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明治新政府要人醜聞事件の裏に見え隠れするロスチャイルドの影

「馬鹿が作った明治」として続編開始

イシ: さて、しばらくお休みしていたけれど、なかなか気力が戻らなくてねえ……。
でも、そろそろ続編に入らないと、「馬鹿が作った日本史」シリーズが進まないからね。老体にむち打って続けるとしようか。

凡太: はい。ぼくは続きを待ってましたよ。頑張りましょう。

イシ: そう言ってくれるのは君だけだよ。ほんじゃまあ、明治政府なるものができてからのことからだね。

凡太: はい。

イシ: 明治元年というのは慶応4(1868)年のことで、この年の9月8日(1868年10月23日)に明治に改元して、その前も元日まで遡って明治という元号を適用すると宣言した。
 でもまだこの時点で戊辰戦争は終結していなかった。

凡太: 確か、榎本武揚が軍艦を奪って品川を出たのが9月16日ですよね。

イシ: そう。そして、庄内藩が降伏したのがその1週間後の9月23日(1868年11月7日)。東北では終結したけれど、まだ北海道では榎本たちが独立国建設を目指していた。

慶応4(1868)年(明治元年)

  • 8月21日(1868年10月6日) 西軍が会津領内に侵攻

  • 8月27日(1868年10月12日) 天皇即位式

  • 9月8日(1868年10月23日)  明治に改元し、同年1月1日に遡って新元号・明治を適用。一世一元を制定

  • 9月16日(1868年10月31日) 榎本武揚ら、開陽丸など旧幕府艦隊を率いて北へ向かう。ジュール・ブリュネらフランス軍事顧問団の一部も同行

  • 9月20日(1868年11月4日) 明治天皇、東京に向けて京都を出発

  • 9月22日(1868年11月6日) 板垣退助率いる西軍が会津藩に勝利

  • 9月23日(1868年11月7日) 会津藩が敗れたと知り、最後まで残っていた庄内藩が降伏。奥羽越列藩同盟が消滅

  • 10月1日(1868年11月14日) 旧幕府軍残党が水戸に侵攻するも敗退(弘道館戦争)

  • 10月6日(1868年11月19日) 水戸から転戦した旧幕府軍残党が全滅(松山戦争)。本州における地上戦が終結

  • 10月13日(1868年11月26日) 明治天皇、江戸城に到着。「東京城」と改称

  • 10月22日(1868年12月5日) 榎本軍、箱館府軍と交戦(箱館戦争)。11月22日までに蝦夷地をほぼ支配下に治める

  • 11月15日(1868年12月28日) 開陽丸が座礁・沈没

  • 12月15日(1869年1月27日) 蝦夷共和国成立宣言

  • 12月28日(1869年2月9日) 諸外国が局外中立を解除し、明治政府を日本の唯一の正統政府と認める


凡太: 明治元年の時点では、まだ新政府体制が盤石になったとはいえないですね。

イシ: そうだね。薩長を中心とした武力倒幕軍団が旧幕府勢力を一掃することに躍起になっていた段階だね。
 明治2(1869)年5月の戊辰戦争完全終結時点で、薩長を中心とした西軍勢力と旧幕臣や開国派の有力者たちの生死をまとめてみようか。攘夷テロ勢力出身者は「元勲」と呼ばれている人を中心に拾って、出身と明治2(1869)年5月時点での年齢を併記している。ちなみに明治天皇はこの時点でまだ16歳だ。

 ◆攘夷テロ論者・西軍勢力

死亡:(年齢は没年の満年齢)

  • 藤田東湖(1806-1855 49歳) 安政の大地震で圧死

  • 吉田松陰(1830-1859 29歳) 老中暗殺計画を自白し、死罪

  • 徳川斉昭(1800-1860 60歳) 蟄居処分中に急死

  • 真木和泉(1813-1864 51歳) 禁門の変で敗れて自害

  • 久坂玄瑞(1840-1864 24歳) 禁門の変で敗れて自害

  • 高杉晋作(1839-1867 27歳) 明治新政府誕生を見る前に病没


生存:
長州出身:

