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NETFLIX『MAKING A MURDERER』~法がもつ力の怖さと大切さ~

 NETFLIXの『MAKING A MURDERER』(以下『MaM』)は、スティーヴン・エイブリーという男性とその家族が巻き込まれる事件のドキュメンタリーである。スティーヴン・エイブリーは強姦罪で有罪判決を受け服役していたが、新証拠により冤罪が証明され18年後に釈放される。ところがすぐに別な強姦殺人事件で起訴されてしまう。果たして彼は本当に罪を犯したのか。そこを追求し、事件にまつわる人々を十年以上追いかけている、現在進行形の実録ドキュメンタリーだ。そのため、検察や警察の捜査を一方的に貶めているという批判もあるが、アメリカでは社会現象にまでなったらしい。

 実際、アメリカでも検察・警察側の主張を支持する人がたくさんいるので、そうしたバランス感覚をもって観るのはもちろんだが、できればまっさらな状態で観るのをお薦めする。そうすることで「自分が陪審員だったら?」とか「自分自身や大切な人にこうした嫌疑が降り掛かったら?」という視点で観られる可能性がより高まるからだ。

 いずれにせよ、ぼくたちが否応なしに縛られている(かつ守られているはずの)「刑法制度」とはどういうものなのか。検察、警察、弁護士、判事、陪審員がいかにしてその法を行使するのか。またはするべきなのか。そうしたことを自分自身の物語として鑑賞し、考えてみる絶好の機会にしない手はない。

 下手な映画よりもドラマティックな展開が繰り広げられるので、エンタメとしてもスリリングな鑑賞になるのは間違いないが、それだけではもったいない。アメリカでの話であることを踏まえても、日本と共通する部分が多分にあり、そうした視点をもって観れば、より強烈な鑑賞体験になるはずだ。

法を執行するということ

 この『MaM』では、警察や検察のことを「当局」と訳す箇所が多々ある。英語では「Law Enforcement」という言葉なのだが、そうした法機構の結束力と執行力は実に強大であり、だからこそ、その強制力(enforcement)が適切に行使されないときの怖さは想像を絶する。多くの人は法の力を執行する側ではなく、される側にいる。ならば、その怖さと大切さを実感しておくべきなのは間違いない。

 つまり、誰でも被告になる可能性があるので、そのときの検察や警察の捜査が不適切だったり、その不適切な捜査に反論できない駄目な弁護士がついたりした場合、どんなことになるのかを『MaM』は突きつけてくる。

 同時に先に示したように日本も裁判員制度を導入しているので、ぼくたちにも(アメリカの陪審員制度に比べるとその執行力は弱いが)法を執行する力が与えられている。執行される側の怖さを知れば知るほど、執行する側になったときの怖さも増していく。

 とにかくこの稀有な実話は、法を執行するという行為が、ぼくたち一人ひとりの人権と自由に密接に関係しているのだと教えてくれる。

裁判が成し得ること

 適切に法が執行されるために生み出された制度としての裁判とはいえ、それ自体が適切かつ健全に機能するかどうかは絶対ではない。

 動かしがたい事実を積み重ねていっても、常にそれぞれの立場に沿った真実が複数浮かび上がる。人はみな“自分の真実”に沿った物語を信じているが、それが一定の合意を以て、事実として認められない場合がある。

 実際に記憶は塗り替えられるし、事実の認識や解釈さえ、人によって異なる。写真や映像も、Deep Fakeの時代に生きるぼくたちには心もとないものになりつつあるし、いくら科学捜査が発達しても、その運用を人間がする限り絶対ではない。実際に科学鑑定の結果が割れるのも珍しくない。

 まさしく映画『羅生門』の如く「真相は藪の中」なのだ。

 ならば、裁判は「たったひとつの真相」を見出すというよりも「客観的かつ合理的で常識的な複数の物語」の中から、「一定の合意を以て、ひとつの物語を選び取るだけ」なのかもしれない。

推定無罪の原則 VS 社会的脅威の封印

 明らかに有罪と立証されない限り無罪とする「推定無罪の原則」は「社会的驚異の封印」の前で揺らぎ始める。疑うべきは罰せずではなく、疑わしい(=怖い)から牢屋に入れておこうという心理だ。

 そうした社会的脅威や人々の恐怖心を煽る力としてメディアの存在は無視できない。メディアは常に「人々の声」といった取りあげ方をするが、公正かつ深い理解を促せるような、多様性と極性をもった声を充分に拾えるわけがなく、実際は番組ディレクターやコメンテーターのバイアスのかかった声を提示するに留まっているケースが大半だろう。これは政策などへの意見も同様だ。

 一度起訴され容疑者となれば裁判で無罪になったとしても、その人や家族の社会的信用は著しく、かつ不可逆的に失墜してしまう。その際、メディアは法の執行力よりも凄まじい力を持ち得る

 ならば、そもそもそういう立場にならない、つまり起訴されないようにすればいいだけのことと思うかもしれないが、その考えも『MaM』を観ると無力化されるだろう。

自由と権利を守るには?

 有罪か無罪かにしても政策にしても「どうせ人なんて、たいして分かってもいないのに自分の意見が正しいって思ってんのよ」とか「世間や社会って、どうせそんなもんでしょ」と言う友人知人も多い。「でも自分や大切な人の身に降り掛かったらそうも言っていられないのでは?」と問い返しても「そうなったら終わり。どうしようもないって諦めるしかない。だから、大切なのは普段からそういうことが降り掛からないようにすること」なんて言ってくる。

 『MaM』に登場する弁護士が言う。

──刑事司法制度の諸悪の根源は、捜査官、警察官、被告側弁護士、判事、陪審員らの根拠のない確信にあります。自分たちの理解は正しい、自分たちこそが正しいという考えです。悲惨ですが刑事司法制度に関わる者すべてに謙虚な気持ちが欠けてしまっているのです。[ディーン・ストラング]

"Most of what ails our criminal justice system lie in unwarranted certitude on the part of police officers and prosecutors and defense lawyers and judges and jurors that they are getting it right. That they are simply right. Just a tragic lack of humility in everyone who participates in our criminal justice system" ──Dean Strang

 さらにもうひとりの弁護士はこう続ける。

──絶対に罪を侵さないとは言えますが、罪に問われる可能性が絶対にないとは言えません。もしそうなったら、そのときはもう刑事司法制度の幸運を祈るしかありません。[ジェローム・ブティング]

"We could all say that we're never gonna commit a crime. But we can never guarantee that someone will never accuse us of a crime. ── Jerome Buting

 自分の人権や自由が護られるのは義務の見返りではない。どんな人でも(たとえ犯罪者であっても非納税者であっても)その人権と自由は護られなければならない。

 もし自分の人権や自由を護って欲しいならば、するべきことはひとつだ。

 それは他人の人権や自由を護ってあげるということ。

 社会に暮らす人々が互いにその権利と自由が護られるよう、自分なりの責任と行動を示すことでしか、それは護られようがない。

 それにしてもPart 2から登場する弁護士キャサリン・ゼルナーがかっこいい!

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