無意味に目を向ける感受性と、立ちすくむ感受性――岸政彦著『断片的なものの社会学』

一般的な文脈に乗らない「無意味な」ことが妙に心に残っている。そんなことが自分の日常にもある気がする。『断片的なものの社会学』には、社会学者の岸政彦さんが研究などを通じて出会った、一見無意味に思えるような会話ややりとり、それについての考察が書かれている。

例えば、沖縄の歴史の聞き取りをしているときに、外で取材相手の家の子どもが「犬が死んだ!」と叫ぶのが聞こえた。インタビューされている父親は一瞬だけ反応を見せるが、また何事もなかったようにインタビューに戻っていく。こういう場面は記録には残らない。歴史の文脈にも乗らない。でも、そのまま忘れていっていいものなのかわからない。忘れられない。

あるいは被差別部落で差別をなくす取り組みをしている人たちが、車で移動中に、「あれ、ここ部落じゃない? そうだ、そうだ」みたいに他の部落を指して他人事のように振る舞うシーン。これも文脈に落とし込むのは難しい。単純なストーリーとしてまとめられない。例えば映画なら表現できるかもしれないけど、無意味なシーンを並べると「難解」な作品になってしまいそう。でも無意味に惹かれるのはわかるような気がして共感した。

それと新たに知ったのは「生活史」という言葉。岸さんは社会学者として生活史を聞き取る方法で調査をしている。つまり、ある人の生い立ちの話をじっくりインタビューする。

自分が興味を持っているのはこういうことかもしれないと思う。インタビューといっても疑問を解き明かしたいのではなく、人生を知りたい。人生には意外なことや共感できることがある。これまで言葉にしていなかったこともあるかもしれない。この本で、そういうことを仕事にしている人がいると知った。

ジャーナリスティックな観点では、遠慮なくどんどん話を聞いて情報を引き出そうと考えるだろう。しかし、他者と向き合うことには怯えや怖さがある。それを忘れてはいけない、と岸さんは伝えている。

――私たちは「他者であること」に対して、それを土足で踏み荒らすことなく、一歩手前で踏みとどまり、立ちすくむ感受性もどうしても必要なのだ――

自分も旅先のある路地裏で、作業をしているようなガンガンという音がするので、それは何なのか見に行きたいと思いつつ、足が動かなかったことがある。ただ勇気がなかった、と片付けかけていたけど、他者を荒らしたくない気持ちも確かにあった。岸さんの言葉が、そのときの自分の中にあったものを言い表してくれた気がする。

人に話を聞く立場の人に、このような感覚があることを心強く感じた。人に話を聞くことは恐怖から始まっているのだ。大阪のおばちゃんのように気楽に話しかけられなくても、少しずつ聞き取りの道を歩むことができる。取材やインタビューの道を歩むことができる。むしろそういう人のほうが向いていることがあるのではないか。そう思わせてくれる本だった。

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