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"The LEPLI" ARCHIVES-64/ 『今後は、“肉”、“骨”そして“皮”の3つの 構造で着る、複合化された新たな「安心/安全/健康と快適さ」と言う『服』に対する究極の考え。薮睨み巴里-コレ‘12/13-A/W 速報−1、”CdG、川久保玲は?” 』

文責/平川武治:
初稿/2012-03-03:

 「今シーズンのCdGの服は実は、ショーで見えた服の全ては
“和服”のカテゴリィー。」
 
昨日行なわれたコムデギャルソンのコレクションは
今シーズンも観客たち、珍しいものが大好きなジャーナリストたちを
喜ばせるには充分に成功したショーだった。
(例の、style.comを見て喜んでいる人は既に、ご承知であろう。)
 
 でも、僕は違った所でひどく感動したショーだったのである。
日本の現在のファッション産業に於ける僕たちの國が持ち得た
それぞれの素晴らしい技術を見事に駆使して出来上がっている
コレクションであったからである。
 日本でしか出来ない幾つかの技術を堂々と使って,
この様な自分世界をこれ見よがしに発表出来る
このデザイナーとそのチームの気骨と凄さを感じたコレクションだった。
 ここにも,認識しなければいけないデザイナーの役割が見える。
デザイナーは自国の産業技術を生かす事で可能なデザインを
真剣に考えると言う事。
 これもデザイナーに課せられた大きな役割の一つであるからだ。
このあたりが無知で只,表層の外国人たちのデザインに右往左往して
喜んでいるレベルの若手と称されているデザイナーが多い中では,
川久保玲でしか出来ない行為であろう。
 また、そんな自分たちのレベルで大いに勘違いし,
イキがっている若手デザイナーがしょうもなくメディアで騒がれている
現実との差異はやはり,このブランドが“凄い”と言われる
プロ中のプロとしての強かな根拠であろう。

 「人間の身体は,“肉”と“骨”と“皮”で出来上がったもの、」
 今シーズンのCdG、川久保玲がデザインした服の世界の発想は
みんな“骨”で着る服であった。
 「服は誰が着るか?」と言う究極の答えは,
『服とは人間』が着るものであり,
それがどのような女が着るか,どのような男が着るかの違いである。
 では,その『人間』はどのような構造体をしていて、
身体のどの部分で着るのか?
 ファッション教育ではこの根幹的な発想と理論とその現実が
完全に飛ばされて教えられていない。
 ここでも,日本人に欠如している”哲学的思考発想”が
その世界をただ、”ごっこ”化しているだけである。
 より、解り易い表層の洋裁マニアルを教えているのである。
従って、この様な発想を持って“服”作りを自分の世界観の中で行なっているデザイナーも少ないのである。
 人間の身体は,“肉”と“骨”と“皮”で出来上がったものである。
ここを初源として服作りの発想を展開して行けば,
造形的にはかなり面白い事が考えられ,創造出来る可能性の世界が在る。
 しかし、今のファッション教育の現実と教える側のレベルからでは,
もう,“創造の世界”は既に、完了してしまっている。
 これは戦後日本のファッション専門学校の発端が
「戦争未亡人のための”手に職を”」教育する機関だったことに由来する。
従って、多くに見られる“工芸性”に委ねるしかない世界なのだ。
(極論すれば、懸けなくてもいいのに、わざわざ手を懸け過ぎる勘違いしたデザイン。これらがファッションコンテスト作品に多い由来でもある。)
 僕流に行ってしまえば,世界の民族によって即ち,自然環境の違いを始め
それぞれの国家,都市が持っている歴史,文化の相違から大きく分類すると
 『西洋服は“肉”で着るもの。和服は“骨”で着るものそして、
もう一つが、“皮”で着るもの。』この“皮”で着るカテゴリィーは、
フェティシズムやボンテージそれに古くからでは,
シャーマニズム的なる“衣裳”の世界がこの“皮”で着る世界なのだ。
 そして多分、これからはこの“皮“で着る“服”に大いなる可能性が
残されているのが今後のファッションの造型の世界であり、
より、自由な発想が出来うる世界だと僕は考える。
 現在はこの“皮”で着る世界は
殆どが、ただの解り易い『2nd.skin』レベルでしかないのである。
ストッキング、タイツ、レギンズ、ボディータイツ、補正下着、黒、無地色そしてプリント迄と、レザーとラバーが現在の“皮”で着る世界の
貧しい進化と主役でしかない事も確認すべきである。
 例えば,この“皮”出来る事を広範囲に考えると,
今後,服を着る事で、着ている身体箇所が“治癒”されると言う
古くて新たなコンセプトが甦る事も可能である。
(現在も、”薬”の単位が、「服」である由来もここにある。)
 また、もう一つには,現代では“着ぐるみ”がある。
そこで、今後は、“肉”、“骨”そして“皮”の3つの構造で着る、
複合化された新たな『安心/安全/健康と快適さ』と言う
『服』に対する究極の考えが
今後のファッションクリエーションの醍醐味と面白さと
より、人間的なる自由な可能性そのものになろう。
 ここで,“服”の世界が新たな距離観で“建築”に近くなる。
人間が生きるための空間としての“建築”と
人間が生活するための空間としての“服”という発想である。
(今,日本では“着ぐるみ”マニアがここ迄進化(?)している現実はhttp://blog.goo.ne.jp/tutinokoland/c/964ea040f175007dadb795094561fba7がおもしろい。)

