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祈りとは 諦めないこと

当時ブログに書いた文章をnoteに載せてみたくなりました。

=2004.09.19の記事=
「祈りとは 諦めないこと」

何気なく読み始めた新聞のコラムの最後の一行を読んだとき、思いもかけなかった言葉に殴られたような衝撃を受けました。それはこんな言葉。

「祈りとは、諦めないということである。」

9月12日付の西日本新聞の「いまこの時代に」というコラムで作家の村田喜代子が寄せた文章です。知人の娘さんが、看護学校で先生に聞いた話から始まります。

最近のアメリカでは死体が腐りにくくなったという。食品を保たせるための防腐剤が人の体に蓄積される。不気味な話だ。死体は速やかに腐らねばならない。それが自然というものだ。

村田喜代子はこのコラムで人間の愚行について書いています。「地球白書・2000~01」や、「百年の愚行(紀伊国屋書店刊)」という本を紹介しながら、人間がおこなった自然と人への愚行を厳しく見つめます。

国家と民族、宗教の争いなどの一方で、身近なところで行われている愚行。私たちもそれに手を貸している現状は決して人ごとではありません。産業廃棄物、酸性雨、動物実験・・。便利を求める私たちは、自然界にとって恐るべき猛威ではないかとこのコラムでは問いかけています。

これからの百年にいったいどんな未来があるのか。
私が営むような書く行為に、どんな価値があるのだろう。

そう嘆いたとき、村田喜代子は自分が書いた小説の登場人物を思い出します。死んだ後、神となった主人公が子孫を見守る話で、この神は非力で何の神通力も持たない。いったい神とは何であろうと自らを問い直す主人公。

「神とは、目のようなものではないか・・・。永遠に人間界を見つめ続ける尽きぬまなざしのようなものではあるまいか。」

そう考えた主人公の祈りにも似た悲しみ。村田喜代子はこの後こんな文章でコラムを結んでいます。

これこそ力はなく心のみ溢れるばかりの、人間の祈りではないかという気がしたのだった。そして祈りとは、諦めないということである。

読み終えたとき、衝撃を覚えました。「祈り」という言葉に静的なイメージを感じていたので、「諦めない」という力強い言葉の響きに驚きました。目を見開かされた思いです。そうか、諦めてないから人は祈るのだ。

以前、私が書いた記事「祈るということ」を思い出しました。人として、この世の中で一番尊い行為は「祈る」ということだと書きました。力はなく心のみ溢れるばかりの人間の祈り。しかし、祈りとは諦めないということだと気付くことができました。

平和を願う祈り。そこに力はないかもしれない。でも祈り続ける限り、私たちに希望はあります。祈りとは、諦めないということだから。



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