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"The LEPLI" ARCHIVE 96/ 『あの日から丸2年そして、CdG'13/'14A/Wコレクションと”ジェンダー”について。 』

文責/平川武治:
初稿/2013年 3月 11日:
イラスト/村上豊:「はだかの王さま」

1)はじめに;
 今日はあの日から丸2年が経った。
あの日から始まったそれぞれの
日本人の”こゝろの有り様の変化”は
どのような変化、進展をもたらしたのであろうか?

 政権の変化から始まってその実情はさほどの変化が生まれないままに
今日と云う日を迎えてしまった政治の実態。
変わらずの、自分たちの戦後のコンプレックスを
そのまま未だ、僕たちの國日本を
”アメリカのポチ”化へより、それぞれの笑顔で
いざない顕現化しているだけの政治家たち。
彼らたちの「正義」とは?

 もう残念だが、僕たちの國は“アジアの二流國家”化でしかない。
世界の一流国家でもなく、
今後もただ、アメリカのポチ化させられてしまう”日出ずる國”。

 ファッションの世界もこの巴里ではもはや、
どうしてであろうか、二流国に成り下がってしまった。

 あの日以来再び、僕たちの國の事を、
”未来”を考えるいい動機となったはずが、
“未来”とは、僕たちのためでは無い。
“未来”を考え行動すると云う事はとは、
僕たちの子供たちや、赤子たちの事を、その母たちの事を思う事である。
そして、彼らたちが本来の豊かさを持って
堂々と、生きて行ける國の事を思う事である。

「どうか、今日と云う日を”風化”させないで下さい。
あの恐怖と惨めさを、自心のこゝろの有り様として忘れないで下さい。」

2)CdG、ブランドデザイナー川久保玲の2年間は?-コレクション編/
 今シーズンのCdG、川久保玲のコレクションは
自らの世界のアーカイブからの"zapping"、”引用コレクション”と読める。
 基本ソースは、今シーズンのトレンド-キーワードの一つである
” MASCULINE FEMININE"を、このデザイナーらしく
世間に叛逆して、”FEMININE MASCULINE "の世界を。
次に、彼女が自分世界のコンテキストとしたのが、”TAILORING"。
そのコンセプトが、”INFINITY OF TAILORING/テイラリングの無限性" というもの。
 僕の印象はもう、然程先シーズンやその前のシーズンに比べると
今回のコレクションは感動も少なく、驚きも減り、”ウリ”を意識した
考える事の方が多いものであった。

 結果的には“TAILORING"と云う完成された服の世界への
新たなる可能性若しくは暴挙。
可能性となるのは、ファッション学生たちの課題への新たなサンプリング。
そして、暴挙となるのはこの”TAILORING"スーツの完成の裏に染込んだ
ある種の“マナー/モラル”。

 当然、使われた素材はメンズ素材。
しかもこのデザイナーの特徴の一つでもある化合繊の世界。
ショーで見るところでの今シーズンの使われた素材は、
後半に登場したインクジェットで施された
”サイケデリック”の再来と感じたプリントものは混合綿ベルベット。
後は、シルクウールのカルゼが1アイテム。 
これだけの装飾をこれでもか、これでもかと
素材で施した前半の白、黒、中間色の世界では
その使われた素材の分量も半端ではないだろう。
従って、合繊使用は納得か?
若しくは、このブランドの特徴である
”粗利の稼げる”デザインの一端か?

 読み込もうとする、装飾過剰の世界の前半は
その殆どが今迄のアーカイブからの形状装飾。
切り込まれたテーラリングへカードの様に重ねる素材生地片群
若しくは、縛る、巻く、捻る、摘む、丸める
そして、切り裂く行為の形状が
華であり、蕾であり、皺である、
嘗て見た事のある形状の集積と云う装飾性。
これらによって装飾され誇張された”肩”と”袖”は
テイラリングが持っている端的な美しさそもそものを消去させる。

 変わって現れるのが“女性の強さ。
”女性はただ強いだけでなく“威風堂々”と
しかも、”上品”に生きている。
これは自分人生への肯定からのコンテキストなのだろうか?

