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人生を振り返る 〜弱者男性に至る病〜

人生を簡略的に振り返って行く。名も無き一般市民がどういった人生を送ってきたのか記録しておきたい。全くドラマの起きない生活を続けているが、偶にはこういう人生があったって良い。(随時更新中)

誕生

1992年に鳥取県に生まれる。両親共に銀行員で経済的にはそこそこの不安のない安定感溢れる家庭であった。2歳上の兄が既にこの世に生み落とされており、全てモデルケースがあった上の人生だったので大学生まで全く進路や野望など生まれる訳もない凄い楽な環境だったと思う。

近所の病院で近い時期に赤ちゃん誘拐事件が発生しており、もしかしたら誕生即スチールされていたかもしれないと思うとなかなかスリリングである。生まれた瞬間については2人目の出産だったこともあり、陣痛後すぐに流れ作業のように出てきたらしい。父曰く、「弾丸の如く射出された」そうであり、赤ちゃんがそんな爆速で出てくるのかと未だに真偽は不明である。3334gでゾロ目惜しいダイドーの自販機のような健全な赤ん坊で全く疾患など病弱さもない健康体だった。

鳥取県には3歳辺りまで住んでいた。親の転勤でそこからは島根県の父方の祖父母の実家で3世帯住宅にビルドイン。少しイカれた祖父を相手に田舎のほのぼのモータライゼーションタウンでぬくぬくとしていた気がする。

鳥取時代の思い出はカルフォルニアみたいなアメリカンな平屋の住宅地に居たという記憶のみ。そこの近所の公文や英語学習塾をやっている家庭に兄と一緒に通い、初めての両親不在の環境と知らない子供達にビビり散らす。親が居なくなると漠然と不安を感じ、ややアウェイな環境では次第に虫の居所が悪くなり離脱したがるようなザコい子供であった。

車酔いが酷く、外出するというイベントは毎回地獄のような思いをしていた。出かける際は毎回三半規管がやられ出先で全く楽しかった記憶がない。そしてかなり高頻度でゲロを吐きまくっていた記憶がある。お陰かゲロを吐くスキルが上昇し、嘔吐に関しては今も全く抵抗がない。泥酔してしまったときなど便利なのでゴールデンエイジの英才教育はやはり素晴らしい。

幼年期

島根県に一家丸ごと移り住む。駅の真裏、デカいスーパーが真ん前に聳え立つという田舎としてはかなり好立地。しかし風通し至上主義の時代に建てられた家だったので今後、夏場の凄まじい暑さと冬場の外より寒い異次元の空間に苦しめられることになる。祖父が建築士だったらしく、そんな祖父プロデュースのもと建てられた家は本当に時代の先行きを読むセンスが皆無だったのだなと今になって思う。

幼稚園に入る前に「芽生え会」という同世代幼児の任意団体に加入。ここである程度地元のコミュニティに順応することができたが、当時の自分は女の子が凄い苦手で、男としか連まない無頼漢を気取っていた。砂場で女の子に対してスコップで砂を掛けまくるという弱キチムーブをよくしていて、それで怒られていた記憶が大きい。

この頃ハマっていたカルチャーとしてはピングーやトーマスのVHSという健全的なものだった。クレイアニメやジオラマ的な世界観というのがかなりお好みで、のちにフィギュアなどにハマりだす萌芽をこの頃から育んでいたと言える。そして数年後ピングーを観て驚愕するのだが、あの作品はピングー語のみを用いており登場人物のリアクションのみでストーリーを読み解くという絶妙に尖った作品であった。当時、余裕でストーリーや感情の流れが理解出来ていたという意味では凄い作品に出会えていたのかもしれない。

食事に関しては何故か全く肉が食えない子供であった。というかあの頃食べていた肉は硬く不味いイメージしかない。無理矢理食わされ、オエっと吐き出すムーブはこの頃から得意で、吐瀉物化させることにより強制キャンセルさせる戦法を編み出す。あとウンコをした後、肛門チェックをしてもらうという行為に快感を覚えており、何処でもアナルを見せつける今思うとゾッとする行動をよくしていた。しかし基本内弁慶なので外部的なインシデントは発生せず事なきを得ていた。

幼稚園

4歳ぐらいから幼稚園ステージに突入。やっと親元離れた社会性モードに突入する。幼稚園の初日は親元離れるのが恐ろし過ぎてギャン泣きしていた記憶がある。全く知らない施設で知らない人間たちに囲まれるという空間は恐ろし過ぎた。ある程度友人たちに恵まれ、以降このメンバー達は中学まで一緒に過ごすこととなる。

そこで初めて明らかにイカれた存在の同級生達と出会い人間の業の深さに戦慄したファーストインプレッションである。自分の言う通りにならないとすぐ泣き出す水野くんなどは、幼心ながら「アイツと絡むのは悪手」という雰囲気が伝播しており、ヤバい人間とは積極的に距離を取り観察するというムーブに徹する。一度、タケノコ掘りに行った時にタケノコ持ち帰り用のビニール袋(記名アリ)を見事に水野くんにスチールされ、そのネームドされた袋を発見した時にはその事後処理の面倒さが想起され何も指摘する事ができなかった。

因みに水野くんは小学校に上がると高学年辺りで不登校になったまま卒業して行く。卒業文集のめちゃくちゃ上手いカービィのイラストが印象的で中学以降の消息は一切不明。何してるんだろう。

その他にも木村という家庭環境の悪い奴も居て、常軌を逸した悪童ムーブの数々にドン引いていた記憶がある。そいつは「カレーが嫌い」という理由でカレーを周りの人間に掛けまくったりしていて、そう言う加害的な動きをする人々の行動原理が本当に理解出来ず当時は憤慨していた気がする。彼も中学の途中から突如姿を消し、大学生になった辺りで幼女にイタズラをして逮捕されたという噂が地元では駆け巡った。やっぱドロップアウトして行く人間は根本的に色々ズレている。

保育園も同敷地にあったため、両親共働きだったので自分も保育組として育った。午前で帰って行く幼稚園オンリー組に面白い奴が多くて、午後からは非常に退屈していた思い出がある。特に劇場版ドラえもんの「夢幻三銃士」のビデオを延々と見せられていた事が印象深く、あんなオカルトじみたストーリーを集団で観ていたと思うとなかなか不思議な空間にいたんだなあと。

この頃からゲームにハマり出し、近所の子の家でやった「星のカービィスーパーデラックス」に凄まじい衝撃を受ける。これがスーファミデビューでここら辺の思い出は同世代共通であろう。他にも何故かダビスタ96も家に在ったりして全く意味がわからないまま兄とプレーしていた記憶もある。両親もゲームなんてテトリスぐらいしかしないのに、なんであんな渋いゲームが家に在ったのかは永遠の謎となる。

同時期に初代ポケモンが発売され、まずは兄がそれの虜になる。スーパーゲームボーイでブラウン管に映るその兄のプレイをじっと眺めるという謎の時間を過ごしていたのが懐かしい。自分の中でポケモン熱が高まるのは金銀からで、この頃は中々発売されない続編情報にコロコロを見ながらヤキモキしていた。そしてコロコロがやはりバイブルとなり、案の定カービィの漫画が単行本デビューとなる。カービィの絵ばかり模写している気質が今思うとあったのだなとしみじみ。

小学生

流れるままに地元の小学校に入学。学習面では完全に無双状態に入る。この頃は勉強が出来ない人間の存在が不思議でしょうがなかったが、家庭環境などによりそういう安寧が前提となる状況に居ない子供たちが多かったのだなとしみじみ実感する。今思うとかなり貧困層や片親の多い地域だった中で我が家は結構相対的にまともだったのだなと。これが公立の面白さである。

運動もそこそこ出来、友達にも囲まれて特に不自由ない小学校生活であったが、低学年の頃は自由帳相手に昼休みを過ごしていた思い出が多い。もしかしたら部活に入る迄は余りイケてない児童だったのではと疑念が湧く。この頃鳥取県西部地震という比較的大きな災害があり、我が地域もそこそこの被害に遭う。校庭にデカいヒビが入り、家の本棚も崩壊したりと印象深い。しかしその中でも地震発生当時、昼休みで自由帳相手に格闘しており、ふと周りを見ると自分以外誰も居なかった思い出が深くある。

そして地元の図書館をかなり自分しか居ない憩いの場所として活用しており、そこでデカい中央図書館から「愛蔵版ドカベン」を仕入れるという行為にハマっていた。その他にも青い鳥文庫という鉱脈を発見し夢水清志郎シリーズやズッコケシリーズをひたすらに読み漁っていた印象が大きい。パスワード探偵は何故か大嫌いだった。

ゲームはポケモン金銀が2年ぐらいで発売され、しばらくそれの虜となっていた。この頃からインターネットが実世界に現れるようになり、例の如く面白フラッシュ倉庫など各種害悪的なコンテンツにハマり出して行く。高学年からは軟式野球に取り組み、少子化蔓延る弱小チームの中でエースとしてしばしば炎上を繰り返しながらも「運動部」というマッチョイズムにも浸透して行く。地区大会2回戦ぐらいで敗退する雑魚チームであったが、自分は練習試合など全て投球成績や打撃成績を完全データ化するのにハマっており、打率や奪三振数を積み重ねるのが高学年時代の主な思い出である。

この頃からコミュニティとしては野球部というのが中心的となっており、学校では不自由ない環境に居た記憶がある。そして高学年になるとプレステ2が発売された事もあり、初代PSゲームを中古で買い漁ったり、友人から賃借しまくりコスパよくゲームライフも送っていた。特にFF7やテイルズオブエターニアなど、ややリアルタイムから少し経ったRPGを好んでプレーして居た。大量のゲームが裸ディスクでよく落ちていた友人にはとても感謝したい。

そんな友人の家ではそいつの兄がギターをやっていた事もあり、ハイスタンダードなど各種あの頃のインディーズバンドの洗礼を6年生に置いて受けまくる。漠然と同級生でバンドやろうぜという流れとなり、自分はベースを購入。以降定期的に楽器を持ってスタジオに寄り合ったり、音楽が自分のアイデンティティを確立するひとつの要素となる。因みにそのとき一緒にバンドカルチャーの洗礼を受けた友人は現在ではメジャーデビューも果たし、そこそこシャレオツなバンドとして活躍している。行動力に溢れていたヤツがちゃんと大成していると自分が当時感じた感覚が正しかったと思うと素直に嬉しい。

