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Making Sense - Finding Our Way 1-1

A Conversation with David Deutsch

https://www.constructortheory.org/

ディビッド・ドイッチュ(デイヴィッド・ドイッチュ - Wikipedia)は科学的で哲学的で変革的な考えを、まるで簡単なことのように表現するのが上手です。彼はオックスフォード大学クラレンドン研究所の量子計算センター客員教授として、計算の量子論やコンストラクタ理論(Home » Constructor Theory)などの研究に取り組んでいます。
この章では二つの対談を紹介します。一つ目では、人類の知識の驚くべき力とその影響力、人工知能(AI)の未来、そして文明の存続について話します。
一つ目の対談の後にドイッチュは私の本「The Moral Landscape(The Moral Landscape - Wikipedia)」を読んで、それについて話したいと言いました。できればポッドキャストではなくて、個人的に話したいと。恐らく私の本の主張には同意できなかったのでしょう。それを、私のポッドキャストで話すのは失礼だと思ったのかも知れません。でも、私はどうしても私たちの会話を録音させて欲しいとお願いしたんです。もし、彼が私の考えを否定するのであれば、公の場でやって欲しかったのです。私たちは一度目の打ち合わせですべてを話し終えていたので、二度目の対談はとても充実したものになりました。
二度目の対談では、私たちはさらに知識の本質と、知識が特定の物理的な体現から独立していることの意味について探求しました。これが、ありきたりの話題であっても、ディヴィッドの見解を面白くさせる理由のひとつです。物理学者である彼は、「人がやりたくないことを無理やりやらせるのはなぜいけないのか」というようなありふれたことを理解することで、知識が最終的にどのように世の中で蓄積されるのか、ということを良く理解しているのです。彼の考え方にはとても驚かされます。私たちが自然界においてどのような位置にいるのかという大抵の科学的な見解とは異なり、彼の考えは私たちを全ての中心に位置づけるのです。

H:ディビッド、先ずはあなたが最も大事にする命題に関して疑問を呈してみたいと思います。具体的には人間の知識が及ぶ範囲と力についてですが、あなたの主張の中にはかなり人を驚かせるようなものがありますね。私は最終的にそれらに同意したいと思っているんです。なぜなら、それはとても希望に満ちているからです。でも、いくつかの疑問があるんですよ。

:是非、質問してください。でも、まず最初に言っておきたいのは、見通しは明るいですが、未来は予測不可能だということです。何も保証されていません。私たちの文明や、私たちという種が存続するという保証は何もないのです。でも、原理的にはその両方を存続させることができる方法を私たちが知っている、ということは保証できます。

H:あなたの理論について話す前に、まずは認識論の基本あたりから始めましょう。『無限の始まり(無限の始まり : ひとはなぜ限りない可能性をもつのか | デイヴィッド・ドイッチュ, 熊谷 玲美, 田沢 恭子, 松井 信彦 |本 | 通販 | Amazon)』の中で、あなたは「知識」や「説明」、さらには「人」といった言葉を斬新な方法で使っていますが、これらの言葉にどのような意味を持たせようとしているのかを知りたいです。まず、「知識」という概念から始めましょう。知識とは何でしょうか?

D:私の考える「知識」は、通常の使い方よりも広範です。しかしながら、逆説的ではありますが常識的な使い方に近いものです。知識とは情報の一種です。つまり、ある特定のものでありながら、しかもそれ以外であり得たかもしれないものです。さらに、知識は世界についての真実で役に立つことを述べているのです。
知識は物理的な具体化とは別のものなので、ある意味抽象的なものです。もちろん、知識を体現するような言葉を話すことはできます。文字にすることもできるし、コンピューターの中の電子の動きとして残すこともできる。つまり、知識というのは何か特別な具体化に依存しているわけではありません。しかしながら、知識が具体化されたときはその状態を維持する傾向があるということです。例えば、ある科学者がなんらかの推測を書き留めたところ、それが本物の知識であることが判明したとしましょう。それはつまり、彼が破棄することのない唯一の見解だということです。それがやがて出版され、他の科学者によって研究される見解となるのです。
つまり、知識とは、物理的に具体化された状態で留まる性質を持つ情報のことなのです。そう考えると、例えば、遺伝子のDNAの塩基対のパターンも知識であることがわかります。これは、カール・ポパー(カール・ポパー - Wikipedia)の「知識は知る主体を必要としない」という考え方と同じです。知識は本の中にも、心の中にも存在し、人は自分でも知らないうちに知識を持っていることがあるのです。