  • 大村益次郎(43歳) 

  • 木戸孝允(35歳)

  • 品川弥二郎(35歳) 

  • 井上馨(33歳)

  • 山縣有朋(30歳) 

  • 伊藤博文(27歳) 

  • 桂太郎(21歳)


薩摩出身:

  • 西郷隆盛(41歳)

  • 大久保利通(38歳)

  • 小松帯刀(33歳)

  • 松方正義(34歳)

  • 黒田清隆(28歳)

  • 大山 巌(26歳)

  • 西郷従道(25歳)


公家出身:

  • 岩倉具視(43歳)

  • 三条実美(32歳)

  • 西園寺公望(19歳)


土佐出身:

  • 福岡孝弟(34歳)

  • 板垣退助(32歳)

  • 後藤象二郎(31歳)


肥前出身:

  • 副島種臣(40歳)

  • 江藤新平(35歳)

  • 大隈重信(31歳)


凡太: 明治政府を作った人たちはみんな若かったんですね。

イシ: 攘夷だの天誅だのと叫んで平気で人を殺していた連中も多く含まれているね。初代総理大臣になった伊藤博文は実際に英国大使館焼き討ちや国学者・塙次郎暗殺の実行犯だし。
 西郷隆盛の悪行についてはすでに説明してきたとおりで、私は西郷の名前を見るだけで何とも言えない陰鬱な気分になるよ。

凡太: 攘夷の無謀さを知っていて、開国による新体制を目指していた人たちは、ほとんどが明治を迎える前に死んでしまいましたよね。

イシ: そうだね。ここでもう一度名前を挙げておこう。年齢は死亡時の満年齢だ。

 ◆開国派
死亡:

  • 阿部正弘(1819-1857 36歳) ペリー来航時の老中首座。幅広い人材登用。急死

  • 島津斉彬(1809-1858 49歳) 薩摩藩主。毒殺説も

  • 井伊直弼(1815-1860 44歳) 大老。桜田門外で暗殺される

  • 岩瀬忠震(1818-1861 42歳) 幕臣。ハリスやプチャーチンと折衝。病死

  • 長井雅楽(1819-1863 43歳) 長州藩。藩内に公武合体を説くも、切腹させられる

  • 堀田正睦(1810-1864 53歳) 老中首座。蟄居処分中に死去

  • 赤松小三郎(1831-1867 36歳) 上田藩士。藩の区別なく、語学や兵学を教えるも、薩摩藩の生徒によって斬殺される

  • 川路聖謨(1801-1868 66歳) 幕臣。外交手腕を発揮。江戸城引き渡しを見届けて自殺

  • 水野忠徳(1810-1868 58歳?) 幕臣。海軍設立や金融政策に手腕。鳥羽伏見の戦いで逃げ帰った慶喜に抗議し、憤死

  • 小栗忠順(1827-1868 41歳) 幕臣。広い見聞と叡智で外交などに活躍。戊申クーデターの際に職を辞していたにも関わらず無実の罪を着せられ斬首

  • 横井小楠(1809-1869 59歳) 熊本藩士。松平春嶽に請われて政治顧問になるも、明治新政府誕生と同時に暗殺される


凡太: ほとんどが40代以上で人生の経験をしっかり積んだ熟年期に、無念の死に追い込まれたんですね。

イシ: この人たちの半分でも生き残って、活躍の道があったなら、明治政府は「大人の政府」として誕生していたかもしれない。残念だね。

 ゴシップ記事から見えてくる明治政府の主役たちの素顔

凡太: 明治政府ってそんなにひどい政府だったんですか?