高学年からは学校の支配者に近いグループのポジションだったので授業でも茶々を入れたりと悠々自適に過ごしていた。そんな中芽生えるのが思春期特有の恋心である。同じクラスのミニバスに所属していた女の子が好きになり、話の流れで告白するが、見事にリジェクトされる。その経験に凄まじいショックを受け、自らの生活態度を顧みる事となり、授業中迂闊に騒いだりすることのないクールを気取る事となった。同時期に図書館で借りた松本人志の遺書をはじめとする各種松ちゃんイズムにも影響を受けまくり、小6辺りからは余りはしゃがない子供な自分から漠然と卒業しようと決心するようになった。因みにその女の子は当時の男子は全員好きだったそうである。

同時期に別の女の子から人生初の告白を受ける。他人に好意を寄せられるという現象が嬉しく余裕の快諾。家電に夜な夜な電話したり、家に招き「simple2000シリーズ theパーティーゲーム」をプレイするなど淡い思い出があるが、少年期特有の自然消滅となり、中学に上がる頃には一切喋らなくなっていく。その子はその後鬼のようなギャルになっていきなんだかショックを受ける。

中学生

こちらも流れで地元の中学に突入。地域の3小学校が集結する地元イズムの集大成のような環境であった。前述したバンドをやっていた友達などはお受験で別の学校に旅立っていったりしたのでやや友人を削いだ状態でのスタートとなるが、流れのままに野球部に加入していわゆるザ野球部な中学人生を歩む頃になる。

相変わらず学習面でも好成績を収める立場でそこそこイケてるヤツかなーと漠然と自覚していた人生であったが、一年の夏頃に突如ハブられるという経験をする。田舎特有のグループが順番にハブられていくという現象のシリーズであったろうが、やはりこの多感な時期の経験というのは大人になっても絶妙なトラウマになってしまう。特に小学校時代から仲良かったヤツにもそれをされていたのは中々エモい思い出である。

突如ハブり終結された一年の後半のとある日は今でも覚えている。ハブられる前に貸していたKen yokoyamaのcost of my freedomのアルバムを返してくれたのは今でも鮮明に憶えている。その後はそのグループに復帰して少し遠慮しながらも比較的友好的な関係性を続けていくことになる。中学生って不思議な生き物である。

野球部については結構上の代が強く、顧問も大学野球上がりの若い先生だったので結構強豪校的な坊主、挨拶の徹底、野球ノートなどかなり厳格に管理された環境に居た。自分は2年でたまにベンチに入ったりする同学年ではそこそこのプレーヤーで3年になると2番ファーストとしてレギュラーに見事定着するが、谷間の世代でもあったため最後の大会は地区予選2回戦で見事に敗退。一応最後の大会後は泣くというイベントを経験するが、高校では野球続けないだろうなあと漠然と決心する。

インターネットについても絶好調でインディーズバンド情報をディグったりかなり島根の田舎者にしては情報強者だったように思える。同時に2chやニコニコ動画にもどっぷりハマり出し、部活引退後は楽器をそこそこに爪弾き、インターネットカルチャーに毒されていくやや隠キャ寄りな人種へとシフトチェンジして行く。

丁度ガラケーも席巻していた世の中であったが、当時の自分は高校まで所持が禁止であり常にパソコンのメールでみんなとやり取りしていた。自分の異性との交流の最盛期はこの頃であったと自覚している。一年の頃はこちらも後に鬼ギャルとなる女の子に告白されたが、素性がわからなすぎる事もあり部活もあったのでリジェクトした。どんどんと学年が上がるにつれグレていくその子にはやはり恐怖を感じていた。

二年生には「付き合う」という行為自体が何故かブームとなり、女バスの女の子に人伝に告白してみて漠然と付き合うことになる。ここでも家電で数回会話するなど淡い思い出があるが、思春期過ぎてサシであったりするのが無くメールのみのやり取りであったので見事に数ヶ月でフラれる。その後その子は野球部の友人と付き合っていた。今思うと我が中学はスワッピングカップルに溢れ過ぎな気がする。

三年になるとソフトテニス部の女の子と凄まじいメールの末に付き合う事となる。ここら辺になるとある程度成熟しており、ちゃんとコミュニケーションを果たしたあとにしっかりと交際という流れである。中3の冬休みに実家に招き、人生初のキスを果たす。流石にビビってそこまでで留めたのは少し切ない思い出である。因みにそっから現在まで素人童貞なのも業が深い。

その子とは進学する高校が別だった事もあり高校に進む頃には余裕でフラれる。相手がとんでもない山奥に住んでいた事もあり、中学に通うという行為なしではメール以外で通じ合うこともなかったのだろう。思春期の愛の力はそんなものである。そして漠然とこの頃から女性が根本的に苦手なのだと自覚し始める。とにかく童貞イズムが染み付いているというか、異性との交流が何か辛いものであるというマインドが凄まじい。

部活引退後に放課後みんなでひたすらにサッカーしていた中3あの頃が人生で1番なにも悩みもなく楽しかった気がしてくる。こっから先は段々雲行きが怪しくなって行く。

高校生

校区の中では1番の田舎特有の自称進学校に進学。兄も同じ高校に進んでいたため、何も考えずにこの高校を目指すだろうなと特に難もなく受験突破し、一応は特進クラスに入り切磋琢磨を果たすことになるが、ここら辺から急激に勉強についていけなくなる。兎に角あんなにスラスラわかっていた学習という行為が容易に果たせなくなり、理系科目や数学に関しては本当についていけなくなる感覚があった。当たり前のように理解し自主学習を怠らないクラスメイトが少し恐ろしく、一年の頃はクラス最下位あたりをウロウロとしていた。

そして人生初の地元からの離脱という事もあり、同じ中学からの同級生が殆どいない空間で自分が凄まじい人見知りだという事実が露呈する。会話のノリやカルチャー的にも共有できる人間が全く居なかった事もあり、勉強の辛さも加えて暗黒の高校時代を過ごしていた思い出。因みに高校時代の思い出はひとつもない。

部活も何か加入しようかと最初はハンドボール部に体験入部するが、どう考えても仲良くなれなそうな人間たちが集結しており、かつ越境で土日も学校に行くという行為が苦痛過ぎたのでGW突入前に見事に離脱。以降は地元の中学コミュニティの名残りで帰宅部として細々と学校外にアイデンティティを植え付けることでなんとか自我を保つ。

学校ではクラスの友達がいないインキャたちが集結する「全員しょうがないと思っている集団」に所属し、比較的居心地の悪い学生時代を過ごす一方で、放課後にブックオフに通い詰めるのが日課となり唯一の救いであった。同時に漫画カルチャー摂取もこの頃が最盛期であり、ヤンジャンヤンマガスピリッツを立ち読みすることだけが高校へ通う楽しみであった。隔週連載のGANTZの大阪編の展開を2chのガンツスレで予想し合うのだけが楽しくて過ごしていた期間も存在する。

インキャな学生生活であったが、ベースやギターなどはベッドルームミュージシャンとして細々と継続しており、学園祭などではバンドを組んでラッドやエルレなどのコピバンを自身の尖った音楽的趣向には不本意ながら取り組んでいた。「アイツ、バンドやってるんだ!カッコいい!」的な展開を絶妙に期待して日々を過ごしていたが、現実はそんなリアクションなど皆無で厳しいのであった。というか勉強に食らいつくという必要もあって同級生たちはそんな余暇活動に対して誰も興味を持っていなかった感覚である。

特に特進クラスという環境は少し歪で、特進とそれ以外の一般クラスはかなり断絶されていたような雰囲気があり、特進クラス内でコミュニティに属せないと完全に孤立しがちなフィールドでもあった。学年が上がるに連れて離脱して行く奴らも居たが、自分はなんか勉強だけはやっておく環境に身を置いておこうと最下位ながらプライドだけで友達も居ないのに残留し続けていた。兎に角そこそこの偏差値の都会の大学に行けば何か打破できるという淡い田舎者の閉塞感ある望みだけで生きていた。

当然急激なインキャ化を果たす事になり、思春期真っ盛りなのに高校では恋愛経験が殆ど無くなっていく。一年の頃は何故か帰宅部のデカい女とイオンに制服ダブルデートに一回だけ行った事があるが、めちゃくちゃつまらない中高生向け恋愛映画で自分以外号泣していたのを目にして疎遠になっていった。この頃は自意識もかなり拗らせており、気の合わない人間がこの世には多すぎるというのがかなりの悩みであった。

同じクラスのバトミントン部の女の子を好きになるというイベントも経験し、時間割を忘れたフリをしてメールしまくるという行為もあったが「なんかクラスの雑魚がメールしてきても迷惑そうだな」という卑屈な結論に辿り着き、俺には勉強とインターネット世界しかないとスタンスを切り替えそれ以降は特に浮いた話も無くなっていく。同時期に2chのニュー速板にどハマりした事もあり、本当にダメなザコ男のマインドを注入されてしまったというのもある。これを見ている中高生へはインターネット辞めろと伝えたい。

この頃の自分は兎に角全く馴染めない環境と辛すぎる受験勉強に悩殺されており、外で遊ぶだとか何か課外的な活動をするという意欲が本当に無くなっていた。元来そっちよりの人間であるが、兎に角眠たかったり疲れていたりと純粋に日常を健全に過ごすという行為が向いてないのだなあと自覚し始める。

流石にこのままでは成績がヤバ過ぎるということもあって高3からは東進ハイスクールに通い出す事になる。これも一浪中の兄が行っていたという事もあり、特に意思のない選択であったがここで勉強がある程度できたことは本当に感謝である。因み兄は浪人の末に国立大学に合格し、合格発表時に聞いたことない雄叫びを上げていたのが印象的である。

学校に居場所のない自分としては東進ハイスクールという外部的な環境は少し救いであった。「塾での俺が本当の俺」(byトリプルファイヤー吉田)というぐらいまでは行かなかったが、何か憩いの場を得たような安心感があり学校生活よりも予備校での林修の方が救われた。しかしその予備校で尖り過ぎたためか誰とも仲良くなった記憶がない。「受験に仲間など不要」と変な態度を取り続け、DVD越しの豪華講師陣のみが救いであった。今思うとほぼ宗教ハマってる人と同じメンタリティである。