H:もう少し定義の質問をして良いですか。あなたにとって、科学と哲学の境界はなんですか。もしくは、他の合理性と科学の境界はなんですか。私の経験では、多くの科学者を含め、人々はこの点について深く混乱していると思うんです。私は長年、知識の統一について議論してきましたが、あなたはこの点で同じ意見をお持ちだと感じています。科学と哲学をどのように区別しているのでしょうか。もしくは、科学と哲学は別のものだとお考えですか。

D:そうですねぇ。科学も哲学もどちらも理性の現れだと思います。しかし、合理的な知識への取り組み方においては、科学とそれ以外の哲学や数学のようなものとの間には重要な違いがあります。それは、最も根幹のレベルの話ではなく、実用上大きな意味を持つレベルでの話です。つまり、科学とは、実験や観察によって検証することができる種類の知識なのです。ただし、科学的理論の内容がすべて検証可能な予測で構成されているわけではないことを付け加えておきます。典型的な科学理論の検証可能な予測はほんの一握りです。カール・ポパーが言ったことを紹介しましょう。「科学とは検証可能な理論であり、それ以外のものは検証不可能である」と。それ以来、人々はポパーが「科学的な理論だけが意味を持つ」と言ったと誤解しているんです。これは一種の実証主義ですが、彼は実証主義者とは正反対でした。彼自身の理論は科学的ではなく、むしろ哲学的なものですが、それでも意味がないとはもちろん思っていませんでした。大局的に見れば、理性と不合理の区別のほうが重要なのです。

H:科学はテスト可能なものに限定され、測定できない主張は空虚であるという考え方が広く浸透しています。また、科学とその他のあらゆる学問との間には、明確な境界線が存在するという考え方もあります。たとえ、その他のあらゆる学問でも、現実を正しく捉えようとしているにもかかわらずです。あたかも大学の枠組みが人々の思考を規定しているかのようです。化学の話をするなら化学科へ、時事問題について話すならジャーナリズム科へ、過去の人類の出来事について話すなら歴史科へ、というように。非常に頭の良い人たちでさえも思考が分断されて、これらすべての言葉による分断は両立不可能であり、複数の分野にまたがった共通のプロジェクトは存在しないと思い込んでしまっているんです。例えば、マハトマ・ガンジーの暗殺のような歴史的な出来事についてですが、それが実際に起きたということを疑おうとする人がいるとします。「実はガンジーは暗殺されたのではない。彼はその後、パンジャブで偽名を使って幸せに暮らしたのだ」と言う人は、データと食い違う主張をしていることになります。暗殺されたガンジーを見た人の証言や、彼が亡くなって横たわっている写真とも食い違うのです。それは、ガンジーは暗殺されなかったというその人の主張と、私たちが事実だと知っている歴史的な事実との整合性を求める作業です。
そしてその作業は、研究室の白衣を着た科学者の主張や、国立科学財団が資金提供する研究所で発見されるような類の話とは全く関係ないのです。それは、自分が信じていることが良い理由に基づいているのか、それとも悪い理由に基づいているのかの違いであり、あなたが言うところの理性と不合理の違いなのです。ガンジー暗殺について語るということは、ジャーナリストや歴史家のように科学的ではない話をしているように聞こえるかもしれませんが、だからと言って暗殺が起こったことを疑うのは、きわめて非科学的なことです。

D:人が何かを信じるという行為を、理性という観点からは説明できなのではないかと思います。でも、科学とは何か、科学的思考の境界線とは何か、どのような思考を真剣に受け止めるべきで、何をそうすべきでないのかについて、人々が間違った考えを持っているという点については、私も同意見です。ただし、大学教育の責任にするのはやや不公平ではないかと思います。このような誤解が生じたのには、もともとそれなりの理由があるんです。それは、18世紀の経験主義(経験論 - Wikipedia)に根ざしていて、当時の科学は伝統的な権威と戦う必要がありました。観察と実験的検証を伴う新しい形の知識を守るために戦う必要があったのです。
経験主義とは、知識というものは感覚を通して得られるとする考え方です。しかし、これは完全に誤りです。すべての知識は推測にすぎない。知識はまず内面から生まれて、そして問題を解決するためのものであって、決してデータをまとめるためのものではありません。しかし、この経験が、いや経験だけが権威を持つという考え方は、誤ってはいるものの、それ以前の権威と戦うには最高のロジックだったんです。それまでの権威というのは説得力もなく、退屈なものでしたから。でも、20世紀になると、とんでもないことが起きてしまいました。それは、人々が経験主義を本当に信じ始めてしまったんです。それまでの、古臭い権威に対する抵抗という意味ではなくて、文字通り経験主義を受け入れ始めたんです。そのせいでいくつかの科学の分野は消滅してしまいました。物理学の分野でも、量子論の進歩に大きな支障をきたしました。
そこで、私なりに少し屁理屈をこねてみると、科学に求められる本質というのは、正当な信念ではなく、優れた説明だと思うのです。理論を信じなくても科学は行えるのです。例えば、優秀な警察官や裁判官が、検察側の言い分も弁護側の言い分も信じずに法律を執行することができます。なぜなら、彼らは確立された特定の法体系が、個々の人間の意見よりも優れていると知っているからです。
科学も同じです。科学とは、信じるかどうかに関係なく、理論と取り組む方法なのです。そして、ある説明が、実験的検証を含むかどうかにかかわらず、理性と科学が適用できる激しい批判に耐えられる唯一の説明である場合、その時点で採用されるというより、捨てられないだけなのです。それは、現時点では生き残ったということです。