イシ: 不良暴走族が江戸に乗り込んできて、そのまま子供の政治を始めてしまったようなものだからね。目もあてられないよ。
 政策がどうのこうの以前に、まず品性がひどい。いきや相互扶助を美徳とする江戸人たちからは、長州はおはぎ、薩摩はおいもと呼ばれて、心底バカにされた。

凡太: おはぎもおいもも美味しそうですけどね。品性がひどいっていうのは、具体的にはどんなことですか?

イシ: 暴力性は言うに及ばないけれど、性道徳の乱れも無視できないね。
 薩摩は「薩摩趣味」「衆道」とも呼ばれた男色。長州は度を超した買春と女漁りで、江戸人たちにドン引きされた。
 江戸人も酒盛りや遊郭での遊びなんかはするけれど、遊び方はスマートにしなくちゃいけないという美学がある。薩長のやり方は許容範囲を超えていたんだね。

凡太: 男色……今はLGPTなんて言われて、同性愛も許容されてますけれど。

イシ: まあ、そうだね。男色そのものは戦国時代の武将たちの間でも普通にあったし、薩摩の特許というわけでもないんだけれど、江戸末期あたりになると全国的にはマイナーなものになっていた。そこに薩摩の進出と一緒に男色趣味が持ち込まれて、男同士の色恋のもつれで暴力沙汰や殺人まで起きるようになると、さすがに「何やってるんだ」と気味悪がられる。薩摩の男たちにとっては、男色は男らしさの一面で、現代風のボーイズラブみたいな風潮とはかなり違う。泥臭いというか、力尽くというか、それによって少年や立場の弱いものが暴力的に支配されるような面があった。
 他にも江戸人のセンスからはドン引きされるような所業がいろいろあったようだね。
 西郷隆盛の逸話の一つに、酒の席で場を盛り上げようとして、いきなり自分のイチモツを出して、陰毛を火で焼いたとか、そういう類の話はいっぱい残っているんだよね。
 西郷のいとこにあたる大山巌は、最初の妻に先立たれた後、後妻候補を捜していたとき、日本初の女子留学生となった山川捨松に一目惚れした。そこで、西郷隆盛の弟・従道を仲介役として結婚を申し込むんだけれど、山川家は会津の家老だった名家。西軍が会津に攻め入ったときの砲兵隊長が大山だった。捨松の次兄・浩はそれで妻を失っている。つまり、家族と故郷を潰した宿敵に妹が求婚されたわけで、当然、捨松の兄二人は首を縦に振らない。
 そこで、仲介役を買って出た西郷従道は、場を和ませようと裸踊りを披露して、かえって厳格な山川兄弟の不興を買った、なんていう話もある。

凡太: それはそれで、なんか落語みたいでウケます。

大山捨松(1860-1919)  
会津藩家老・山川尚江重固の末娘。戊辰戦争で会津城が攻められたときは7歳だった。降伏後、斗南藩に改易になった後は、函館に里子に出され、さらにはフランス人家庭やアメリカ人宣教使の下で育った。その後、政府が募集した10年間の官費留学に応募して渡米。全寮制の女子大学であるヴァッサー大学で学び、学年3番目の成績で卒業。明治15年(1882年)11月に帰国。後妻を求めていた大山巌に熱烈に求婚され受諾。大山夫人としてボランティア活動や女子教育の普及の場で活躍した。

 女狂いの帝王・伊藤博文

イシ: 結局、捨松は大山とは相性がよかったようで、結婚し、概ね幸せな人生を送ったみたいなんでよかったんだけれど、そうじゃないケースがいっぱいあるんだよ。
 女性をモノとしか見ないような傾向は長州出身者に多かった。遊女などに対しても暴力的だったり、プロの女性だけでなく、見境なく女性に手を出すとかね。
 女狂いの度が過ぎていたことで有名なのはなんと言っても伊藤博文だね。
 伊藤は2度結婚している。最初の妻は松下村塾の先輩・入江九一の妹・すみ子。イギリス密航の時期と重なるんだけれど、帰国後、自分が藩内の攘夷派から命を狙われていると察知し、下関の亀山八幡宮に隠伏する。ところがそこで当時まだ満15歳の芸者・お梅を見初めてしまい、妊娠させてしまった。それが原因ですみ子とは離婚し、お梅を「梅子」として後妻にした。

