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抽象美術はなぜ生まれたのか?②

前回のポストで、抽象絵画は「比較して鑑賞するものだ」と述べました。
何と比較するのかというと、「過去の美術表現との比較」です。
つまり、抽象絵画を楽しもうと思ったら、美術表現がこれまでたどってきた過去の変遷を知る必要があったわけです。
(この時点ですでにハードル高ぇ・・・とは自分でも思いますが)

ということで今回は、先日私が美術館の学芸員の方から聞いた話をもとに、私の理解と一部想像も踏まえつつ「超ざっくりな美術史」として美術の歴史を辿ってみます。なお、前回も述べましたが、「美術」という概念は非常に広く、彫刻や版画・造形作品等も含まれるのですが、ここでは美術の最も基本的な創作形態である絵画に絞ります。

1. 古代~中世ヨーロッパ (~14世紀)

「古代~中世」と、いきなり雑な括り方で大変恐縮ですが、ざっくりいかせてください。これらの時代の美術とはすなわち権力の象徴であり、権威者の権威や思想を伝えるメディアでした。

これらの時代で「美術は一体誰のためのものか?(誰が画家に描かせたのか?)」といえば、それはズバリ特権階級です。具体的には王侯貴族キリスト教会を指します。

まずキリスト教会が権力を持つようになる以前、封建制度全盛の時代では、各地を代々治める領主が絶対的権威者でした。彼らは自らの地位と権威を誇示するために画家に絵を描かせたのです。作品のモチーフとなるのは当然彼ら自身であり、絵画作品としては肖像画が多く描かれました。もしかしたら隣国との領土争いに勝ったりしたときなんかは、勝利を祝した戦争画も描いていたかもしれませんが、それは歴史の記録というよりも、一族の栄光を記録するという意味合いが強かったと思います。おそらく画家は領主に仕え、「お抱えの画家」みたいなポジションで、雇い主(領主)一族の歴史を絵画として記録する役割を負っていたのではないでしょうか。

次第にキリスト教が広まり、教会が権力を持ち始めてくると、王侯貴族だけでなく教会も画家に絵を描かせるようになります。教会が画家に描かせるモチーフはもちろんキリスト教の世界観であり、その目的は教会の権威を保つことです。教会や大聖堂といった建物を建て、画家達に教会の教義や聖書の内容に沿った絵を建物に描かせることで、教会に通う信者達にキリスト教の世界観を強固に補強しつつ、教会の権力を示す役割を果たすわけです。この時代に描かれる作品は、宗教画神話画が多くなります。

アーニョロ・ブロンズィーノ 「聖家族と聖アンナと幼児聖ヨハネ」

また、これらの時代に描かれた絵画は、壁画やフレスコ画、ステンドグラスといった「大がかりな作品」が多いです。現代の絵画では当たり前となっている「油絵」はまだこの時代には存在していないため、技術的に小さく収まる作品作りが難しかったというのもあるかもしれませんが、そもそも自らの権威を示すためのものなので、より大きく、より壮大なスケールで描くことが求められていたのではないでしょうか。

これらの時代では「美術=特別な人のためのもの」であり、一般庶民は特権階級の人達が所有するソレをたまに見せてもらう程度だったので「高嶺の花」という表現では収まらないくらい、庶民と美術との間には隔たりがあったと思われます。

2. 15世紀~18世紀


この頃になると、王侯貴族や教会のほかにも、画家に絵を描かせることができる第3のポジション「商人(中産階級)」が登場します。航海技術の発達により大航海時代が到来し、経済圏が飛躍的に拡大したことも大きな要因だと思いますが、それまで貧困層がやる仕事だった貿易業や金融業といった第三次産業が一気に成長し、財を成す中産階級がたくさん現れてきます。

すると、これまで「高嶺の花」だった美術が、蓄えた財によって手が届く範囲になってきます。さすがに教会に描かれているような大規模な壁画は難しくても、自分の家や部屋に飾れるくらいの絵画など「これくらいなら自分でも買えるぞ!」と手を出し始めたのです。中産階級の人たちは、もともと高貴な血筋があるわけでもないし、またキリスト教の権威に協力する必要もないわけですから、自分たちが欲するままの、日常風景や美しい憧憬を切り取った静物画風景画が好まれ、画家たちにたくさん描かれるようになります。また、歴史を記録する目的としての戦争画も描かれるようになりました。