同時にこの頃から深夜ラジオを聴くことにハマり出す。junkのpodcastから始まり特にメガネびいきはDL板で毎週神がアップロードしてくれるデータをありがたく頂戴していた。その他には吠え魂やくりぃむANNを延々と聴き続けるお笑いラジオだけが勉強している時以外の救いとなる孤独ここに極まりと言った暗黒な青春である。

それとこの頃は激情系ハードコアこそ最強の音楽だと信じて止まず、誰とも共有できない孤独さも合間ってenvyやkillieを爆音で聴取することにより悦に至っていた。特に予備校終わりの終電間際の誰もない二両編成の電車に乗り込みイヤホンでストレスを撲殺するように聴いていた「君の靴と未来」は本当に素晴らしい体験であった。

音楽で言うとthe band apartやwrong scaleなどを擁するk-plan系のシャレオツクリーンサウンドにもどハマり、謎のコードをコピーするという行為にも傾倒していた。特に2chの作詞作曲板のバンアパコピースレはかなりお世話になった。この年代のギターを嗜む軽音野郎はあのスレに集結してる気配すらあった熱狂である。そしてこの頃はtorrentやweb割れ全盛期であり、ありとあらゆるコンテンツが取得できるという恐ろしい時代でもあった。サブスク時代到来である程度浄化されたと思うとあの時代は感慨深い。特にインディーズバンドの音源が恐ろしいぐらい網羅されているサイトのあの凄まじいコンプリート力は今思っても気味が悪い。

東進ハイスクールの恩恵を受けてか受験勉強については緩やかに成績上昇を果たし、センター試験に絶妙に躓いたものの関関同立MARCHは一応の射程圏内な結果は得られていた。本命は国立で当時の首都大であったが、単純に首都圏で大学名カッコいいぐらいの不純な動機で観光気分で母親と2次試験を受けに行った思い出がある。もちろん対した手応えもなく余裕で国公立前期日程は敗北する事となる。そしてキャンパスの僻地加減に少しビビった記憶もあった。

特に都市圏の上記ランクのそこそこ私立に忍び込めれば御の字だと思い、浪人のモチベーションも兄の苦闘する姿を見ていたことからも一切湧かなかったので、なんとなく穴場な受験日程を探し出す事により、センター中期という謎の日程が見事に戦略勝ちで関西大学の法学部に侵入することを果たした。その他にも立命館や法政など受けたが余裕で落選し、有無を言わさず関大へ進学する事が決定する。因みに関西大学には関西大学に入りたくて入った人間は受験組で存在しないという豆知識がある。

そして今思うとかなり奇跡的なのが、関大の2次試験の英語が以前学校で受けた模試と全く同じ文章が登場していたのが激アツだった。偶然その模試の復習を熱心にやっていた問題でもあったので、ほぼカンニングしているようなドキドキな心境で受験した思い出がある。受験は結局運ゲーであり、時に努力を超越した運命が人生を切り拓いて行く事もある。

そして進学先も全く明かさないまま高校を卒業する事となり、暗黒の島根時代は終焉を迎える事となる。卒業式後にクラスのインキャ軍団で「最後に記念だから」とラーメン屋に行ったが、余裕で来なかった奴も居たのが今思うとめっちゃ面白い。そいつとはそこから一緒会ってない。この後発生する東日本大震災に後期日程受験時に巻き込まれたという噂を聞いたのは最後である。因みに誰にも進学先を開示する事なかったので当然高校の皆がどうなっていったのかも一切わからない。自分は完全に姿を消したまま現在に至る。

そして当時の担任も国公立の進学実績が欲しいためか電話で関大に進む事を伝えた後、島大の後期日程受けろと強要されるがめんどかったので断固拒否し、無茶苦茶キレられて電話を切るという非常に最悪な別れ方をしたのも印象深い。あんなキレられる事もない穏便な学生時代だったのに最後だけ最悪な終わり方をして巣立って行ったのは自分ぐらいだろう。

最後の春休みは久々に地元中学軍団と合流し、久々に人間性を取り戻したような気分になる。大半が地元進学だったり就職するものが殆どでなんと言うかこうやって人生の方向は漠然と別れて行くのだなとエモくなった。特に自分が受験に奮闘している間、茶髪に染めたり喫煙パチンコ飲酒に傾倒しているようで、ついでにみんな童貞でも無くなっているようで芋い進学校生だった自分としては何か相容れないものを感じた。

特に春休み期間などは連日連夜深夜までハードコアに遊び回っていたので「ようここまで遊ぶ元気あるな?」と気軽に疑問を呈したら、「俺たちはこっから就職して行って殆ど遊ぶ事がなくなる。これが最後の楽しみなんだ」と思ってもない絶望的なセリフが返ってきて、これからモラトリアムを満喫しようとする自分とは違うのだなと少しもの悲しくなった。一応交友関係は大学時代も続いていくが、その後のニート期間を境に彼らとの交流も断絶していく運命となる。

大学生

関西大学へ入学し待望の上阪で夢の一人暮らしが開始する事となる。田舎の閉塞感から解放されたのは良かったが、当時2ch的価値観などにもどっぷりだったので無駄に斜に構え大学デビューなどする事なく地味な大学生活を送る運命となってしまう。法学部という比較的地味な人種が集う学部もインキャだらけでそこそこ居心地が良かった覚えがある。しかしこの頃の自分は積極的に自分を解放する事になかなか疲れていて、最低限度の友人を得た後はこじんまりとした人間関係で大学時代を終えることとなる。

一応楽器をやっていた事もあり、音楽的な感覚を合致できる同士を探す目的もあって軽音部巡りを良くしていた。そこで付属上がりのメタル好きの関西人と出会い以降そいつと連む事が大半になる。そいつは今では立派な税理士になっていて純粋に凄いなあと自分の立場と比べると思う。バイクやらインターネットカルチャーやマンガアニメで共鳴できる仲間を獲れたのはなんだかあの頃のブックオフ通いやインターネット探索が報われたような気分になって凄い嬉しかった。今思うと中学卒業以降3年ぶりにしっかりと新たな人間と交流できたと思うと凄まじい。

奨学金も貸与しており親から安定の仕送りを貰っていたので、普通に暮らす分には全く金には困っていなかった。正直毎日の生活費とたまにの飲み代タバコ代さえあれば全然大丈夫だったので、バイトなど本格的に取り組んだ記憶がない。たまに派遣バイトを友達と参加したりしたが、無茶苦茶面倒いのに対した儲けにならないこともあってここら辺から本格的に社会参加しない人生に傾倒していく事になる。

法学部特有の出席不問でテスト一撃で単位が取得できるという良いのか悪いのかよくわからない環境もあって、テスト期間以外は通学する事なく下宿先のアパートにひたすら引き篭もる生活が始まる。友人の付属ネットワークのお陰で過去問を容易に入手できる環境でもあったので単位を落とす事なく最低限度の進級具合は確保できたのは有り難かった。そして大学激近アパートでもあったのである程度のボンクラ軍団で夜通し勉強しあうという大学生っぽい生活も堪能できた。しかしサークルにも一切加入しない最低な学生生活でもあったので女性とは完全に無縁の人生となるのが確定しつつあった。

この頃から流石に何も人生に実りが無さすぎることを実感し始めて徐にブログを始める事となる。毎日毎日不毛な記事を書き続ける事だけがモチベーションとなり、若干のアクセス数を稼ぎ育てていく事だけが密かな楽しみであった。因みにこのインターネット活動を通じて広がった人間関係は皆無である。しかしこのドライなインターネット空間で緩やかに連帯するという感覚は絶妙に好みであった。

同時にミステリ小説にも傾倒する期間でもあり、ブックオフで何冊か救済しては読み耽るという如何にもな大学生活を送る事となる。一時期、友人と京大のミステリ研究会に冷やかし感覚で通っていた事もある。新歓コンパで綾辻行人と麻耶雄嵩に出会え、ダッシュで殺人方程式と蛍を買い揃えサインを貰ったり、アナザーの続編がどうなるのか失礼ながら質問した思い出がある。因みに友人はどっかの大学で開かれた麻耶雄嵩の講演会に乗り込み、最後のサイン会で図書館で借りた本丸出しで本人にサインを頂戴しようとしていたなかなかイカれエピソードがある。しかし大阪と京都という絶妙に離れた地理関係や、京大生たちの知識量や思考回路に恐れ慄いた事もあり、特に具体的な活動をする事なく完全な冷やかしでフェードアウトしていく事になる。あの頃の皆様覚えてないでしょうがなんとなくスイマセン。

一年の終わりの春休み初めての海外旅行を経験する。行先はもちろんタイで、ここで人生初の性行為を行い童貞を失う事となる。「童貞喪失が海外」というエピソードを得た自分に酔っていたような青すぎる行動である。感想としてはオナニーより気持ち良くなく、会話の通じない異国の相手とのセックスは全く楽しくないという悟りであった。やはり性交渉には愛が伴わないと全く面白い事ではない。

そしてちゃんと成年したタイの女性であった事は補足しておきたい。タイの風俗は全盛期のロンハー特番のような巨大雛壇に女性たちが待機しており、それを食事コーナーから飲食がてら指名して、上階のホテルへ登っていくという斬新すぎるスタイルだった。雛壇の段によって女性の値段とスタイルが明らかに違っており、なんとも残酷な世界を垣間見たものである。学生自分でお金も無かったので庶民的な女の子と対戦して、プレイ後の余った時間はタイのドリフみたいな兵隊コントの番組を無言で鑑賞していた記憶がある。

またゴーゴーバーにも突入し、お金を払って連れ出すという大正時代みたいな遊びも経験した。ゴーゴーバーの女の子は結構良いやつでのちに合流する友人を探し回るのに結構一緒に手伝ってくれた思い出。夜中は結構美人だと思ってたけど、酔いが醒めたり夜が明けるととんでもない顔面をしていたのがなんともカオサンマジックで楽しかった。まああの頃しか出来ない体験ができたのでトータルではいい人生経験であった。あとパクチーがマジでカメムシ過ぎて一切受付できないことが悟れたのも何か良かった。プロ相手に童貞を喪失しただけでは何も得れるものはない。ちゃんと恋愛というコミュニケーションプロセスがないと人間としてはザコいままなんだなあと漠然と理解できた。