凡太: 命を狙われているから潜伏したのに、そこでまた10代の芸者と……ですかぁ。

イシ: すごいよね。とにかく自分好みの女を見ると、場所も状況もわきまえずに速攻で関係を持つ。
 明治元(1868)年、伊藤はまず兵庫県令(知事)に就任するんだけれど、そこでさっそく関係を持ったのが福原遊郭の料理屋の娘・お仲。結婚して間もない梅子に知られ、梅子は井上馨に頼んで、お仲を巡査と結婚させることでようやく縁を切らせた。

伊藤梅子(1848-1924)
 下関稲荷町の置屋の養女。1868年、芸者「小梅」として働いている15歳のときに英国密留学から急遽帰国した伊藤博文と出会い、すぐに長女(0歳で没)、次女生子(1868年9月19日-1934年1月2日)を立て続けに出産。伊藤は最初の妻と離縁。梅子が後妻となり、その後、養子数名も育てた。夫・伊藤の女癖の悪さには文句一つ言わず、文学や英語を学び「婦徳の鑑」などと称された。1924年75歳で没。

 女の口説き方も常軌を逸していた。明治20(1887)年には、当時首相だった伊藤博文が官邸で開催した仮装舞踏会に夫と一緒に出席していた岩倉具視の三女・戸田極子きわこを連れ出して無理矢理関係を迫った、というトンデモな事件も起こし、新聞で報道された。
 報道では、驚いた戸田夫人が裸足のまま窓から飛び出して、人力車に乗って逃げたとか、窓から抜け出して裏庭で事におよんだとか、馬車の中で関係を持ったとか、いろいろ書かれている。

戸田極子(1858-1936)
岩倉具視の三女。戸田氏共うじたか伯爵夫人。明治4(1871)年に美濃国大垣藩知事・戸田氏共と結婚。「鹿鳴館の華」と呼ばれた一人。

 首相になっていた明治27(1894)年には、日清戦争が起きて、広島に大本営が置かれ、伊藤も広島入りしたんだが、そこでも芸者遊びにハマり、翌年の下関で講和会議の交渉中、清国側の代表・李鴻章が狙撃される事件の一報を聞いたときにも芸者と一緒だった。
 伊藤は芸者遊びに莫大な金を注ぎ込んでしまい、ついには家を手放すという事態にまでなった。総理大臣が宿無しでは困るということで、首相官邸ができた、なんていう話もある。
 女に金を注ぎ込んで家まで失いかけた伊藤を見かねた明治天皇が10万円を渡している。当時の公務員の初任給が8円前後だったそうだから、今なら20億円くらいかな。
 その際、天皇は伊藤に、女遊びもほどほどにしてくださいと苦言を呈しているんだが、伊藤は平然と、「世の中にはこっそり愛人や妾を囲う者がいますが、私は国が認めている芸者というプロを呼んで遊んでいるのだから、やましいことはないのです」なんて言い訳したらしい。

凡太: 素人はダメだけれどプロならいい、と?