H:あなたが、知識の究極的な基礎を見つけなければいけないという考え方に反発し、より良い説明を求めて探求し続けることを奨励していることは理解できます。でも、ここでちょっと整理させてください。科学的権威という概念に触れてみましょう。よく、科学では権威を頼りにしない、と言われますね。しかし、それは正しいとも正しくないとも言える。私たちは、効率性を追求するために、実際のところは権威に頼っています。もし私が物理学について質問したら、あなたの答えを信じるでしょう。なぜなら、あなたは物理学者で、私はそうではないからです。そして、もしあなたの言うことが、他の物理学者から聞いたことと矛盾していたとしたら、私はそれをもっと調べて、矛盾の根源を探ろうとするでしょう。
しかし、もしすべての物理学者が合意していることがあれば、私のような物理学者でない人間は、その合意の権威に従うでしょう。繰り返しになりますが、これは認識論というよりも、知識の専門化、人間の才能の不平等な分配、そして率直に言って、すべての人間の人生の短さについての話です。私たちには、すべての人の研究をチェックする時間はありませんし、時には、科学的に意思の疎通を図る過程で様々な誤りや自己欺瞞、不正を正してくれると信じざるを得ないこともあると思います。

D:そうですね。その通りだと思います。あなたが言う合意と呼んでいるものは「権威」なのかも知れない。でも、科学に貢献しようとする学生は皆、その分野の全ての科学者が間違っている何かを見つけようとしています。ですから、ある人ひとりが正しくて、その分野に関する他のすべての専門家が間違っているという主張はあながち間違いではないでしょう。私たちが専門家に相談するのは、彼らがより有能だと思うからではありませんから。あなたは、科学的な意思の疎通が間違いを正す、ということについて触れましたね。これは正鵠を射ていると思います。もし私が、自分の治療法について医師に相談した場合、医師がその治療を勧めるに至った過程は、もし私が医学部に通う時間や環境にあったとしたら採用したであろう過程と同じであると考えます。しかし、全く同じではないかもしれませんし、医学界にも誤りや不合理が蔓延しているという見方もできます。そして、もし医学界についてそう考えるなら、私は考え方を変えるかもしれません。例えば、どの医師に相談するかは、もっと慎重に選ぶかもしれません。また、飛行機に乗るときは、もし自分が整備したなら採用するであろう基準で整備されていることを期待します。それは、おおよそ私が採用するであろう基準という意味で、例えば私が道路を渡るときに考えるリスクと同じレベルの基準があれば、その飛行機に乗ることを検討するには十分な基準だということです。それは、その人が正しい情報を持っているという言葉を鵜呑みにするわけではなくて、その正しいという情報を得るために起こった事象に対して私は肯定的で、説明可能な理論がある考えるというだけなのです。そして、もしその理論が心もとないものであるならば、躊躇なく違う理論を採用するだろうということです。

H:確率的な問題もありますよね。確かに多くの間違いや不合理なことが是正されていることは認識しているし、それはもちろん良いことです。しかし、誤りの確率が高いと判断して、注意を払う必要がある場合もあります。
なんとなく、まだあなたの言っていることを正確に把握できていない気がするんです。概ね、科学というのは昔からの人間中心主義(人間中心主義 - Wikipedia)との戦いの物語ですよね。

D:そうですね。

H:私たちは特別な存在として創造されたわけではありません。遺伝子の半分はバナナと、更に半分以上はナメクジと共通しています。あなたが『無限の始まり』で説明したように、これは「平凡さの原理」として知られています。あなたは本の中でホーキング博士の言葉を引用していますね。私たちは銀河系の外れにある、ありきたりな星の軌道上にある、ありきたりな惑星の表面にある化学的なチリに過ぎない、と。この主張に対して、あなたはさまざまな角度で問題提起しますが、最終的には、ある意味、元の主張に戻っているように思います。科学者なら誰でもそうするように、人間中心主義を乗り越え、人間、いや、人が突然、宇宙的にさえも非常に重要な存在になるところに到達すると主張しています。そのあたりをもう少し詳しく教えてください。