 さて、話をCdGのコレクションへ移そう。
 川久保玲がデザインした今シーズンの彼女の世界観は
みんな“骨”で着る服であった。
と言う事は彼女が提案した今シーズンの服はショーで見える限り、
全てが“平面パターン”で構成された服である。
 “2次元の世界“を服化した?
又は、現代社会の“2次元でフラットな世界観”を服化したとも読める。
 ちなみに、僕の理論で言えば、先程の”肉“で着る西洋服は
3次元の世界であり、
従って、パターンメイキングが服のクオリティに重要性を増す事になる。
“骨”で着る和服は平面の布で包むと言う行為に近く、
“皮”で着る服とは“袋若しくは、腸詰めソーセージ”作用で着る(?)。
そして、ここに三者三様のセクシーさが伺えもする。
 
 従って、今シーズンのCdGのショーで見えた服の全ては
“和服”と同じコンテンツで構成されたものだったと言う発想も出来る。
平面パターンで構築された“服”であるから
着るという行為は全て“肩骨”で着る(乗せる)構造になってしまっている。
 或る意味では建築の世界でA.ペレが1903〜4年に初めて、
その後、ル-コルビジュエや
彼の作品を大いにパクった安藤忠雄等で
一時、流行したコンクリートの構造体そのモノが壁面であると言う
コンテンツの“コンクリート打ち放し”の近代建築の発想とも相似する。
 平面構造をそのまま構造体とした発想での
“フラット-パターン”に依って構造化された服である。
 このコンテンツそのものは新しくない。
‘90年代始めには僕の大好きな巴里のデザイナー
JEAN COLONNAが僕にくれたコートも
同様な発想の元でロック縫いに依って出来上がっているものである。
 丁度、ショーの前日に彼のコオトを着ていたので僕は機嫌が良かった。

 今シーズンのCdGの“フラットーパターン”は
着る身体を軸にして平面でフラットにするか、直角でフラットにするか?
の構成である。
これら、“単一”のものと、これらを“複合”したものとの
大きく分けると2タイプであった。
 当然、素材は素材そのものに“張り“があるものが選ばれ、
ウール、レーヨンの2ミリのフェルト素材が主流。
後は、ジャガード、綿別珍とウールギャバジンも久しぶりに。
それに,サーヴィスとしての”フィルム-ラメ地”も。
 
 ”装飾”の巧さとは、”素材”と”技術”そのものの素晴らしさ。 
 冒頭の僕が感動したと言うのは、これらの素材に施された装飾としての、
幾タイプかのプリント技術、染色技術、パッチワーク技術等が,
やはり、日本ならではの、
日本でしか出来ないであろう技術を使いこなしての挑戦だったからである。
 このコンテンツでは当然、平面面が広く多くなるから
色とプリントで装飾して
その面のバランスを美的に,知的にセンスよく考え使っている。
 ここで観客はまた、“凄い!”となるのであろう。
これらの面をアートギャラリーよろしく,
20世紀の,もう古くなりかけた寧ろ,
ノスタルジックな“抽象画”や“POP絵画”
それに,‘80年代のミラノで突然的に起った
“メンフィス”ムーブメント時代を
彷彿させる装飾プリントも使われた。
 この辺りの装飾の選び方とこなし方もこのブランドらしく知的である。
そして,色でも遊んだ。
赤,ピンク、薄紫,青と黒。
全く,今回は“黒”が脇役であった。
 