 ランウエーを交差するマヌカンが
触れ合う袖を譲り合って歩く姿は新しく、美しい一瞬でもあった。
もう一つの新しさは、
“AIR BAG"よろしくドーナツ状に詰め込まれ連鎖されて施されていた
無意味なる装飾を拒否するための装飾。
総てがトレンドの範疇で消化された
”分量とシルエット”の再バランス化への挑戦。

 前半が素材による”装飾”によっての表現と
後半はその色彩によっての”装飾”に委ねる。
潔さはこのデザイナーの巧さであり
ここで新たなもう一つの”女の世界”をも表現した。

 顕微鏡の中の世界か?
花園における昆虫の眼差しか?
このインクジェットによるプリントは今シーズンの新しさであり、
”Psychedelic/サイケ”を知らない世代への”サイケ”の逆襲か?

 “装飾を拒否した装飾性”と
”装飾を膨張させた装飾性”。
素材で同化させた装飾性と
色彩によって増殖された装飾性。
このアンビギュウトなるコンセプト。

 このそれぞれの対比によって、
初めて今シーズンのCdGコレクションの
女性への強さと優しさ、
或いは、脆さと新鮮さの在り方が
メッセージとして感じ読めるのだが、、、、、、

 変わらぬ自分自身の”立ち居場所”のためのアイデンティティ、
即、ブランドビジネスへの念い。
或いは、変わらぬ、”特意性”若しくは、”プロパガンダ”???

 もう一方で、これをやってしまえるまでの、
このデザイナー個人の”強さとがんばり”と云う”自我”と
”企業構造の凄さ!!”
故に、『コムデは凄い!』と云う所以になるのであろう。

3)CdG、ブランドデザイナー川久保玲の2年間は?-リアリティ編/
 このデザイナーはどんな現実に生きているのだろうか?
という疑問がショー後に、改めて考え始めた。

 このデザイナー程に有名になり、“凄い!デザイナー”という
役柄の人間は、“雲の上”に住んでいるのか?
或いは、僕たちと同じ地上の”世間”に住んでいるのか?
どの様な眼差しを持って社会と”リンク”しているのだろうか?
 
 このデザイナーはどのような”日常”を生活しているのだろうか?
どの様な日常性を感じて”生活”しているのだろうか?
或いは、ここでも何らかに”拒否”した日常性?
彼女が機会あることに主張する”パンク”な日常生活を送っているのか?
このデザイナーの”日常生活”とは、どの様なものなのであろうか?
 
 例えば、モノを作る人間も一人の市民で在り
国民意識も市民感覚もそして、仕事柄の時代感覚も
持ち合わせているはずだ。
その上に立っての“モノ造り”であり、
それが可能な限り人間であるところに
その作り手としての人間の”世界観”が見えるであろうと思っている。
だが、今回のコレクションを観ていてこれが見えなくなった。
そんな事は余り関係ないと云う迄のコレクションだったからだ。

 ”世間知らず”なのであろうか、
若しくは、実際に“世間で生きていない”のか、
又は、もう”世間と共に”生きていかなくてもいい
境遇と環境と年代になったからなのか?
街を、地元を歩いているのだろうか?
以前、良くその姿に出会ったように
犬を散歩させながら地元を歩いているのだろうか?
紀伊国屋へお買い物に行っているのだろうか?

 この様なある意味で虚飾な職業人は
自分たちの性格観やそこから生まれる日常観が
決して表層化かしない方が
未だ、カッコいいとされる世界なのであろうか?

 僕のもう一つの立ち居場所としての
巴里で出会うデザイナーたちにはそのカッコ良さは無い。
寧ろ、当たり前の人間としての彼らたちの日常生活や
時としてのバニティさがそして、”生業観”が感じられる。
だから又、彼らたちが創造する世界観に感動したり、
共感を覚えたり人間的なかわいらしさをも観てしまう。

 日本人デザイナーの代表とされて来た
”御三家”の周辺や、JUNYAとか最近のSACAIにも
この所謂、“匂い”が全く感じられない。
又、夜毎、バニティな世界にいざなっているとも感じられない。
寧ろ、未だに、作られた情報環境と密閉された構造の中で
創造が為されているとしか感じられない。

 僕は、今の時代にはもうこのような作り手の生活感や
彼らたちが持ち得た思想が
その作り手の”自分文化”に成る迄の
リアリティが匂って来て当たり前だと信じている。
UNDER COVERにはこれを感じるから
何処かで信じられるものを共感出来る強さがある。

 ここにも僕が主張している時代観、
“The image,no more making a reality. The reality are making imaginations."
の根幹が存在する。
 
 この根幹は決して、”作られたモノ”だけからではなく、
その作り手であるデザイナーたちの”リアルな生き方”が
それらを創造する“The sauce of the creations."の
源泉である時代になってしまったからである。
 もうそのような”現実の豊かさ”が時代性の現代である。

 これは、僕だけの知覚への現象なのだろうか?
若しくは、多くの人たちがもうかなり以前から
このような眼差しを持っていたのだろうか?
又は、このようなことを感じないところで
ファッションを、デザイナーの在り方をそうであるべきだと
信じて観ているのだろうか?
或いは、見せられているのだろうか?