そして長期休暇の度に海外へ行く事だけをモチベーションに大学生活は進んでいく。この後にもトルコやドイツへ行ったが、その頃には風俗の幻想も消え失せていたのでそういった安易なセックスツーリズムはなんか不健全なようで行わないようになって行った。

女性にはトコトン縁のない学生生活であったが、一度だけ同じゼミの女の子を好きになった事がある。何回か食事に行ったり、ミステリ好きという事で本を貸し借りして駄弁っていたが、やはりここでもチキンな童貞ハートが炸裂する事となり特に付き合ったりそういう関係性になる事は無かった。因みに今でも借りた小説は借りパクし続けて実家に鎮座している。その背表紙を見る度にあの頃の記憶が蘇ってきてなんだか切なくなる。

無茶苦茶腐女子で絵に描いたような銀魂の喋り方をする女性で顔はめちゃくちゃ可愛かった。インキャっぽい女性なのに「高校時代に3人ぐらいとヤった」という話を本人から聞いた時はなかなかテンションが上がった記憶がある。リストカット痕を隠すためかナイキのリストバンドをしていたのがなんか面白かった。

この辺りから漠然とあんまり女性とは縁のない人生になるだろうなぁと覚悟し始める時期であった。というより女性と積極的に交流したり、そこに繋がる性欲的なモチベーションも人より余りない人間だと周囲の話を聞いても自覚し始める。兎に角ひとりでダラダラ怠惰に過ごすのがなんだかんだで楽しいという典型的な弱者男性の気質を持ち合わせているし、成人してから女性に言い寄られるような魅力的な人間性も持ち合わせていない向上心のないダメ人間であることを強く実感していく。

原付バイクを購入し若干の行動範囲が広がる事になる。坂の上の大学だったのでチャリンコ移動が中々辛すぎたというのが理由だった、バイクを持っている友人と身の丈に合わないツーリングに出掛けたりしたが排気量故に全く釣り合わず近所のスーパーに行くぐらいしか使わなかった。そして夏休みになると徐に実家に帰る時に原付で帰ってみようと安直な決心をする事になる。しかし出発から3時間後辺りで兵庫の名もなき土地で見事に軽トラに跳ねられドクターヘリで救急搬送される事となる。見事に足の骨と手の骨が折れ、大学生2回生の夏休みは地元の病院に幽閉される事になった。

なんというかこの事故で色々と人生に対するモチベーションみたいなのを決定的に失ってしまったように感じる。一歩間違っていたら結構死んでたり、後遺症を残す可能性もあったりしたと思うとなんかおまけで生き延びているような感覚がこれ以降抜けないままである。漠然と上手くいかない人生に言い訳を付けれたような気がしないでもないが、これ以降本格的に向上心みたいのが欠落してしまったような精神性で今日まで生きながらえている。

秋学期からなんとか復活を果たし、大学にも行くようになったがここから本格的な就職活動が始まる事になる。全く将来へのビジョンも湧かず、漠然と舐めた態度で就活に臨んでいたため、凄まじい苦戦もとい敗北を強いる運命になるとはこの頃はまだ知らない。漠然と高いモチベーションを保つ事もなくスルスルとなんとなく人生が進んできた自分であるが、この就職活動というのはそれまでの怠惰も積み重なって一切通用しない人間になっていき本格的に精神が荒んでいく事となる。

特にやりたい事もない人間としては小手試しにテレビや出版社を冷やかし感覚で受け続けてみるが、書類選考は通過するものの面接になると容赦なく落とされて行くという地獄か始まる。事故った保険金で資金はたんまりとあったので東京にも気軽に遠征したりして就活をしていたが、面接に関しては一個も通過できないまま数ヶ月が経過していく事となった。30社程度いろんなそこそこな企業を受け続けたが全く受かる気配も見えないため、方針をチェンジして地元企業にシフトした活動に徹する事となる。

島根県という若者の人材不足が圧倒的な地においてはようやく面接も突破できる事となり、地元のテレビ局や新聞社など最終面接まで漕ぎ着ける事が奇跡的ながらできた。腐り切っていたメンタリティは徐々に回復していき、「自分は地元でそこそこイケてる企業でちょうど釣り合う存在」というポジションの確保できる立場に肯定されて行くが、現実はそう甘いものでも無かった。ここで人生初の本格的な挫折を味わう事になる。自分にとっての関西大学みたいな存在すら手が掛かるものの掴めない人生へ本格的に踏み外して行く。

いよいよ迎えた最終面接ラッシュ。まずは地元新聞社のステージがやってくるが、特に高尚なジャーナリズム精神も無かったので、役員クラスの面接官のジジイたちにそこら辺を詰められ全く手応えなくフィニッシュ。竹島問題など地元でのホットな話題を付け焼き刃の知識で仕入れ、その新聞社の思想に迎合しようとそこそこの理論武装したりしたがあまりそこらへんは関係ない面接だった。自分は特に学生時代のアピールポイントやタフネスな強みが一切ない虚構経歴を用いた対戦だったため、やはりそこらへんの浅さが圧倒的に見抜かれてしまったのだろう。

面接終わり一緒に最終面接を受けた女性と駅で待ち時間にお茶したのだけよく覚えている。その子は東京で地下アイドル的な活動をしていたらしく、アイドルブームであった当時のアンダーグラウンドな裏事情ゴシップを仕入れることが出来たのがなんか良かった。就活というのは一期一会であるが、色々な同世代と連帯感を持って絡めるのが楽しい。そしていろんな人々の話を聞く度に自分の学生時代は最下層に近いものにあったのだと自己嫌悪する瞬間でもあった。

無事不合格通知を受け取ったあとはラストチャンスの地方テレビ局の最終面接だけになった。もうここを逃すとここ40年の運命が変わってくるので、今までの怠惰さは捨てて結構誠実に挑む事になる。流石に落とせない戦いという事実に直面すると人間はマジになれる。特に山陰の地方局はバラエティ番組が皆無であったため、そういった水曜どうでしょう的なローカリズムバラエティの必要性やネット配信などでそういったコンテンツも光が当たることなどマネタイズまで含めてテレビ好きな人間である事を含めて猛烈にアピールした。面接官からすると大学生の青き主張であり薄っぺらい事も承知であるが、やはり最後はがむしゃらな熱意のみしかないという戦略であった。

なんとなく行けそうな感覚もあったが、面接官の端っこに座っていた如何にも遊び人オッサンぽいキー局から出向してきたような色黒い役員には全く響いてないような感じが凄い嫌な予感がした。とりあえず面接が終わり精魂尽き果てたあとは同じ選考まで進んだ男の子となんとなくの身の上トークで盛り上がった。彼は関東学連の駅伝部に所属しており、レギュラーメンバーではないものの中々のタフネス集団に所属していたトップアスリートであった。当時のスター選手の凄まじい性的ゴシップを仕入れて凄い満足できた事を一生忘れない。というか地方とはいえ最終面接まで辿り着く人間は何かしらの熱狂の中に身を置いていたのだなあと感心しっぱなしである。

合格通知が届くまでの1週間ぐらいは本当に生きた心地がしなかった。メールで来るのか郵便で来るのかわからないスリルで日中はとてもじゃないけど生きてる心地もせず、実家でひたすらに震えていた。ようやく届いた郵便物には本命の企業からの封筒が混ざっていた。ゲロ吐きそうな感覚で封筒を開けると見事に「不採用」の通知であった。ここら辺で完全に就職に対するやる気を失い、就職浪人や公務員浪人を意識して新卒での就労へのモチベーションが完全に喪失していく。確かこの年の新卒就職率は近年でもトップレベルに良かった年であった。そんな社会的事実も相まってどんどんと自分がとんんでもない無能だと思い知らされていく。

この時に解散していたwrong scaleのバンアパとの復活ツーマンライブがあったので新木場スタジオコーストまで遠征。高校時代もバンアパの4thツアーで地元のライブハウスでセットでやってきて鑑賞済みであったが、あのデッカいステージで好きなバンドをしっかり観れたのは良い思い出であった。因みに高校時代にあったロンスケ解散無料ライブも見事当選していたが、資金力もなく受験期真っ盛りだったのでやむを得ず無念のキャンセル。申し訳程度のステッカーを送ってくれたのは嬉しかった。あと、この就活ファイナル期間にバンアパの「誰も知らないカーニバル」をリピートで聴きまくっていたので、今聞き返してもこの時期のトラウマが蘇るようになってしまっている。

その後も地元の映像制作会社や隣町の市役所など半分消化試合感覚で受け続けるがいずれも最終面接で撃沈し、NNTで学生生活はフィニッシュしそうになる。特に市役所などは最終面接にジジイが15人ぐらいいて、なんか無茶苦茶利権やコネクションが横行しているような気配もあったので気味が悪かったのを覚えている。親父がその自治体の消防員だった地元の同級生が「多分コネだよ」と颯爽と採用を決めていったのが忘れられない。

しかしこうゆう時には凄まじい生存への悪知恵が働くもので、4回生の春学期で卒業まで2単位ジャスト残し1年間休学して翌年何食わぬ顔で新卒カードを切るという戦法を編み出した。大阪からも撤退して実家に籠る事にして、ただ怠惰に過ごすのも穀潰し過ぎるので公務員試験浪人という大義名分を得て、来年度の就職活動に活路を見いだす事となった。

当然4回生の夏明けからは完全に大学から姿を消す事になる。就職を決め最高のモラトリアムを満喫する同級生たちとはとてもじゃないけど一緒に過ごせる気がしなかったし、大学院進学を目指す友人なども居てウダウダしていた集団も各々の人生と向き合うことになっていく。

履歴書では大学に5年間通う事になってしまうが、その休学の具体的期間を問われないという穴を発見した自分は前述のバイク事故の期間を捏造し、長期入院のために休学していたという嘘を今後付きまくる事になる。余りにもこの嘘を就職してからも吹きまくっていたので、ここら辺の真実の記憶が改竄されてしまっているぐらいになっているのは少し恐ろしい。そして事故った傷痕というのは物的証拠でやはり偽装証明に役立つなあと事故に感謝さえ覚えるようになっていった。