D:はい。ホーキング博士が言ったことは文字通り真実です。しかし、彼が導いた哲学的な示唆は正しくないと思っています。まず第一に、この化学的なチリ、すなわち私たちですが、それと他の惑星や他の銀河にいる私たちのようなものを、宇宙にある他のすべてのチリを研究するような方法で研究するのは不可能だということです。なぜなら、このチリは新しい知識を創造しており、知識の成長は全く予測できないからです。ですから、このチリを理解することは、宇宙のすべてを理解する必要があるということです。ましてや、予測することなんてできるはずがありません。
これに関しては『無限の始まり』の中でも例を挙げています。もし、地球外知的生命体の探索をしている人たちが、銀河系のどこかで地球外知的生命体を発見することに成功したら、シャンパンを開けてお祝いするでしょう。では、そのボトルからコルクが抜けるための条件は何でしょうか。それを科学的に説明しようとすると、圧力や温度、コルクの生物学的劣化などが条件になりますが、そんな通常の科学的基準は関係ありません。そのコルクの物理的挙動で最も重要なのは、他の惑星に生命が存在するかどうかということなのです!そして同じように、宇宙のあらゆるものが、人間の影響を受けるものの総体的な挙動に影響を与えることができるのです。つまり、人間を理解するためには、すべてを理解しなければならないのです。そして、人間、あるいは人全般は、宇宙で唯一の真理なのです。だから、その意味で人間は宇宙的な重要性があるのです。それから、その逆もありますね。物理的な世界における人間の知識と人間の意図の届く範囲は無限であることも事実です。
ですから、私たちはこの小さな、取るに足らない惑星に比較的小さな影響を与えることに慣れ、宇宙は私たちの理解を超えていることに慣れています。しかし、それは偏狭な誤解です。私たちはまだ宇宙を横断していないのですから。私たちがそうしたいと思えば、私たちが宇宙へ与える影響に限界はないのです。ですから、この二点のことから、私たちがいかに重要かということに限界はないのです。地球外生命体や人工知能が存在するとしても、同じことが言えるでしょう。宇宙を理解する上で、私たちは中心的な存在なのです。

H:もう一度質問しても良いですか。先に進みたいとは思っているのですが、ここまでのあなたの説明を少し理解しかねているんです。取り敢えず、「説明」のコンセプトとその作用について話しても良いでしょうか。
あなたの本では、あなたが「説明」について主張している点について、私は議論の余地がなく、当然だとさえ思うのですが、実際には教養ある人々の間では大いに議論になっていますね。そのひとつは、説明が科学界の基盤になっているという考え方です。つまり、理性全般の基盤という意味です。ある知識分野に関する説明は、他の多くの分野の説明に関連する可能性があります。すべての分野と言っても良いかも知れません。そうだとすると、これは知識の統合を意味することになります。しかし、あなたはそれに関してある二つの大胆な主張をしていて、私はそれに関して疑いを抱いているんです。疑いたくなんてないんですよ。なぜなら、それはとても希望に満ちた主張だからです。
まずはその二つを「説明の力」と「説明の到達点」に分けて考えてみたいと思います。あなたの中では、これらはまったく別個のものではないかも知れませんが、あなたはそれぞれについて明確な重点を置いていますね。
あなたは、説明について、一見ありきたりだけど、とても特別な主張をしています。世界を説明することと、世界をコントロールすることの間には、深いつながりがあると。これは誰でもある程度は理解していると思います。私たちの周りには、証拠となる物事がたくさんありますから。フランシス・ベーコンの言葉だと思いますが、「知識は力なり」というよく知られたフレーズとどうようの意味だと思います。しかし、あなたは先ほど言っていたように、知識が無限の力を与えるとか、更には自然の法則によってのみ制限されるとまで言っている。つまり、正しい知識があれば、自然の法則に縛られないことは何でも実現可能だということですね。なぜなら、もし正しい知識があるにもかかわらず達成できないことがあるとしたら、それ自体が自然界の規則性であり、自然法則の観点からでしか説明できないからです。つまり、可能性は二つしかないということです。自然の法則によって阻まれているものか、知識があれば実現可能なものかのどちらかです。私はあなたの主張を正しく理解しているでしょうか。

