意味な苦しみから逃れようとすることは決して間違いではないはずです。

D:私たちは、何がより良くて、何がより悪いかに関する意見を変えるでしょう。そして、私たちは理性に基づいて意見を変える。これが私たちの間のより根本的な意見の相違かもしれない。私たちが意見を変えるのは、たいていの場合科学に基づく方法ではないだろうということです。あなたは、『モラル・ランドスケープ』の中で「人間の本質に関する科学は存在しない」という誰かの言葉を引用して、その言葉をとても強く批判している。あなたはそれを、理性の本質的な限界に対する信仰だと表現しています。繰り返しますが、あなたは「科学」という言葉を私とは少し違った意味で使っていますが、私は理性に限界が存在しないことを信じているのです。道徳的な問題について理論を構築することは可能だし、またその理論を理性によって改善することができます。しかし、科学がそれに関係するのは、ほんの僅かに過ぎない。科学は基本的には関係ないと思います。

H:その「人間の本質を科学するものは存在しない」という引用に対する私の批判ですが、私があなたと同意している理性への信頼と同じことを言っているんです。科学とそれ以外の理性の境界は明確ではなく、私たちはこれからも驚くべき方法でその境界を乗り越えていくでしょう。例えば、トリノの聖骸布(https://shorturl.at/dizEW)が歴史上のイエスの遺物かどうかという問題についてですが、それは宗教的な主張だし、歴史についての主張です。科学に関する主張ではありません。しかし、放射性炭素年代測定法が発明されたことで、今では化学、あるいは物理学に関する主張になっています。このような科学の進化は絶えず起こっていて、今後もますます起こっていくでしょう。その動きは常に科学という観点からの進化であり、決して科学から遠ざかるものではないはずです。科学という道を外れることは決してないでしょう。

D:もしマトリックスの世界に移ってそこで暮らし続けるとしたら、次は何をするべきかという質問は科学的な質問にはならないでしょう。マトリックスをどうやってより大きくしていくかという質問は科学的ですが。

H:では、それは次回のトピックに取っておきましょう。とても興味深いトピックです。私たちがテクノロジーという分野でどのように進化していくのかという疑問が消えることはありません。より面白くなっていくでしょう。今日は貴重な時間を割いていただいてありがとうございました。








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