下宿アパートも完全に引き払いストレートなら卒業を目前にして完全に実家に寄生するようになった。ゼミの先生からも消息不明を心配するメールなど届いたが、「元気でやってます」と絶妙に後味悪い返事を残して消え去った。そして同じゼミの好きだった女の子からの連絡も期待したが、ゼミが必修ではなく4回前半辺りから通う事も無かったので案の定、なんか一瞬いた人ぐらいのニュアンスで忘れ去られていっただろう。こんな絶望的な展開で大学時代の無気力生活は終焉していく。本当に仲のいい人間以外には自分の現状さえ明かしたくない卑屈さ満載になっていった。

流石に卒業旅行だけは参加したかったので、卒業もする予定もないモヤモヤを抱えながらドイツへ向かう事となった。この旅行は集大成だった事もありよく連んでいた4人組で出発する予定であったが、そのうちの1人が「お前と一緒なら行きたくない」というエクストリームな絶交宣言を提示する事になり、最後の最後に4年間積み上げた友情が崩壊する事になる。この指定されたリジェクト要員になってしまう立場というのは本当に情けなく何も言えなくなった。

結構そいつと自分以外の2人がエクストリーム野郎に憤慨するという自分としては有難い行動をとってくれて、LINEで90分近くキレ合うという阿鼻叫喚をもって全ては崩壊していった。そいつとは未だに会っていないし、みんなも連絡すらとってないそうである。たまに会う度にそいつの話題が出るとある種タブーのようなセンシティブな時間が流れるのが非常に堪らない。人間関係においてはスモールながらもある程度健全に楽しめていたというのは幻想だったようで、自分は何か特定の人間に深く嫌われる性質があるのだと悟ったものである。相手も中々繊細で掴みどころない奴だったが、どちらが悪いとかそういうことではない人間の深みを知った。

最後のドイツ旅行もそんな前段があってか絶妙にピリついてムードが流れながらのスリリングなものでありあまりいい思い出がない。自分がケルン大聖堂で逸れ、そのまま残りの2人は観光を続けていたという事実に海外での疎外感で自分がブチギレるという事件さえあったし、最後自分の手違いで飛行機を乗り過ごすという過失さえ犯してしまい本当に最悪な空気で旅行は終焉していった。最終的にロシア経由の謎飛行機でギリギリ帰国することが出来たが、日本に帰ったらここの友情さえ崩壊するだろうなというハラハラが止まらなかった。

結局自分含むそれぞれの落ち度を反省し合うことで友情崩壊は防げたが、それ以降皆各地でバラバラな人生を歩むこととなり、再び合流するのは自分が東京出てくるころまで空白を設ける事となる。自分は全ての人間関係が進学や就職で全てリセットされる人間だなと深く自覚し、ここら辺から他人と深く混じり合うことは得策でないと更なる社会性を失うような人間へ変貌していく。

激動のキャンパスライフはこれにて終焉を迎えたが、ここから本当に暗黒のニート実家生活が備えているのであった。

実家ニート

全ての実績と関係性を捨て実家にリターンする事になる。当然休学中であるが、ネガティブ撤退ニートであるため地元の人間には全くその旨を通知せず、ひっそりと孤独に回帰するサナギのような日々であった。一応、LECの国税専門官コースの通信講座を受講し、少し遅れた浪人生という仮の姿で体裁は保つ。全くアイデンティティにないが法学部でもあったので、そういう法に関する仕事でも目指すかというここでも全く意思のない安直な行動である。

ここで先にネタバレしてしまうと、ここでの1年間で1ミリも勉強する事なく本当に無駄な時間を過ごし続ける事になる。親の負担で数十万を掛けて教材一式やオンデマンド受講環境を整えたのに一切勉強していなかった。一応校舎的な自習環境もあったが、最初の申し込み以来一度も足を踏み入れず春夏秋冬を過ごす事になる。もうこの頃にはあらゆる事象へのモチベーション喪失というか、何者かになって社会に進出することは不可能だと思ってしまうぐらい腐りまくっていた。

友人も居らず遊ぶ環境でもないため当然に引き篭もりになるわけだが、意外にも両親や家庭との環境は穀潰しなりに良好で、料理や皿洗いなど家事を贖罪として使役する事によりある程度の罪悪感を消し去っていた。実家に巣喰う人間は家事タスクにより存在を肯定した気分になるというのは結構あるあるらしい。

特にやる事もなく昼夜逆転していく日常に慣れきってしまいここで自分は小説を書いたり、ランニングにハマり出すなど無駄な余暇を忘れるために文化的活動に少し精を出し始める事になる。特にランニングは自己肯定感を維持し続けるためには中々効果的で、日中暇になると近所の埋立地まで母親の軽自動車を拝借して、10kmぐらい黙々と走り込むという日常を過ごしていた。

そしてちょっとでも何者かになるためにアフィリエイト的なブログを書いて小銭を稼いだり、小説みたいなのを投稿サイトに投稿して2chの晒しスレに晒してみたりして自分の創作者としての才能を試したりと各種行動に取り組んでいた覚えがある。一応、完結させてkindleで自費出版的なとこまで持っていきとりあえずのモチベーションは保てたものの、そこからのマネタイズや創作する狂気性などに恐れ慄き、継続的な行動とはならなかった。いくら時間が無限にあってもそれだけにコミットするのは出来ない生半可な人間である。

その他には猫を飼い始める。前々から母親と猫を飼いたいという話は出ていたが、日中の管理や飼育コストなど現実的な面でリアリティがなかった。しかし在宅ニートという専属的な管理人が生まれた事により結構飼育には理想な環境が整ったという事となり、HPで保護猫を引き取って自宅に迎え入れた。自分はここで猫動画投稿者として結構本腰を入れ始め、ニコニコ動画やYouTubeに猫動画を投下しまくっていた覚えがある。一個だけとんでもなくバズり猫の魔力に触れたが、猫を撮り続けるという行為が中々の狂気的な行動であると自覚し、早い話が飽きてしまい動画制作のモチベーションなどはいつしか消え去って行った。何事も継続し続けることが出来る人間というのは本当に凄いと思う。

ここまで怠惰な生活が続くとやはり芸人ラジオは鉄板的に曜日感覚を取り戻すためのコンテンツであり、この頃は金属バットのラジオバンダリーの過去回をひたすらに聴き続けるのにハマっていた。丁度M-1が復活したぐらいでお笑いに本格的にハマり出す事になり、2chのM-1スレでお笑い談義を繰り返す事になる。ホント2chに対して熱心に取り組んでいる人間というのはニートか大学生なんだなぁと思う。

この絶望的な期間やお笑いというコンテンツに慢性的に魅了されていた自分はこの頃少しだけ「芸人になってみたい」という感覚が芽生え始めていた。しかしリスクを取って上京したり、自分の才能を信じるみたいな勇気はやはり現実的でなくひっそりとブログや2chでネタ批評みたいなものを書いて過ごしていた。でも人生の何処かでいい相方みたいな存在が現れたら芸人のみならず何かを発信するような活動を漠然としてみたいなと思い続けていた。

この期間は本当に誰とも交流をしておらず、実家の猫と単身赴任で土日帰ってくる父親筆頭に家族での飲み会ぐらいしか楽しみがなかった。こんな終わった人生に足を踏み込んでいるのに家庭環境は頗る健全だったのは非常に有り難かった。しかし、公務員試験に関しては1ミリも取り組んで居らず、両親からもその点に関しては全く指摘がなかったのは成人して自己責任な人生だなあと今になって思う。ここら辺で改めて自己を律していかないと人生はどんどん破滅に向かっていくのだと理解したものである。

季節は巡り各種試験の時期がやってくる。一年遅れの就活シーズンも当然到来し、流石にここでサラリーマンになるかと決心はできていた。公務員試験は地元の受けれるとこは手当たり次第エントリーしたが、当然全く勉強してないためポテンシャルの学力では全く太刀打ちできず当然の全落ちを果たす事になるが、ありがたい事にまだ大学生という身分であったので新卒カードを使い、事故で休学した不幸な五回生と擬態して地元企業へ潜入することが本格的になった。去年のようなイケてる企業に絞るなどのプライドは捨て去り、なんかマイナビで良さげな会社があったらライトに面接に向かうという行為を複数回繰り返し、隣町の産業廃棄物処理会社に内定をもらう事ができた。その会社は面接に行ったら何故か一次から自分ひとりしか参加しておらず、ほぼ勝ち確な感じで採用されたのが印象的だった。

結果的には同期は8人ぐらい居たが、春先の一次募集で自分以外は採用され、大量の内定辞退の空き枠で秋採用を募集したところ自分がノコノコとやってきたらしい。やはり就職も運ゲーというか時流の流れやタイミングで決定されるものである。

ここで休学も解除して全く通ってない母校にて最後の2単位を掛けてテストを受けるためだけに一時的に大学に舞い戻る事になる。一応テスト一発で教科書持ち込みokの講義を3コマぐらい取得してギリギリ単位をもぎ取り晴れて大学をなんとか内定を得た状態で卒業することができた。ある程度人生のレールに乗っかり直せた事に安堵し、卒業までの合法的モラトリアムに浸った。ここで何もなっていなかったら本格的に人生が傾いていたと思うとスリリングである。

晴れて大学卒業を果たし、冷やかし感覚で卒業式に出向く事になったが、ストレート卒業を果たせない友人も大学に残っていない卒業式というのは本当にトラウマ級につまらないものであった。誰も知り合いのいない全体の卒業式に参加した後は、5年以上通い続けたものだけが収容される教室で卒業証書授与式が執り行われる。その空間は恐ろしいほどの負のオーラにあふれており、大学に馴染めなかったであろうダメ人間と、大学が楽しすぎて留年してしまった明るい人種のグループで分断され凄まじい空気感を保っていた。

なんか一回生の頃見かけたどうみても大学を楽しめそうにないカスな人間をチラホラと4年ぶりに見かけ、客観的にはこういう人間と同類なのだなと自覚し嫌悪感に苛まれる恐ろしい儀式であった。自分の証書をゲトったあとは逃げるように大学を後にし、周りの楽しそうな学生を尻目に速攻でキャンパスから逃げ去った。この大学で得たものは何もなく、もう少し何かしらの活動をしておけばなとこの時ほど後悔したことはないが、もう遅い。これが現実なのだ。

後味の悪いモラトリアムの終焉を引きづりながらニート時代は完結する事となった。この頃は決定的に卑屈さが頂点に達して、もう自分の人生はこれ以上上昇する事ないだろうなと漠然と思い始めていた。大人になるとは悲しいことでもあるが、自分の日常生活すら満足に送れない何も人間的に魅力もないという事実は大分コンプレックスとして抱える事になる。なんといっても友達も全て縁が切れつつあり、恋人さえも碌にできない人生なのが辛かった。まあそれに対する努力を怠っていたというのもあるが。