D:はい。私はそれを「重大な二分」と呼んでいます。第三の可能性はあり得ないのです。あなたがたったいま証明したように。

H:敢えて反対意見を唱えてみますが、これは単なる巧妙なトートロジー(トートロジー - Wikipedia)ではないでしょうか?例えば、神の存在を証明する存在論的な議論に似ているんじゃないかと思うんです。アンセルムス(アンセルムス - Wikipedia)、デカルト(ルネ・デカルト - Wikipedia)、その他多くの人たちによれば、神についての思考を強制することで、神の存在を証明することができると主張しています。例えば、私は次のような主張をすることができると思うんです。「最も可能な限り完璧な存在の明確な概念を形成することができる。そして、そのような完璧な存在はそれゆえに存在しないといけない。なぜなら、存在するものは存在しないものより完全だからだ。」私は最も可能な限り完璧な存在について考え、そして存在するということが完璧なのだと断定しました。
もちろん、まともな教育を受けた人の多くは、これが言葉のトリックだとわかります。そして、このトリックは他のあらゆるものの存在を証明するために使うことができます。例えばこんな具合に。「私は今、最も完璧なチョコレートムースのことを考えています。なぜなら、存在するムースは、存在しないムースよりも完璧だからです。私は最も完璧なチョコレート・ムースのことを考えているって言いましたよね。」
あなたが言ったことは全く同じ構造ではありません。でも、同じようなトリックで煙に巻いているのはないかと心配する人もいるかもしれません。なぜ、完全な知識があっても、物質的世界のある種の変容が達成できないのでしょうか?『無限の始まり』の中であなたがこれを予期していることは理解していますが、もう少し具体的に説明してほしいんです。例えば、地理的な偶発性が原因ではないのか、とか。
例えば、あなたと私がある島にいるとして、友人の一人が虫垂炎で倒れたとします。あなたと私はともに有能な外科医だとしましょう。虫垂を切除する方法はすべて知っている。でも、たまたま必要な道具がなく、しかもその島のものはすべて柔らかいものでできていて手術には使い物にならない。つまり、私たちの個人的な経歴のめぐり合わせによって、知ることができること、実際に知られていることと、達成可能なことの間にギャップがあるのです。盲腸の手術ができないというような自然の法則の縛りはないとしても、私たちが存在するこの世界では、私たちの歴史という偶発的な事実によって、このようなギャップが生じるのではないでしょうか。

D:そうですね。そのようなギャップはあるでしょう。でも、それはすべて自然の法則なんですよ。例えば、私は量子論の「多元宇宙論(多元宇宙論 - Wikipedia)」を提唱していますが、これは、物理法則によって到達できない別の宇宙が存在するというものです。また、光速の有限性というのもありますね。光速の有限性は、私たちがどこへでも行けることを妨げるものではありませんが、ある一定の時間内にそこに到達することを妨ぐものです。つまり、1年以内に最も近い星に行きたいと考えても、私たちがいるこの世界からは行くことができないのです。
あなたの先ほどの例ですが、もし島に金属がない場合、その島のあらゆる知識を駆使しても、その人を救うことができないかもしれません。なぜなら、その島にある資源を時間内に適切な医療器具に変えることができる知識がないからです。つまり、特定の時代と場所にいるために、その世界の物理法則が適用されるという制約があるのです。
しかし、それはあなたが想像していることとは全く違います。例えば、あなたは、私たちが太陽系から出ることができないなんらかの理由があると考えているかもしれない。もし太陽系から出ることが不可能だとしたら、それは何らかの限界値があるということです。例えば、自然界の定数が他の既知の自然の法則を適用することを制限するような数値です。もちろん、私たちが知らない自然の法則があることは確かです。しかし、「これを制限する自然の法則がないとどうしてわかるのか」と言うのは、創造論者(創造論 - Wikipedia)が「地球が6千年前に始まったとどうしてわかるのか」と言うようなものです。
それを否定できるような証拠はないのです。6千年なのか7千年なのかを判別できるような証拠はありません。6千年でも7千年でも、どちらの場合の説明も、互いの説明に、あるいは他の無数の場合の説明に変容し得ます。一方と他方を区別するために、証拠や合理的な議論を持ち込むことはできないのです。その説明が容易に変容してしまうということが、悪い説明の特徴であり、合理的に、即座に拒絶されるべきものです。あなたが言ったように、神の存在に関する存在論的議論(存在論 - Wikipedia)は、論理の倒錯です。論理を使うように見せかけながら、完全性が存在を伴うというような仮定をこっそり持ち込むのです。論理の倒錯によって、何でも「証明」できるように見えるのです。だから、それも悪い説明なのです。一方、私の議論は非常に説明的です。単に「これは存在しなければならない」というだけではないのです。「もしこれが存在しなければ、まったく別の理由で、何か受け入れがたいことが起こるだろう」ということです。例えば、宇宙が超自然的なものに支配されてしまうとか、そういうことです。つまり、私の主張は説明的であるからこそ成り立つのです。もちろん、それが真実であることを証明することはできませんが、存在論的な議論とは正反対のものなのです。

