カエルとの対話 篇
皆がもう寝静まってしまった、或る蒸し暑い夜。
一匹のカエルが泣きだす。
そうすると、釣られてか釣られないでか、カエルたちは一斉に叫びだす。
瞬時に。それはもう、おそろしいまでのスピードで。
静かだった辺りは、まるで都会の真昼のような喧噪に包まれる。
しかも、暗闇のまま。
「カエルよ。お前たちは、何故、そんなに懸命に泣くのだ。」
ぼくは、その力強くも悲しげな声の理由を問う。
すると、中でもいちばん年寄のカエルという奴が、ぼくの前にピョンと飛び出してきて、こう告げるのだった。
「われらが泣く理由を問うた、そこの人間よ。」
「よく聞け。わたしは昔、おまえだった。」
「そして、おまえはやがて、わたしになるのだ。」
驚いた。カエルが人語を介して話しかけてきたことよりも、その哲学的な問いに、ぼくは一瞬、怯んだ。
「あなたがたは、なにをそんなに悲しんで泣いているのです?。」
もう一度、ぼくはこの老蛙に尋ねてみた。
「悲しい?。われらは、何かが悲しくて泣いているわけではない。」
「おまえは世の中に嬉しいことや、悲しいことが、本当に存在すると思っているのか。親が子を虐げることも、子が親を捨てることも、殺人、戦争、核兵器の存在、環境破壊さえも、ながい目でみれば何ら悲しいことはない。これは自然の摂理じゃ。」
「殺人や戦争が自然の摂理ですって?。」
「そうとも。なぜなら、殺人も戦争も、完全に人工的なものとは言えまいて。つい先日も、都会で人がたくさん殺されたと聞いたが、殺人を犯した男のことを、おまえたちは、まるで何か異物のように扱っているだろう。」
「ええ。新聞でみた話ですが、彼は、生い立ちや両親の離婚問題、恋愛がうまくいかないなど、人間関係に悩んで、ついに狂ってしまったのだそうです。」
「狂う?。は。」
「われわれからみれば、あの男も、おまえも、そして他の人間も、大きく変わりはしまい。あの男は、おまえたち人間という自然が生みだした、自然な存在なのだ。」
「考えてもみよ。もしわれらカエルの仲間に、カエルを多く殺す者が現れたとして、おまえはそのカエルを、カエルでないと断定することができるのか?。」
「いえ、蛙の子は蛙と言いますし、何をしようと、カエルはカエルでしょう。しかし、われわれ人間には、道理というものがあります。」
「は。道徳?、倫理?。」
「おまえたち人間社会の歴史の中で、そのような概念が普遍的に扱われてきたことなど、一度もないではないか。」
「それでは、わたしたちは一体、何を縁に生きていけば良いのですか?」
「ヨスガ?。はは。おまえたちは、生きるのに、何かヨスガがないと生きていけないと思い込んでいるだけじゃ。」
ひどく達観した老蛙の受け応えに戸惑いつつも、ぼくは去来した疑問をそのまま打つけることにした。
「それでは、あなたは、われわれ人間の社会が、道理も何もない世の中になって、秩序もなく、殺人や戦争が横行して、それでもよいとお考えなのですね。」
「ふむ。だが、おまえたちがそういう社会を忌み嫌って、平和に過ごそうとすることもまた、自然の摂理じゃ。」
「なるほど。わかりました。」
「ですが、仮に殺人や戦争が自然の摂理であったとしても、環境破壊についてはどうですか。あなたがたも棲んでいる環境が破壊されてしまえば生きてはいけません。」
「人間よ。われわれは生きるために生きているのではない。」
「われわれは、ただ泣くために生きているのだ。」
「では、なぜ泣くのですか?。」
老蛙は、この質問を受け止めたところで、やれやれ、何も分かっておらぬのう、といった素振りで一呼吸置いた後、こう断言した。
「それは、業だ。」
「業によって泣いているのだ。」
「ゴウ?。カエルにもゴウがあるのですか?」
「いや、カエルには業はない。さきほど、カエル殺しを犯すカエルの例を出しはしたが、実際、われらの中にそんなカエルはおらん。」
「それでは、いったい何を、、、。」
「だから、言っただろう。わしは昔、おまえだったのだ。」
「見よ。この何百万のカエルたちを。われらは昔、みなおまえたちだった。」
「道理だ何だと言っておるが、おまえたち人間には、結局、二つの分別しか付けられまい。おまえたちは、それを男と女だと思っている。」
「それでは、その二つの分け方とはどういったものでしょうか?」
老蛙は、後を振り返り美しく水を張った水田と対峙して、こう言った。
「それはな。大人と子供だ。」
「子供はいい。自分が自然だということを分かっている。」
「大人はな。もういかぬぞ。」
「それはな。業を背負ってしまうからじゃ。」
「われわれは、その業を泣くのじゃ。」
「わたしたちのために。それはお気の毒さまなことで。」
「いや。気の毒なことなどない。」
「おまえたちは、自然というものがいまいち分かってないから、ピンとこないだろうが、おまえたちの業は、われわれのものでもある。」
「それにな。厳しい冬は暖かい地面の中で過ごし、春に目覚めて子を為す。夏は大泣きに泣くが、それも盆を過ぎて、おまえたちの魂が天に還るまで。気楽なものじゃ。」
そう述べおわると、この一匹の老蛙は、また、もと居た田へと戻っていくのだった。
「待って。最後に教えてください。」
「あなたたちが、泣くために生きているのはよく分かった。」
「では、われわれ人間は、どうして生きているのですか?。」
「生きるために生きるなどというのは、おまえたち人間のもつエゴイズムが生みだした幻想に過ぎまい。とすれば、どうして生きるか、などと考える必要もあるまい。」
「だから言っただろう。おまえはやがてわしになるのじゃ。」
「ただ、その業を泣いて生きよ。」
そうして、老蛙は田へと入ると、他のカエルたちと共に、また大きな声で泣き始めた。
その声は、もはや悲しげに聞こえることもなく、ぼくの耳にむしろある種の幸福感さえ感じさせるのだった。
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