社会人

何も人生に自信が持てないまま産廃業者に就職を果たす事になり、ここから人生がどう始まるのか終焉していくのか何もわからないまま社会人デビューを果たしていく事になる。通勤に伴い車を取得する事により、少し行動範囲が広がり、かつ実家暮らしで定期的な収入を得れることで金を稼ぐという楽しさも知っていきすこし人間的にデカくなれた事実を実感して改めて大人になったように感じれた。

同期は大卒組が6人、高卒組が2人であり1年ぶりに新たな人間関係が構築できる喜びに溢れていた。そして最初は工場配属ということもあり、ここで久々に自分と境遇の違う人間たちと触れ合えることは意外にも楽しかった。特に高卒組の地元の1番アホな高校からなにも意志もなくやってきたSという男は非常にウマがあった。

そして他の同期たちも比較的いいやつが多く、ひとり全くウマの合わない奴を除いて楽しくワクワクな日々を過ごしていた。女性も2人ほど存在し、1人は地元の大学からやってきた不思議ちゃんともうひとりは会社の産業医の娘で明らかにコネ入社したであろう女子大からの女子大学院卒のお堅い女の子である。後に後者のことをちょっと好きになるが、家庭含め無茶苦茶ガードが固く、デートに誘っても「親が許してくれないし、(ブルーカラー職の強い)会社の人間とそういう関係になるのは怖い」という恐ろしい理由で撃沈する事になる。色んな人間がいるんだなと改めてしみじみ思う。

ちなみにその子は工場事務のお局にイジメ抜かれ、虚弱メンタルな事もあって1年ぐらいで退職して行った。父親関係の医療現場で別の土地で新たな人生を送っているらしい。恐らくであろうが、許嫁であったり家庭が指定する結婚相手が用意されていそうな箱入り加減であった。退職する最終日、号泣しながら自分に挨拶してくれたのが印象的である。

高校以降、新たな人間関係を構築していたが何か笑いの感覚などソリッドな部分で本質的に分かり合える存在に出会えなかった自分としては、Sという社会人になってからこんなにも面白い人間に出会える事に感動した。後に彼とは一緒に会社を辞めて芸人を志して上京する事になる。ここにきて損得勘定抜きでヘラヘラできる存在に出会えたのは少し人生も捨てたもんじゃないなと思えた。

工場勤務はゴミ工場な事もあって臭いや辛さなど凄まじい事もあったが、そんな過酷な環境にはすぐさま慣れてしまい、部活の延長線上にある地元のブルーカラー的な人間関係というのは意外にもやり易くなかなか上手く立ち回れていたような気がする。ブルーカラー世界など縁が無かった自分の人生であるが、おちゃらけながらも仕事には熱心に取り組む大人に囲まれて、そこで従順な後輩を演じるのは結構ゲーム的に面白かった。

そしてそこでフォークリフトやユンボなどの重機を乗り回すというイベントもなかなか楽しいものであった。シャッターを破壊したり、ユンボを転倒させる一歩手前まで行き労災で死にかけるというハプニングはあったものの比較的そつなく仕事に従事できるという経験は自己肯定感に繋がった。しかし、何処かでこんな生活を一生続けるのは違うよなあとまだ本格的に始動してない感覚も同居していた覚えがある。

同期のSと仕事終わりにヤクザが必ず居る200円の銭湯に通うというのがこの頃の楽しみであり、会社近くのSの祖父母の家が空き家同然だったこともありそこ秘密基地的に利用して第二の青春のような人生が始まる。Sはその頃ヒップホップに傾倒しており、フリースタイルラッパーとして地元である程度活動していた。それまでハードコアなどバンド系の音楽しか通っていなかった自分としては、フリースタイルブームということもあり日本語ラップのカルチャーを享受する事になる。降神やMSCなどややハードコアなあの頃のヒップホップが特にお気に入りだった。

ゴミ工場という奴隷に近い環境に於いてそこそこ楽しく過ごしていた自分には遂に夜勤にぶち込まれる事になる。一応工場的価値観では夜勤投入されるのはやっと戦力として認められたというか一人前の証であるが、あくまで自分は将来のホワイトカラーとしての人材である。大卒組の先輩たちも現場を離れる事なく数年間夜勤に従事しており、全くそこを離れる気配もない雰囲気だったのは少し恐ろしさがあった。しかし金が比較的沢山貰えるというインセンティブもあったので、社会経験の一貫として取り込まれる怖さも感じながらカレンダーや休日が関係ない世界に足を踏み入れる事になる。

夜勤というのは確実に寿命をすり減らしていく感覚がある。脳に明らかにダメージが蓄積され、太陽を実感することのない生活は慣れたはずでも精神を削り取ってくる実感があった。仕事内容としては2人1組で各々黙々とタイムアタック的にゴミを燃やし続けるというイレギュラーさえなければ気楽な環境であるが、これを数年継続してこなしていく気分にはなれなかった。特に3交替勤務という日勤・夕勤・夜勤を3日こなしては1日休んで明け一個後ろにシフトするという有給取得など絶対に果たせないスーパー歯車シフトでもあったので、不定期な生活リズムに加えて余暇を楽しむ瞬間さえない恐ろしい労働環境であった。

流石にこのリズムで仕事をこなしていくのはエグいということで、何度もオフィスで9時5時業務に移りたいと懇願し続けた結果、就業一年目の終わりにはなんとか本社の総務系部門へ栄転することができた。不定期な辛さからは解放されたものの、ブラック感溢れる事務仕事が始まるというのはこの頃はまだ知らない。そしてこの頃からストレス解消にブロンという咳止め薬ODに手を染めるようになる。

この頃は仲の良かったSを従え、男2人で四国にうどんを食べに行ったり、USJにノリで急に出かけるなどの行動を繰り返していた。とにかく労働や大人な建前などを忘れて中学生の如くアホな会話で盛り上がれる唯一の存在ということで自分の仄暗い社会人人生にとっては唯一の希望であった。会社でも無茶苦茶2人だけでギリギリ大人にバレないラインで人を馬鹿にして遊んでたりして、成人したのにそういったガキ臭い行為を堪能できるのも魅力的であった。そしてSという男は流石に面白すぎるという事もあって、漠然とこいつと芸人を目指して一旗挙げようかという野望も沸々と浮かんでいた時期でもあった。

社会人になると日々の忙しさもあり、自分が素人童貞であるという事実もあまり実感しなくなっていく。ここまでの性行為を独白していくと、タイで童貞を失った以降は成人式で地元に帰った時に行った寂れたソープランドぐらいである。成人祝いで祖母から貰った5万円が翌日には溶けて行ったのはなかなか申し訳なく思えた。射精した瞬間、おばあちゃんの顔が浮かんでしまったのは言うまでも無い。そして自分にとっての最後のセックスはこの時期にSと行った大阪観光での飛田新地が最後である。この頃が24歳なのでその後8年間現在に至るまで完全なる童貞免許を保持し続ける事になる。

飛田新地というのは大学時代も冷やかしのみで行ったことがあるが、とんでもない美人が揃っている色街である。自分は数週練り歩き、酒の力も借りてサクラ大戦の主人公のコスプレをした女性と対戦する事に決めた。久々の女性との触れ合いであっったのでめちゃくちゃキョドっていたら、「もしかして初めて?」と一撃で見抜かれたのが印象的である。流石はプロフェッショナル。そこで人生初のイラマチオにチャレンジするが、想像してたより大分気持ちよくもなんとも無かった思い出がある。そして特に女性側の前戯をする事もなくシステマチックに挿入を果たし、自分が思った以上の速度で射精してしまいインスタントな早漏で時間を余らせたまま夢の時間は終了していく。

無茶苦茶ウザい客だと思うが自分は余った時間で風俗嬢の身の上話を取材するのが好きである。なんでこんなとこに居るにか?と質問すると「大学の学費を稼ぐために夏休みの期間だけここで頑張っている」というリアリティのある回答であった。真偽も疑わしいリップサービスの可能性もあるが、別に如何にもな夜の世界の女性っぽくのないのにそこにいた彼女を見て、世の中にはそういう方々がいるのだという学びになった。因みに対戦終了後に支払う現金が足りないという一歩間違えば裏に連れて行かれるような恐ろしい時間があったが、一緒に来ていたSに合流してもらい金を借りるという急死に一生エピソードもある。あの瞬間の客引きババアと嬢の間で立ち込めた緊張感はいつまでも忘却することは無いだろう。

その他にも飛田新地では明らかな風俗デビューを果たしに来た大学生集団のうち、ひとり真面目そうなメガネくんが無茶苦茶拒絶反応を起こしており、「みんなで一緒に童貞捨てる約束だろ!」と周りから詰められていたなんとも言えない瞬間を目撃したのが印象的である。

そしてこれを機に風俗に金を使うという行為がなにかコストパフォーマンスや満足感が悪いという感覚になっていき以降、性的な行為への魅力も喪失していくこととなる。今思い出したが、最後に行ったのはこの数ヶ月後に行った北海道への社員旅行でのススキノの手コキ風俗であった。読売テレビにいた川田アナクリソツですごい驚いた思い出がある。ここでも持ち前の早漏っぷりを発揮し、高速手コキでフィニッシュを果たしているのに、まだイってないふりを2分ぐらいし続け、わざとらしく「イキそう!イキそう!…ウゥ…」とav男優っぷりの大根演技を繰り出していた。なんだかそれで心の底から情けなくなり、こういう行為はトコトン向いてない人種だなと自覚する事になった。

この社員旅行では既婚者の上司たちも全員風俗行きまくってたのが印象的である。自分もちゃっかり行っといてなんだが、結構みんな性的欲求に忠実過ぎてジジイっぽい人もそういう興味が抜けないのだなと男性性に少し嫌悪感を覚えてしまった覚えがある。同時にキャバクラなんかもデビューするが、こんな金払って無理矢理テンションを上げ合う虚構的なセクハラ空間の何が面白いのか理解できなかった。やはり自分には孤独が似合うとどんどん弱者な思想に染まりつつある。