 そんなにデザイナーとは凄い、立派な人間であるのだろうか?
否、僕が見、接して来た多くのデザイナーとは
そんなに立派で凄くない人がほとんどである。

 多くは“お金”が好きな人種である。
好きなお金をカッコ良く儲けたい、
そこで好きな世界でがんばって、カッコ付けたい。
だから、作られたものにそれなりの凄さは感じられるが、
“人間に対する愛”を感じられるものが少ない。
究極はここが彼らたちの根幹である。

 従って、巴里を軸にして多くのデザイナーたちと出会って来た
僕の人生に於いて
”尊敬出来る”デザイナーたちが本当に数少ないのも
僕にとってはとても残念であるが現実なのだ。

 僕の30年来の経験によると、
「自ら”創造”したと思うものを、
自らが創造したと”売る”職業。」
 これが”ファッションデザイナービジネス”の根幹である。
考えようによると実に奇妙な職業であろう。

 人が作ったモノを売る。
これは商売/商人という職業。
しかし、「自ら”創造”したと思うものを、
自らが創造したと”売る”職業」とは
実に、”まやかし商売”だとも考えられる。
ここにユダヤ民族の人たちのビジネスとしての
ファッションビジネスの根幹が存在する。
「無いものを付加価値」と称して、
自らが創造したと思うものと、
人が作ったモノを混ぜ合わせて売る
”イメージング&パーケージングビジネス”。
 今では、これが現実のファッションビジネスという世界であろう。

 時代がもたらした”豊さ”によって、
“The Fashion is always in the fake."の世界から、
“The Fashion is always in the real."の世界が
今後の新しさへの挑戦へ。

4)”ジェンダーレス”な時代を迎えるにために、/
 女の強さとは男に勝つ事も大事な要素なのか?
女と男の性差を認識し、その肉体的特徴の差異も
熟知した上でそれぞれが出来得る特徴を
お互いが出来る行為として助け合い、
交換しあう、共有しあうそして共棲し、調和し生きて行く。
多分、女の、男の”強さ”とはここに帰する事であろう。
この最小の関係性が恋人であり
続き、家族でありそして会社社会であり、
コミュニティであり社会であろう。
という事はそれぞれの”強さ”とは
男と女の関係が存在しての、
それぞれを思い遣る、認めあう事から初めて生まれる
”男有り気”、”女有り気”から生まれるのもであろう。

 当然であるが、僕自身も自分独りががんばって来たから
ここ迄来れた事でもあるまい。

5)日本社会の”リアリティ”としての「男女格差社会」を知ろう。/
 しかし、日本の現実社会には
歴然として”男女格差社会”が構造化されている。
ここに、その現実を指摘されたブログ、「松信章子のブログ」があります。
 参考/
 『それは、男女格差の数字だ。ダボス会議という名で知られる
世界経済フォーラムが発表した2012年の”Global Gender Gap Index”
つまり、世界の男女格差のランキングでは、
日本は、世界135カ国の中で、101位と惨憺たる有様だ。
そもそも日本は、3年前の2010年でも94位と、
多くの先進国や発展途上国の後塵を拝していたのだが、
状況はさらに悪化して、2011年の98位、
そして'12年の101位とこの三年間、降下を続けている。
 このランキングは、経済、教育、健康、そして政治の4つの部門の
総合評価なのだが、対象としているのは、
女性進出のレベルではなく、男女間の格差である。
過去4年間、総合評価で一位に輝いているのはアイスランドで、
2位から5位まで、フィンランド、ノルウェー、スウェーデン、
アイルランドと北欧の国々が占めている。
米国は22位、中国は69位、
同じく世界経済フォーラムによる国際競争力評価で一位のスイスは10位。
アジアでの最高位はフィリピンの9位だ。
ちなみに女性格差の少ない北欧諸国は、
国際競争力でも上位を占めている。』/「松信章子のブログ」から、
http://careercafe-perspective.blogspot.fr/
合掌。

文責/平川武治:巴里市アルレット街にて。
初稿/2013年 3月 11日。

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