H:あなたは、まず自然の法則があり、そして知識はその法則に適合するものであれば何でも可能にすると主張していますね。それは、知識がいかに役に立つかということに対する驚くほど強烈な主張です。あるとき、あなたは読者に、太陽系と同じ大きさの銀河系空間の立方体に、漂う水素原子しか入っていない状況を想像してくださいと言いました。そして、その真空に近い空間を、私たちが想像しうる最も高度な文明の基礎とすることができるプロセスを説明していますね。
その状況をわかりやすいように、実質的に何もないところから、いかにして深遠な複雑なものを生み出すことができるかを説明してください。それは、知識の力に基づく、宇宙のほとんど無限の可能性を示すものだと思うんです。

D:はい。まず、あなたと私は原子でできていますね。原子は普遍的なものですから、その意味ですでに私たちはとてつもない融通性、代替可能性を持っているのです。原子の特性は、何百万光年も離れた立方体の宇宙でも、ここにある原子と同じです。だから、島にある資源だけで誰かの命を救うとか、遠い惑星に一定の時間で行くとか、そういう話ではないんです。ある物質を別の物質に変えるという話なんです。そのために必要なものは何ですか?一般的に言えば、必要なのは知識です。ほとんど何もない立方体の空間には、何らかの知識が入らない限り、ありきたりの水素原子と光子以外のものは存在しません。そうすると、そこに到達するかどうかは、知識を持つ人々が下す決断にかかっています。知識を持つ人々がそれを実現しようと決断すれば、知識がそこに到達することは間違いありません。それが可能であるということは、未来的な推測の話ではありません。ある配置の原子を別の配置の原子に変換すればいいだけの話です。そして、それが日常茶飯事であるということに、私たちは慣れつつある。3Dプリンターは、一般的なものをどんなものにも変えることができます。ただし、その物体がどんな形であるべきかという知識が、3Dプリンターに何らかの形でエンコードされていることが条件です。原子1個を持つ3Dプリンターは、適切なプログラムが与えられれば、人間を創造することができるでしょう。

H:つまり、水素原子からスタートして、より重い元素を作らないと3Dプリンターにはたどり着けないということですね。

D:そうです。この水素が漂っている宇宙の立方体は、抽象的な知識だけでではだめで、何か具体的な生成された知識を注ぎ込む必要があります。私たちは、何が最も小さな単位の普遍的なコンストラクタ(構築子)なのかを知りません。(3Dプリンターの話に沿って説明すると、という意味です):それは、機械を作る機械がまた機械を作り、更にその機械がまた機械を作り、といった具合になんでも作るようにプログラムすることができます。そのうちの正しいプログラムを搭載した機械が、何もない宇宙空間に送られると、まず水素を集めます。まぁ、電磁波というほうきで水素を集めるということですね。そして、変換することによって水素を他の元素に変え、それから化学反応によって、今日我々が原材料として考えている物質に変えていくだろうということです。そして、宇宙ステーションを建設するために、私たちが今まさに行おうとしている宇宙での建設作業を利用するのです。そして、その宇宙ステーションは、更に多くの水素を吸収してコロニーを作ったりするために、人々に具体的な知識を生成するのです。

H:それはとても面白い視点ですね。知識そのものと、それから知識がこの世界や宇宙においてどいういう位置づけにあるのか、という観点で非常に面白い。次に説明の到達点(リーチ)の問題について話したいのですが、その問題にはちょっと引っかかる点があるんですよ。でも、その前に地球は我々の宇宙船だという概念について話してもらっても良いですか。あなたが、地球の生物圏は私たちにとって素晴らしい環境だという説が間違っていることをいとも簡単に証明しているのが素晴らしいですね。火星や太陽系の他の場所にコロニーを作れば今とは根本的に異なる状況になる、というのは間違っていますよね。あなたは『無限の始まり』の中で、地球は私たちに生命維持システムを提供しているわけではないと言っていますね。せいぜい電波望遠鏡を与えるくらいだと。

D:そうです。私たちは、東アフリカのグレート・リフトバレー(大地溝帯 - Wikipedia)のどこかで進化しました。そこでの生活は、人間にとって地獄のようなものだった。"不快で、残忍で、短命 "という言葉では言い尽くせないほど、恐ろしいものだった。しかし、私たちはそれを変えたのです。というより、私たちの前身となる種のいくつかは、衣服、火、武器といったものを発明し、それによって、現代の基準から見ればまだひどいものの、彼らの生活をずっとよくしたのです。その後、人類は私の職場であるオックスフォードのような環境に移っていきました。因みに今は12月ですが、もし今、何のテクノロジーもない状態で外に出たら、数時間で死んでしまうでしょう。