社会人2年目に突入し、念願のオフィス勤務デビューとなった。自分が配属されたのは管理系の部門で主に経理の業務を中心に総務やシステム系の仕事までマルチにこなす事になる。今思うとなかなか杜撰な管理体制で激務極まりなく、自分がやってくる前まで孤軍奮闘していた唯一のシステム担当が飛んでしまい、特にITリテラシーがある大人が皆無という恐ろしい環境であった。

しかし全く未知の経理という業務は自分にかなりフィットした仕事であったようで、システム管理や工場見学など邪魔な業務に悩まされながらもメキメキと労働という業務に自信を持って取り組む事になる。ここまで自己肯定感が報われることのない人生であったが、初めて自分の役割が肯定されたような気分になった。マジで仕事の出来る方の人間であって良かったと自分の能力に安堵したものである。社会に出て無能だったらモテない男は完全に存在意義を失う。人生がクビの皮一枚繋がった瞬間である。

ただ全社的なシステムトラブルに対して全て2年目の若造がひとりで対象しないといけない状況は非常に辛かった。ただでさえ向いているとは言え、全く管理体制が構築されていない雑な田舎の企業でもあったので、あらゆる権限が持てるものの頼れる大人がひとりもいないという状況は徐々に精神を蝕んでいく事になる。

経理という労働はあらゆる業務の最下流に位置する仕事で会社としてそういった管理業務にかかるコストや価値を重視していない場合は、途轍もなく皺寄せが集まり、効率化以前に職人的スキルで量を捌くという異様な状況に陥ってしまう。この会社ではあらゆる業務に首を突っ込む事になりかなりスキル的には磨かれたが、増えるはずのない人員や終わらない残業を毎月繰り返す事になり、なんとなくブラック企業というのはこういう負のスパイラルに巻き込まれるのだろなあと実感する事になる。残業は月100時間を超える月も珍しくなく、「自分が居ないと全ての業務が止まる」というようなあまりよく無い価値観で従事し続ける事になる。

意外にも会社に入ってからは人間関係で全く苦労した経験がない。仕事において一定の価値を示せていた事もあり、何だかんだ周囲の人間とは良好な関係性を維持し続けていた。そしてタバコを吸い続けていたという事もあり、喫煙所コミュニティの重要さを改めて実感する事になる。しかしそこで交流するのは他部署の人間であり、馬鹿話や社内ゴシップに花が咲く一方で自分の本質的な労働に対する悩みの吐け口などは一切無かった。みんな悪い人間では無かったが、自分が実現したい理想の効率的環境を実現するには少し厳しい人間だった事は否めない。そして世の中はこんなにもITリテラシーに乏しい人間に溢れているのかと何度も絶望したものである。

余りにもストレスに支配されていたため、この辺りから咳止めを大量に摂取するのにハマり出す。ブロンという市販薬を大量に摂取する事により、若干の快感と脳状態の保持が保てるという合法的な危険行為である。とても依存性が強く、ブロン抜きで生活すると凄まじく体調が悪くなるという副作用もある。このせいで自分の車にはブロンの空き瓶が大量に転がっていた。何件もドラッグストアを梯子し、常に保有しとかないと不安になるという状況に至り、錠剤タイプのブロンを液体シロップタイプのブロンで流し込むという末恐ろしい依存行動まで果たしていた。

客観的にメンヘラ一直線な生活を送り続けていると遂にはストレスが表面化するようで、円形脱毛症を発症する事になる。ストレスというのは我慢していても身体にダイレクトで影響出るのだと初めて悟った。そしてこの円形ハゲは最終的に直径5cmぐらいまで成長することとなり、どう考えても追い詰められた人間の合図として退職を決心するまで至ることになる。

時系列は前後するが、2年目の終わりぐらいにようやく有能なHさんという中途の社員がやってくる。旧帝大をしっかり出て順調なキャリアをこなしてきた彼は結婚を機に奥さんの実家があるこの地域に移り住んできたようで、孤独に追い詰められていた自分にとってはこの人と一緒に会社の体制に反逆し続けたり、酒を飲むのが唯一の救いであった。人生で1番有能な人間に出会えたことは非常に感謝したい。後に自分もその人も会社を見切り、退職していく事になるが、その縁は今でも継続しているのが有難い。

複数回転職を繰り返していたその人から見てもかなり終わってる会社であることは散々指摘してもらっており、「転職して外の世界を知った方がいいよ」というアドバイスは何も知らない狭い世界にいた自分としては大分影響を受けた言葉である。工場に幽閉されている高卒のSに加えて、このHさんというのは大分精神安定に作用していたように思える。会社に入ってリテラシー感覚の合う人間に巡り合うというのは本当に重要だなあと実感する。

この激務期間の思い出としてはこの頃流行り出したマッチングアプリに手を出したという事である。出会いのない閉鎖的な環境と受け身での労働しか実行できてない状況でこのまま何も人生にイベントが起きないことが何か恐ろしかった。唯一出会えたのが地元の大学の医学部に通う有能な女性であった。医学部生なのにど金髪でDir en grayが大好きな非常に自分好みな素敵な方だったのを覚えているし、無茶苦茶頭が良く、コアな知識などで会話できる楽しさに非常に溢れていた。何度か飲みに行ったりを繰り返して、遂には彼女の家に上がり込む事に成功し、当時メンヘラ一直線だった自分はここで童貞喪失を意気込んでいた。何故か映画のヒミズを一緒に見た事を覚えている。

無言で鑑賞する中自分はずっと勃起してこの後の展開を予期していた。そして意を決して相手の身体を触り始め事に及ぼうとすると、「今日生理だから無理」という何も言い返せない呪文で呆気なく対処されたのであった。流石にここまで来て何もできないのは切なすぎたので、おっぱいだけ揉ましてもらってその日はエンドとなった。車で1時間以上かかる立地な事もあってそれ以降彼女とは疎遠になっていった。そしていつの間にかLINEから彼女の名前も消えていた。今頃素晴らしい医者になっていることを期待したい。

そして自分は少しでも相手に拒絶されると、申し訳なさからあまり深追いせずに離れてしまうという性質なのだなと理解していく。特に男女の関係性においてはそこら辺の相手にどう思われるかという勝手な予防線を張りまくり、自然と友好的な関係性を維持しようと努める感覚が欠如していってしまうのであった。最初は積極性を持って相手に接していくが、いつしかその関係性を継続するという行為が非日常過ぎて徒労感を得るようにもなり、フェードアウトしていくという経験が多い。勿論、人間的魅力が足りないため実際会うと「2度目はないな」と相手に切られる対象なのも多いにあるだろう。

ここまでくるとこれから出会う人間で「無茶苦茶好き」みたいな淡い感情さえ浮かばなくなってしまっている気もする。結局は自分の安全圏を阻害してまでも相手のために行動するという熱意が湧かないのが悪いのだと思う。多分世間的に大分一緒にいて楽しい部類の人間では現状のメンタリティではあり得ないだろう。この時期辺りから孤独であるという状態にも中々の耐性を得る事になり、日常を負担なく生きるというのが人生の主を占めるようになっていく。

留まることのない労働と共に季節は巡り3年目に突入する。相変わらずの仕事量と共に決算というエクストリームな作業をこなし、休日出勤の比率もどんどんと増加していく。経理というのは毎月毎年全く同じ作業を繰り返していくだけである。日々の業務に翻弄され、中々根本的な業務フローの改善など行う事も困難になっていき、こんな絶望的な状況を死ぬまで繰り返すのにも流石に嫌気がさしてくるし、管理部門ではなかなかの戦力になってしまっているという事実を含め自分のキャリアの未来予想図が完全に見え始めてしまった。

「俺は一生こんな日常を繰り返して生きて行くのか?」という自問自答が止まらなくなるし、相変わらず自分の業務を補助してくれるような人材は入荷される気配もないし、Hさんと協力して各種体制の見直しなども図ったが、管理部門故にそこ見合ったような給与が上昇する気配もない。定期的な面談の機会で人員の増強か報酬の増加を定期的に訴えていたがそれが全く通用する気配も無かった。そして一向に治る気配もないハゲも拡張されて行く。「この決算を乗り越えたらそろそろ潮時かな」と順調に退職の決心を固めて行くのであった。一緒に経理の仕事をしていたベテランおばちゃんとは共に苦楽を乗り越えた良きパートナーになりつつあったので、これを裏切るという行為だけが少し心残りであった。

またこの単調な日常を捨て去って「芸人でいっちょやってみたい」という願望が本格化することにもなっていく。Sという無茶苦茶ポテンシャルのある相方も発見したことにより、こいつの面白さを世の中に提示したいという想いも溢れ出していた。Sは面白いだけでなく前述したようにラッパーとしてのアドリブ的な才能や、凄まじい芸術的な絵画を嗜むという一面もあり、こういったクリエイティブな面を地方の工場作業員として留めておくのは勿体無いという思いもあった。

とりあえず小手試しにM-1グランプリに参加してみるという行為もした。なんとなくネタをしたため最寄の広島で行われる一回戦に出場する事にする。舞台に上がる緊張感というには凄まじいものがあり、人生で初めて披露するネタは案の定全くウケる事もなく終わっていく。当然ひと笑いも起きなかったので一回戦敗退という当たり前の結果であったが、人前で何かをするという高揚感だけは非常にあった。そして、もっと舞台数を熟したり熟練度を増せば通用するのではないかという淡い期待みたいのも感じた。どうせ面白くもない単調な日々が続くなら若いうちにチャレンジしてみた方がいいという拠り所になっていく。最悪上京したらしたでなんかしら就職すればいいという予防線も張りつつ本格的に仕事を辞めて、東京に幻想を抱き始める事となった。

そんな状況のなかでの上司との面談の中で遂に会社を辞める事を伝える事になる。色々と揉めるのが面倒だったので、適当に大学時代の友人のベンチャーに誘われてそっちにアサインすることが決まっているというウソを付いて円満に退社することが決まった。上司はその頃同じ部署の女性社員と泥沼の関係性となっており、それが表面化した時期でもあったので、こんな穢れた状況下で黙々と仕事をして病んでいく自分が情け無くなったのもある。因みに自分が退職した後にその上司は懲罰的に左遷されていったらしい。尊敬できない存在が直属であるという事実は結構辛い。

