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森水学園 用務員・杜用治さんのノート

還暦を超えたら「かけ足教」へ入信せよ?

1974年4月26日

村の中でもあちこちに桜が咲き始めた。
天気もいいので、校庭のベンチに座ってボ~ッとしていたら、白衣(といってもかなり汚れていてねずみ色に近い)を着た婆さまがとぼとぼと歩いてきて、黙って俺の隣りに座った。

婆さま: あんたはここのセンセイかね?

俺:  いや、ただの居候ですよ。村のみんなは用務員さん、って呼ぶけどね。そういう婆さまは何者なんですか。この村の者じゃないみたいだけど。
婆さま: あたしゃ宗教家じゃよ。

俺: 宗教家? 布教して回ってるってことですか? 仏教系? キリスト教系? 
婆さま:ずいぶん疑問文が多いねぇ。あたしが説いて回る教えは、何系でもない。「かけ足教」というのを説いて回ってる。

俺:  かけあし教? 聞いたことないなあ。面白そうだけど……。
婆さま:聴くかね? 教理は簡単じゃよ。

俺:  長くならないなら、聴いてもいいですよ。
婆さま:じゃあ、簡潔に伝えようかね。
あんたは還暦を迎えたかね?

俺:  いや、まだですね。
婆さま:これは還暦を迎えてからの生き方を説く教えじゃ。

俺:  それなら、俺にはまだ早いか……。
いやいや、還暦を迎えてから知るより、今から知っておいたほうが無駄な時間が減らせるじゃろ。せっかくだから聞きなさい。

俺: じゃあ、お願いします。
婆さま:還暦というのは、干支が一回りして元に戻るってことじゃろ。本卦還りともいうな。
この世に生まれて、60年生きて、生まれた年の干支に戻るわけじゃな。
昔は人生50年というて、人が60年生きるなんてことは贅沢じゃった。
じゃから、60年生きたら、もう一度生まれて、それまでの60年の人生を踏まえて、残りの人生をじっくり生きよ、という教えじゃな。
じゃけんども、60を過ぎた人間は、脳みそも身体もガタガタぼろぼろじゃでな。それまでの60年のような時間をそれまでの時間感覚で生きることはできん。時間が過ぎる速さもどんどん短くなる。
じっくりとじゃが、駆け足で生きることを求められるわけじゃな。

俺: それで「駆け足教」っていうわけですか?
婆さま:それもある。だが、かけ足教の「かける」は、もう一つの「かける」にもかけちょる。……かけ算じゃ。

俺: かけ算?
婆さま:そう……歳をな、十の位の数と一の位の数で、かけ算をするんじゃ。
60歳は6と0。6かける0は0じゃろ。だから、60になったときは、もう一度別の人生を生きるつもりで0歳児として生まれ変わる気持ちになる。

俺: 0歳児じゃ、何も考えられないし、言葉も使えないですよね。
婆さま:そういうことではない。新しい人生におけることはゼロから始める、ということじゃ。それまで60年生きた経験は、そのまま残って、次の人生への架け橋になる。その架け橋の「かける」でもあるな。

俺: ……う~ん。……それで?
婆さま:61歳になったら、6かける1で6歳じゃ。つまり、還暦を過ぎたら1年が6年の速さで過ぎていくんじゃな。かけ足で過ぎていくわけじゃな。
だから、それまでの人生の0歳から6歳までに身につけたこと、世の中のあらゆるものを、見て、聞いて、触って……という五感をもう一度研ぎ澄ませる。ものへの認識をゼロから見直してみる。言葉の意味も、音の聴き方も、基本を全部ゼロから見直してみる1年間じゃ。

俺: ……なんか面白そうですね。となると、62歳は6かける2で12歳か。小婆さま:学校6年間で学んだことを見直す1年ってことですか?
おお、出来のいい生徒じゃな。その通りじゃ。小学校で学んだことを、もう一度、根本から考え直してみる。科学も歴史も……全部な。特に歴史なんてものは、時の権力者の都合でどんどん書き換えられている物語にすぎないからな。どこまでが本当にあったことか、偏見や脚色をとことん削ぎ落として、裸にしてみることじゃ。そうすれば、違う世界が見えてくる。

俺:  それは分かる。俺もそれは常々思っていますよ。
じゃあ、63歳は6かける3で18歳。思春期ですね。これはどうやり直すんです?
婆さま:やり直す、とは言っておらんじゃろ。振り返るのはええことじゃがな。あの頃のドキドキした時間をそのままやり直しはできんから、あれは一体なんだったんじゃろ、と思い直す時間じゃな。
十代のときにときめいた美しさとはなんだったのか。生殖本能によって歪められていた美感覚だったんじゃないか……とか。そういうことじゃな。
おまえさん、十代のときに心ときめいた女の子がおったじゃろ? 今、その子がそのときのままの姿で目の前に現れたらどう感じるかね。あの頃と同じような目では見られんじゃろ?

俺:  それはそうだろうけど、ちょっと話がズレている気もしますね。同じようにはときめかなくても、何か特別な想いはこみ上げるんじゃないかなあ。それをどうしろと?
婆さま:それをどうするか、どう考えて、新しい人生に生かすかは、おまえさんが63歳になったときに考えるんじゃな。

俺:  じゃあ、64歳は24歳。その頃の俺は……。
婆さま:何かを求めてあがいておったんじゃないかね。その求めたものは、技術だったり、人からの信頼や尊敬だったり、金だったり、性欲のはけ口だったり……。それは手に入ったかね?

俺:  入ったものもあったけれど、手に入ったと思ったら、思っていたのと違っていてがっかりしたり、絶望したり、怒ったり……。
婆さま:それが、最初の60年の人生で手に入れた「土台」じゃな。60からの人生は、その土台に種を蒔き、耕す人生なんじゃ。どんなにいい土台があっても、土台は土台にすぎん。放っておけば干からびるだけじゃな。

俺:  なるほど。少し宗教……というより、人生訓みたいになってきましたね。
で、その調子で69歳までいくと、6かける9で54歳。まだ15歳若いけれど、だいぶ近づいてきましたね。
で、70歳になると、今度は7かける0で、また0歳に戻るんですか?
婆さま:そこから先は、あんたが運よくその歳まで生きられたら、自分で答えを探すことじゃな。ただで教えられるのはここまでじゃ。

俺:  え~? なんかちょっと……。まあ、いいや。ここまでの話でも十分面白かったから。
じゃあ、お布施代わりにお茶でも出しましょうか。待っててください。

俺はそう言って「用務員室」に戻り、湯を沸かし、茶を入れた。
あいにく、お茶菓子代わりになりそうなものはなかったので、茶わんと急須を乗せた盆を持って校庭のベンチに戻ると、婆さまの姿はもうなかった。
かけ足教の教祖はかけ足で消えてしまったのだろうか。

その後しばらく、村の人に会うたびに、汚れた白衣を着た婆さまのことを訊いてみたが、誰一人、そんな婆さまを見た者はいなかった。

こんなご時世ですが、残りの人生、やれる限り何か意味のあることを残したいと思って執筆・創作活動を続けています。応援していただければこの上ない喜びです。