正岡子規は音を書く
正岡子規といえば俳句くらいしか知らなかったのだが、実は随筆的な文章もたくさん残されていて、これがとても好いものだと最近知った。
正岡子規という人は、とても美しい音楽のような文書を書くのだ。
きれいな水がするすると流れ込むように入ってくる心地良い文体。
心地いいリズムを持った言葉。
なるほど俳句をする人の感性や技術というのは、こういうところにも息づくものなのかと驚いた。
「感嘆」てのはこういう時に使う言葉だなと思った。
私が最初に読んだ「くだもの」という作品は、本当に最初から最後までずっと果物の話である。
まず最初に”果物の定義”について
「木の実はみんな果物かというと、そうではないね。栗とか椎の実とかは違うね。水分がないのは違うね。あと畑で採れてもスイカとかメロンは果物だよね。バナナもパインも桑の実もだぁい好き!」
みたいなことを書いて、そこから「あそこであれを食べたときは…」という”果物の思い出話”が始まる。
この”果物の思い出話”に出てくるエピソードでは、正岡子規が色んな場所で果物と出会い、その度「ええ〜、食べたぁい。いいよね?食ぁべちゃお」つって食べて、そのせいで時間がなくなったりお腹一杯になって他のものが食べられなくなったりしている。
かわいらしい。
「くだもの」が非常に好かったので、続いて「歌よみに与ふる書」も読んだ。
この作品はもうなんか「これ歌詞じゃない?」くらい音で読ませてくる。
それこそ向井秀徳とかのあんな感じでやったら面白いんじゃないかってくらい語呂と語感とリズムで綴られていて、意味より先に音で入ってくる。
すごい。
で、そのすごい文章で何を言っているかといえば、終始
「あいつの作品はダメだ。あの作品はまだマシだけど、コッチのこんなのを良いとか言うやつの気が知れないね。センスがない。ダメだ」
みたいなことをずっと言ってる。
言ってる内容は非常にめんどくさいけども、文体がめちゃくちゃ面白いからグイグイするする読めてしまう。
こういう作品を読み進めてみると、面白い文章というのは”内容では無い”のではないかという気になってくる。
もっと他の、その人の培ってきた技術や感性が一番大切なんじゃないのか。刺激的な内容とか面白いアイディアだけで勝負しようとするのは無粋なんではないだろうか。
「大したこと言ってないのに面白い」が1番強くてカッコイイのでは?なんて考えてしまう。
…てことは、我々がするべきはネタ探しではなく「持ってる剣を研ぐこと」なのかもしれないね。
それは文章だけではなく、全ての芸がそうだろう。
商売でもそうだろう。
話術もそうだろう。
結局、たずさえてる自分の武器が使える状態であること、常に戦えるように研いであることが一番大事なんじゃないだろうか。
その前にあれだ。
自分がどんな剣を持ってるのか、使い物になるのはどれなのかを探すところからか。
そしてそいつを、戦えるとこまで鍛えなきゃいけないんだよね。
拾った飛び道具で勝てるのは、良くて1回だ。
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