H:つまり、既に宇宙飛行士になっているのと同じなんですね。私たちは、ある程度の技術的進歩の恩恵を受けることはできるけれども、火星にできたコロニーに住む人々と同じくらい不安定な状況にある。大災害のような理由で、地球を見捨てなければいけないような未来が私たちを待ち受けている可能性もないとは言えない。しかも、その大災害は私たちが引き起こしてしまう可能性だってある。

D:そうですね。そう思います。更に、「地球は優しい」という概念に関連するもう一つの誤解があります。それは、「知識を用いるには努力が必要だ」という考えです。実際はそうではなくて、知識を創造することには努力が必要だということです。しかし、知識を用いることは自動的に行われるんです。例えば、誰かが服を着るというアイデアを発明したとたん、その服が自動的に人を暖めるようになります。それ以上の努力は必要ないのです。もちろん、その服には悪いところがたくさんあったかも知れない。でも、その後人々はより良い服を作る方法を発明したのです。
そして、私たちはモノを大量生産する方法や、工場を無人化するなど、さまざまなものを発明しました。水道から水が出ることは当然だと思っている。誰も大きな壺に水をいれて頭に乗せて運ぶ必要はないのです。努力する必要はなく、自動化されたシステムの設置方法の知識だけが必要です。人間が気を付けて見守る必要や労力はますます必要なくなっている。私たちの生命を維持するシステムの多くは自動化されていて、より優れた生命維持の方法を発明するたびに、さらに自動化されていきます。だから、月のコロニーにいる人たちにとって、真空にならないように維持することをいちいち意識したりしません。それは当たり前のことなのです。彼らが考えるのは、新しい技術の向上です。これは、火星に行っても、もっと遠くの宇宙に行っても同じことが言えます。

H:繰り返しになりますが、あなたのお話は、私たちの実現可能な未来についての、信じられないほど希望に満ちた展望だと感動します。これまでのところ、存在論的(存在論 - Wikipedia)な議論を装ってはいるものの、私が大きな疑念を抱いていることはありません。次に、説明の到達点(リーチ)について話しましょう。あなたは、その到達点が無限だと考えのようですね。実践や原理で説明できるものは、全て人間によって説明することができると。
あなたは、地球上のすべての種の中で私たちだけが、一種の認知における脱出速度(脱出速度 - Wikipedia)を達成し、すべてを理解することができると言っているように思えます。そして、あなたはこの考え方といわゆる「偏狭主義」と対比していますね。これは、私も他の多くの科学者と同じように、しばしば表明してきた見解です。マックス・テグマーク(マックス・テグマーク - Wikipedia)と私は、以前このポッドキャストでこのテーマについて議論しました。人間はとても進化したものの、いまのところ現実の本質を完全に理解できるようには設計されていません。例えば、非常に小さいもの、非常に大きいもの、非常に速いもの、非常に古いもの、これらは、人間の何が現実で、何が論理的整合性があるのかに関して理解するための直観が働く領域ではありません。自然選択(自然選択説 - Wikipedia)によって調整されたものです。私たちがこれらの分野で遂げてきた進歩は単に運が良かったからで、私たちが望む限り知ることのできるすべての地平線を越えて旅することができると信じる理由はないと思います。つまり、もし超知的な宇宙人が地球にやってきて、私たちに知りうることをすべて説明しようとしたところで、量子計算の原理をニワトリに伝えようとするのと同じように、何も進展しないかもしれないということです。
このような例えが間違っているとお考えですか?なぜ偏狭主義が間違っていると言えるのでしょうか。私たちはある種の知ることのできる真理に対して認知的に閉鎖的なニッチを占めているだけで、そこから完全に逃れることができると期待する正当な進化的理由がないのではないでしょうか。

D:あなたは今いくつかの異なる主張しましたが、全て間違っています。まず、ニワトリの件から説明しましょう。ここでは、計算の普遍性がポイントになっています。説明というのは情報の一形態であり、情報は基本的に1つの方法でしか処理できません--バベッジ(チャールズ・バベッジ - Wikipedia)やチューリング(アラン・チューリング - Wikipedia)が発明したような計算です。私たちは、コンピュータはが普遍的であることはわかっています。正しいプログラムがあれば、説明やその他の知識の創造を含む、あらゆる情報の変換を行うことができるからです。ただし、これには二つだけ制限があります。ひとつはコンピュータのメモリの不足、つまり情報記憶容量の不足で、もうひとつは速度の不足、つまり時間の不足です。それ以外では、私たちのコンピューターも、私たちの脳も、そして宇宙のどこかでこれから作られる、あるいは作ることのできるコンピューターも、同じ構造をしています。それが計算の普遍性の原理です。つまり、ニワトリに量子力学を教えることができない理由は、ニワトリの神経細胞が遅すぎるという可能性があります。ただし、これは正しいとは思いません。ニワトリの神経細胞は人間のそれとたいして変わらないのです。そして、十分な記憶力がない可能性もあります。でも、これも正しくない。そうすると、ニワトリに量子力学を教えることができない理由は、ニワトリが正しい知識を現時点で持っていないという可能性です。ニワトリは言語を学ぶ方法、説明とは何かを学ぶ方法、そういったことを知らないのです。