ヨハネス・フェルメール 「牛乳を注ぐ女」 (1660)

この時代で注目すべき大きな変化の1つに「油絵」の発明があります。油絵の登場で何が変わったのかといえば「絵が持ち運べるようになった」ということです。「キャンバス」と呼ばれる素材に油絵で描いた軽量・コンパクトな絵画が流通したことも、中産階級が美術に手を出しやすくなった一因だと考えられます。持ち運べるということは当然、取引(売買)できるということでもあるので、絵画は宝飾品のように資産価値という側面も持ち合わせるようになりました。

ただ、元々庶民だったとはいえ、中産階級の人たちはそこから「成り上がった一部の人たち」であり、「成りあがれなかった人たち」=普通の庶民にとっては、相変わらず美術というのは手が届かない「高嶺の花」であったことには変わりありませんでした。

3. 18世紀~19世紀

ここで、美術史にとって破壊的な転機が訪れます。

写真の登場です。


といっても、初期の写真は非常に画質が悪く、それを見た当時の画家達は「こんなものに自分たちの絵が負けるわけがない」と鼻で笑っていたそうです(※)。しかし、みるみる内に写真の技術精度はあがり、19世紀後半になると、「写実性」という点では絵画より写真のほうがはるかに優れているという状態になってしまいました。

※余談ですが、世の中に破壊的イノベーションが登場したとき、既得権者が「こんな新参者に負けるわけがない」なんてセリフを吐くと、その後必ずしっぺ返しを食らうというパターンは、古今東西、鉄板なんでしょうか…

写真の精度が飛躍的に伸びていったことで、画家達は慌てふためきます。なぜなら、これまで美術がはたしてきた基本的な価値というのは、対象は何であれ「目に映る景色を切り取って、そのまま形に残すこと」だったわけです。(宗教画や神話画は目に映る景色とはちょっと違いますが)

つまり、絵画の価値は「いかに写実的に、いかに精緻に描かれるか」で決まっていたのに、それが写真に完全にとって代わられてしまったわけです。
写真の登場により市場価値がなくなってしまった当時の画家達は

「写実さ」や「精緻さ」では、どうやっても写真に勝てない…!

と悟り、このタイミングで写真家や写真に関する職種に転向した画家が多かったようです。

しかし、一部の画家はこう思いました。

「絵画の本当の価値とは何だ?見たものをそのまま写し取る写真にはできない表現、絵画じゃないとできない表現を我々は模索すべきではないか!?」

この人たちが印象派と呼ばれる人たちです。

彼らは、「我々が目で見る対象のイメージと脳に映るイメージは異なる」と考え、「人間にとってリアルに感じられるのは脳に映るイメージの方であり、それを表現することこそが美術だ!」と考えたわけです。

印象派の画風は、それ以前のペターっとした写実性とはまったくかけ離れた、ぼんやりした表現が特徴です。

クロード・モネ 「日の出」 (1873)

それまでの美術の価値観は、いかに写実的に、いかに精緻に対象を切り取るか?だったのを、あえて「見たまんまを描かない」という価値観の逆張りをいったわけです。

印象派の人たちの作品は、現代の今でこそ評価されていますが、当時の美術界では全く受け入れられず、酷評の嵐だったそうです。私たちがモネの睡蓮の作品を見ても、「え、フツーに睡蓮のキレイな風景じゃん?」と思うかもしれませんが、当時世の中を支配していた「美術とはこういうものだ」という価値観で見ると

「何このボヤったとした絵は!?輪郭が曖昧だし、気持ち悪っ!!」

という感じだったんでしょう。

写真が登場し、自分たちの存在意義が危ぶまれた画家達は新たな価値軸を模索し始めます。そんな中、世界でも大きなうねりが起こりつつあり、やがてそれらが合わさって新たな美術表現が生まれます。

っていうところまで書ききるつもりでしたが・・・次回に続きます(汗。

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