 “全身マスク”発想,即ち“着ぐるみ”コンテンツ、 
 ショーの後半に数体が突然に登場したものに
“全身マスク”的なコンテンツの服が現われた。
生地素材に花柄プリントよる“フラット-パターン”での,
マスクとフードつきが現われた。
 これは完全なる“全身マスク”発想,
即ち“着ぐるみ”コンテンツであろう。
 この数体は,先程の“皮”で着る服のカテゴリーに入る
可能性大いにあるものなのであるが,
この体数で止めてしまったと言う事は?
時間が無かったのか?面白く感じなかったのか?未完だったのか?
詮索してみたくなる。
 今シーズンの靴もいい。
木製サボヒール付き(5cm?)に皮の染色を一部,ぼかしたものは
結構、新しく感じるものであった。
 
 見るからに『ペーパードール』,『マネキン人形』
そして,『サイバードール』へと時代の動きを感じさせ、
余りにも無機質的で,プラスティックな感覚の人間像は
ヘヤーデザイナー、ジュリアンによる被り物の影響も在るのだろうか
寧ろ,サイボーグ感覚を喚起させ,面白く感じるが
不思議に今回のショーからは
このデザイナー特有の人間味なエモーションは感じられなかった。
 また、”特異性”は感じず,”特殊性”の世界であり、
珍しいものが大好きなジャーナリストたちを
ワンシーズンだけ喜ばせるには充分に成功したショーだった。
 
 “フラット-パターン”と言うアイディアは決して、新しくない。 
 余談になるが,それにこの“フラット-パターン”と言うアイディアは
新しくない。
寧ろ,‘00年代のファッション学生のスクール-ワークには
多く見られたものであり,
ショーに於けるその“ワン-アイディア”での構成も少し,物足りなかった。
 確か,卒業後,J-P.ゴルチェで活躍した ブリュッセルの有名校,
ラ-カンブルの卒業生、Christophe Beaufays君は
‘01年に、全く同じアイディアで、同じ様な平面服を
彼の卒業作品で作り,僕も審査をした。
Christophe君はこれでイエールフェスティバルへも参加し,
グランプリを貰ったと言う事を思い出させてくれた
今シーズンのCDGのコレクションでもあった。

http://sa.linkedin.com/pub/crstof-beaufays/37/2a6/881

https://www.skywardsfutureartists.com/Gallery/Artwork/?p=80&Artwork=616f78d0-e5b5-4fdd-b56e-3f311a9b7b7f


 僕的に、ここで”深読み”すると、
 ここ1年のCdGのコレクションの”ネタ元”は、
前回のANGELO FIGUSも、今回のCHRISTOPHE君も
優秀なベルギィーのファッション学生だった。
 偶然性とは恐いものである。
共通点は何かあるのだろうか?
ありがとう。
合掌。

追記/2023年01月15日。
 今シーズンの、30年目を迎えたジュンヤワタナベコレクションは、
まさに、この「骨できる服」の復活であった。
 このコレクションは「骨に乗せる」感覚の新しさ(?)
或いは、「四角い着物」(?)だ。
 川久保玲に出来ないこととしての
彼が持つ「差異」とは、”パターンメイキング”である。
 「肉で着る」服を作る時の仕上がりから雰囲気まで、
全てを決定する要素であり、「服」のコンストラクションを
構造化するための実技としての”パターンメイキング”が
彼、ジュンヤの「差異」であり、実力であり、巧さである。
 彼はこのシーズンは「肉で着る」服から引き算をした。
その結果、辿り着いたのが今シーズンの「骨に乗せる」服。
 そう僕は感じた。
 この感覚を今、この様に”創造”できる彼、ジュンヤは
まだまだ、世界のトップクリエーターを走り続けることができる。
 なぜならば、現在における世界のほとんどの
ファッションデザイナーやディレクターと称している輩たちは
「壁紙デザイナー」でしかないからである。
 そして、僕には川久保玲を
彼が感じ取った、”時代の雰囲気”によって”カッコよく”
見事に抜いた創造者と感じた。
 きっと、来シーズンは白人デザイナーたちが”ネタ元”にするだろう。

参照/
https://drive.google.com/drive/folders/1cSFMdBjWUyWQkWJIQP4-Jbro0gv2jCFW

文責/平川武治:
平成二十四年三月四日:巴里にて。


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