H:量子力学を学ぶのには適したニワトリではないということですね。

D:もしあなたがニワトリではなくて「チンパンジー」を例に出していたら、私は、チンパンジーの脳には、言語を習得するための知識が含まれているかもしれないと言ったでしょう。しかしながら、だからと言って量子力学を教えるためにはチンパンジーの脳に何らかの微細手術を行う必要でしょうし、そんな手術をすることはモラルに反している。しかし、原理的には可能です。なぜなら、チンパンジーの脳は私たちの脳よりもそれほど小さくはありませんし、記憶を満たすために一生を費やすこともできる。そうすれば、チンパンジーが興味を持ったとしたら、量子論を教えることもできるでしょう。
それでは、もし、その超知的な宇宙人が私たちよりもはるかに多くの記憶容量を持っていたらどうなるでしょうか?もし彼らが私たちよりもはるかに高速な計算能力を持っていたらどうでしょうか?それについてはもう答えがわかっていますよね。私たちは書き物、筆記用具、言語自体などの発明によって数千年間にわたり、私たち自身の記憶容量や計算速度を向上させてきました。これにより、複数の人が同じ問題に取り組み、皆が同じように理解することができるようになりました。私たちは現在ではコンピュータを使い、将来的にはコンピュータの脳へのインプラントなどを使用することができるでしょう。したがって、もし宇宙人が伝えたい知識が私たちの脳の容量以上であっても、原理的には私たちは自分たちの脳を十分に強化して、伝えられた知識を理解することができます。宇宙人が言っていることを理解できないと考えるような根本的な理由はないんです。

H:これらすべては計算の普遍性という概念に委ねられているということですね。つまり、情報処理の方法というのは計算以外にないのだと。それに関して何が興味深いのかというと、私たちが計算に関して無限の領域にかろうじて到達したばかりだという主張です。
ニワトリの話はやめて、もう少し意地の悪いたとえ話をしましょう。もし1850年にIQが100以上の人々がすべて伝染病で死亡し、その子孫すべての人のIQが100以下だったとしたら、インターネットは生まれなかっただろうと言っても過言ではありませんよね。実際、計算の概念すら生まれず、それを具現化するためのコンピューターを作る可能性すらなかったでしょう。
そうすると、この計算の普遍性に関する洞察が発見されることはなく、私たちが当たり前のように受け入れている事実や技術の進歩の領域に対して、あらゆる意味で人類は認知的に閉じられている状態だと言える。つまり、あなたが言うような、私たちを知識の限りない地平へと導いてくれるような技術の進歩にはたどり着くことができないことになります。

D:その考え方は間違っていると思います。あなたが言っているIQの前提は私の議論とかみ合ってないですね。

H:しかし、計算自体が原理的に普遍的であっても、そこを下回ったら認知的に閉じられてしまうという下限があるのではないですか。

D:そうかも知れません。しかし、認知的な閉鎖現象がどのように表れるかを考える際には、ハードウェアとソフトウェアを区別する必要があります。先ほど申し上げたように、ハードウェアの限界というのはあまり意味がない。微細な手術を行うことで、チンパンジーの脳にアイデアを移植すれば、人間と同じように新たな知識を創造することができるようになるでしょう。 IQの話に関しても疑問を持っています。IQが100を超える人々が死んでしまったからといって、次の世代では誰もIQ100を持たないかどうかはわからない。IQ100を持つ人も生まれてくるかもしれない。それは文化によって異なるでしょう。

H:もちろんそうです。これはもっともらしい生物学的、または文化的な仮定というつもりではないんです。私はただ、世界中の70億人のなかで誰一人としてアラン・チューリングのやろうとしていたことをまったく理解することができないような世界を想像してほしいと言っているだけなんです。

D:その悪夢のようなシナリオはちょっと違っています。それは実際に起こったことなんですよ。しかも、人類の存在のほとんど全体にわたって。人類は創造的であり、私たちがしていることすべてを行う能力を持っていました。でも、彼らはそれを行わなかった。彼らの文化が間違っていたためです。彼らのせいではありません。文化の進歩は、科学や生活を改善する重要なものを抑圧するという困った傾向があります。ですから、あなたの言っているシナリオはあり得るし、再び起こる可能性もある。私たちがそれを防ぐように努力をすること以外に、そのようなシナリオが実現してしまうことを防ぐ手立てはないんです。

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