対外的には嘘をブッコミつつもお世話になったHさんと経理のおばちゃんにだけは東京に行く旨を伝えた。でもなんか気恥ずかしかったので「芸人になる」という夢だけは伝えずにその時はいた。そしてSにも辞めた事を報告し、東京で芸人目指そうぜと告白するとあまり深く考えない彼もあっさりと了解してくれて社会人には珍しい同日日程で退職するという女子中学生のような退職劇となった。苦悩する2年半の生活にも終止符を打つことになり、取り敢えずのサラリーマン生活は終焉となった。

両親にも色々閉塞感があって東京に出て芸人とか色々チャレンジしてみる旨を伝えると、渋々ながらも円形ハゲな現状もあり「お前の人生だから」と一定の理解は得れた。取り敢えず退職した翌日にはリセットの意味を込めてスキンヘッドにした。完全に毛を剃り込んだのにも関わらず、明らかに円形ハゲの後遺症で全く毛の生えてない部分が残置していたのは少し面白かった。この頃は勿論地元の友達との縁も完全に切れており、母親伝いで仲良かったあいつが結婚しただの間接的に情報を得る少し悲しい状況でもあった。そして入社時に購入した新車を売っぱらい100万の軍資金を得た上でSと共に新たな人生を歩むことになる。この頃25歳でまだまだ何とでもなる時期だったと今になって思う。

ようやく自分の人生が何か再起動というか本格的に始動した気配があった。というかこれまでの人生正直何かを本格的に決断し、切り拓いた事もなかったのでいくら短絡的とはいえ、何かが始まるんだと希望に満ち溢れていた。

しかしそんな壮大なチャレンジは意外にも上京してすぐ破綻を迎えることになるとはこの頃は知る由もない。しかしこのまま何も起きず地方で閉塞感を感じながら生き続けるよりマシだったと今でも思っている。

上京ニート

それまで全く取得したことのない有給休暇を退職時に初めて消化し、退職の挨拶をしれっとこなしたあとは1ヶ月ぐらいの合法的休暇を楽しむことができた。この時期にSと共に一旦上京し、一緒に暮らすアパートと契約したり引越しの準備に当たるなど希望に満ち溢れる期間を過ごす事になる。物件は全く見当も付かなかったので漠然と夢追い人の街である「高円寺」を軸に探すことになる。しかし現状無職の男2人組の物件探しというのは結構難航した。とにかく予算間の合う十分な広さをもつ手頃な物件というのはそもそも少ないし、無職という社会的クレジットのなさはそもそも貸してくれる母数も急激に絞られていく。

高円寺から始まった物件探しも段々と方向転換していき、段々と阿佐ヶ谷、荻窪と中央線沿線を彷徨う事となる。最初はローカル感溢れる地元密着型の不動産屋を狙っていたが全くいい物件に巡り会えないため、色々とこだわりを捨てて大手仲介業者に突入すると荻窪で手頃な広さで駅近のリフォームしたてで妥協できる値段の物件を発見することができた。大家の方も半分ボケかけたようなおじいさんで、半分介護士のような対応の不動産屋の見事な手腕で無事契約を果たす事ができた。因みに今現在もこの物件に住み続けている。ネタバレすると相方は退場し、大家は死に絶え、担当していた不動産屋も消えていき、当時を知る者は自分しかいない。

無事に状況の環境を構築できた自分たちはとりあえず安堵し、夢物語を想像して希望しかこの頃は無かった。芸人を目指すといっても特に養成所に入るという選択肢はなく、東京にはエントリー制のフリーライブに溢れていたためそこに参加し続けて各種オーディションなどを受け続ければどっかに引っかかるし、養成所費用よりも安く何とかなるだろうというケチ臭くかつ舐め腐ったような考えであった。

もう戻れないところまで来てしまったという不安と新たなステージが始まる希望を胸に再度生まれ故郷の島根編は終焉を迎えることになる。実家でニート時代から見守ってくれた猫との別れは少し寂しかった。

2018年8月。遂には待望の上京を果たすことになる。取り敢えず片っ端からフリーエントリーのライブに募集しまくり、何となくのネタを作り始める生活が始まる。労働に関しては当時はやり始めていたubereatsの配達員という夢追い人にはぴったりのものをチョイスした。日中はチャリンコを乗り回し東京の地理を学習し、ネタづくりや練習を繰り返し、土日になると地下ライブに出演するというサイクルが始まる。そして毎週自主的にラジオを撮り始め、それをYouTubeにアップするという如何にもな売れてない芸人ムーブをこなす事にした。

ここからがようやく現実にぶち当たる訳であるが、フリーエントリーの地下ライブというのはとにかくウケない。というかそもそも客が全く居ない。30-40組の芸人に対して客が2-3人というベタな現実も体感することとなり、売れるとか以前にこのフェーズを脱するのが非常に困難であるという事実も突き付けられた。そしてもう一つの誤算としてあんだけ面白いと思っていたSが「全くセリフが覚えられない」という致命的な人種であった事である。

何とか丸暗記でいいので覚えさせても、そのまま丸暗記するのが精一杯で演技とか面白いとか以前の問題であった。そしてそれ以前に自分の描く漫才やコントが全く面白くないのではないかという致命的な現実にも直面してくる。彼は非常に面白い奴ではあったが、完全にノリで上京するようないい加減な奴でもあり、自分の芸人をやりたいというモチベーションと比べるとただ言われたからライブに参加して特に熱量も無くこなすというレベルであった。

そしてそんな関係性の中で一緒に暮らしているという事もあり、1ヶ月も経つと互いの生活力の無さも相まって凄まじく険悪な雰囲気に共同生活は包まれる事になる。自分も芸人開始という視野が狭い中で、知り合いもいない状況な事もあって信じられるのは相方だけだが、その相方があまりやる気を感じれない状況というのに凄まじいフラストレーションを感じていた。毎週ラジオを撮り終わった後はやり場のない怒りを含めて相方に説教するという地獄の空間が繰り広げられていく。家の中でも2人、芸人として滑った後も2人という状況はお互いに気軽に冗談を飛ばし合うような関係性では無くなっていった。本当に相方というか一心同体的な関係性の相手とのシェアハウスはお勧めしない。

こうなるとネタを披露するという目的以前にライブの手配をするだとか、部屋の片付けやゴミ捨てをするなどどうでもいい事にも波及していく。彼は特にバイトを始める様子も無く、淡々と絵を描いてお笑いに対する情熱を見せる様子も無く過ごしており、そんな情熱のない態度が段々と許せなくなり遂には芸人に本腰を入れないならこの家から出ていくよう通告するまでに至る。驚くべきことにここまで上京してからたった2ヶ月である。

自分も漠然と減りつつある貯金に加え、土日しか基本的にライブに参加していない事実もあったのでこんな不安定な状態ならば普通に再就職をして土日に兼業的に芸人稼業を行えばいいのではないかという現実的なプランにたどり着く。漠然と生活費削減のために同居を続けて向上心もなく険悪になるぐらいなら、お互いそれぞれの生活には責任を持って、それを前提に芸人へ取り組もうというやや強引であるが前向きな提案でもあった。そして余りにも「自力で生活する」という能力を持たない相方に関して、一旦その体験をさせないといけないという愛憎塗れた感情もあった。因みに当時Sは20歳なりたての実家から出た事もない世間知らずな若者である。

こうしてお互いが悪いシリアスな状況と話し合いを経て、相方はこの家を出ていく事になった。この頃は不仲も絶頂を迎えており、相手も出ていく先を一切伝えないなどの臨戦態勢をとっていた。こうして芸人という夢はすぐさま潰える事となる。人の夢というのは意外にも脆いし、自分も何度かネタを試してみても全くウケる気配もないので台本であったりパフォーマーとしての力量も才能無いんだなと薄々自覚し始めていた。

しかし、最後にやったコントで相方が発案し、自分がそれを元に作ったネタはライブで披露したところ人生で初めてウケた覚えがある。確か「死んだら天国としてブックオフに行ってしまう」という設定バラシに賭けたものであった。そこで初めて笑いを得た事により、Sの感覚的な笑いの感性はある程度間違っていないのだなぁと安堵した。この方向性でやっていけば何となくやっていけるような気配もあり、それぐらいの手応えでもあったが、それ以前に日常生活を気持ち良く送れる雰囲気がない殺伐さから解放されたいという気持ちがお互いにあった。

取り敢えず自分は自分でこの家に残るため家賃負担が急激に増加する事もあり、手っ取り早く再就職を果たす必要性に迫られていた。幸い経理マンとしての充分な実務経験があったので、転職エージェントに登録し5社近く面接を受けたら運良く今の会社へと採用が決まった。取り敢えず都内で経理の仕事ならば何でもよかった。この時期の自分は薄々芸人として新たにコンビを組んだりライブをする事もなく、仮初の夢を諦めて何事もなかったようにサラリーマンになるのだろうと気持ちがブレていた。

このように4ヶ月ぐらいで芸人生活は終止符を打つことになる。だからの章は「上京ニート編」と銘打っている。このような実績で「元芸人」を名乗るのも非常に烏滸がましい思いがあるからだ。でも一瞬でも夢を目指すことが出来た人生の一幕として後悔は無い。このまま10年ぐらい続けていたら基礎的な技術力の躓きから脱し、何か芽が出る感覚もあったが、そのような狂気的な生活を続けるのは自分のメンタリティではどっちみち不可能だなと思う。こうして自分はただのお笑いオタクに戻る事になる。お笑いなんて客として気軽に楽しむのが1番幸せである。

11月末をもってSは退去することが決まった。この頃はほとんど会話もなく各々が各々の人生を勝手に進んでいるような状態だった。最後に家を出ていく時に「自分に厳しく頑張れよ」と自戒も込めて声を掛けたら、相手も色々積もっていたらしくちょっと険悪になって別れを告げる事となった。自分は節目節目で毎回最悪な決別をするなと毎回ちょっと後悔する。しかし、取り敢えずの自立の期間を経て、何処かでSとはまた一緒になるだろなという感覚もあった。そしてそっからはお互い意地で一年近く音信不通となる。

この年のM-1は自分と同い年の霜降り明星が優勝だった。自分が大学生なりたて頃に観たオールザッツで優勝していたタメの粗品がそのまま賞レースの天下を颯爽と掻っ攫って行ったのはいい諦めの踏ん切りとなった。そしてこの次の日から自分は社会人として新たな人生を歩んでいく事となる。

社会人season2

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