イシ: いやいや、それは大嘘でね。伊藤は不倫や少女買春もどきみたいなこともやっている。
 有名なのは下田歌子との不倫や、三姉妹妾事件かな。
 下田歌子はイギリスに留学後、欧米の教育現場を視察し、帰国後に帝国婦人協会を設立。女子教育の普及に専心して、実践女子学園などの設立にも関わった教育者なんだけれど、伊藤の妻・梅子に和歌を指導したり、伊藤に学校の設立を相談しているうちに親しくなって不倫関係になった。

下田歌子(1854-1936)
美濃国岩村藩士の平尾家に生まれる。10代で女官に抜擢され宮中へ出仕、皇后(後の昭憲皇太后)より歌子の名を賜る。 25歳で結婚し宮中出仕を辞し、病気の夫の看病をしながら、自宅で女子のための私塾「桃夭とうよう女塾」を開講。 明治26(1893)年、皇女教育のため欧米教育視察を命じられ渡英。帰国後は帝国婦人協会設立、実践女学校(後の実践女子大学)の創設に関わり、校長就任など活躍する一方で、「平民新聞」などの紙上では、伊藤博文、乃木希典、山県有朋、大隈重信、井上毅、さらには明治天皇をも相手にしたゴシップ記事を賑わせるなど「政界の妖婦」などと呼ばれる一面も。昭和11(1936)年、自宅にて病死。没年満82歳。

 三姉妹妾事件というのは、『萬朝報よろずちょうほう』という日刊紙が報じた記事。
 萬朝報は、権力者たちがいかに不道徳な日常を送っているかを暴く「蓄妾実例」というシリーズが話題を呼んでいたんだけれど、そこに「大勲位侯爵伊藤博文の猟色」と題して報じられた記事によれば、伊藤は、自宅に出入りしていた大工の長女を妾にして、麻布の豪邸を与えた。新聞にその妾の名前と豪邸の住所が載ったために、長女は鬱になり、間もなく病死してしまった。
 すると伊藤は、その妹(大工の次女)を妾にした。しかし、この次女も19歳で急逝。さらに当時16歳だった三女を妾にしようとしたんだが、さすがに父親が拒否した。
 そこで伊藤は父親に多額の金品を与えて懐柔した。このとき伊藤はすでに還暦間近だった。

凡太: 今なら、文春砲あたりが暴けば一発でアウトですね。

イシ: 時代が違うといっても、やってることが極端すぎるよね。
 とにかく、掃いて捨てるほど女がいたということで「ほうき」というあだ名もつけられている。自分で「1000人の女と性交した」と豪語しているくらいで、1000人はあながち誇張でもないみたいだね。典型的なセックス依存症なんだろう。

 渋沢栄一の女性遍歴も異様

イシ: 伊藤が女狂いの横綱だとすれば、大関クラスは井上馨や渋沢栄一だろう。

凡太: 井上馨は伊藤博文と一緒に英国大使館やジャーディン・マセソン商会の斡旋で、イギリスに密航した長州ファイブのメンバーですね。

イシ: そうそう。あのときも彼らはロンドンのソーホー街やホワイト・チャペルといった色町に入り浸って女遊びを繰り返し、潤沢にもらっていた資金を使い果たしてしまうという有様だった。
 井上は常に伊藤と行動を共にしていて、一緒に遊んでいた。長州ファイブとして英国に密航したとき、伊藤は色街通いが度が過ぎると咎められ、帰国させられそうになったんだが、そのときも、うまく取りなして弁護していたのが井上だ。

 渋沢は長州ではないけれど、伊藤、井上と仲がよくて、二人を通じて出世していった。渋沢もまた、女癖の悪さでは度を超している。
 渋沢が若いときに高崎城乗っ取りなどの攘夷テロ計画に燃えていたことはすでに触れたね。親はそんな息子を落ち着かせようと、まだ18歳のときに年下の従妹・千代と結婚させた。すぐに子供も生まれたが、テロ計画が頓挫したため、栄一は妻子を置いて京都を目指した。
 その際、父親は「正しいことに使うように」と100両もの餞別を渡したんだけれど、なんと渋沢はその100両を京都に着くまでにすべて酒と女に使い果たしてしまった。
 京都に着いた後も女遊びに明け暮れ、新撰組と女を取り合ったなんて話も残っている。
 徳川昭武のパリ万博行きに随行したときも、現地のフランス女性といろいろやらかしている。その中の一人に、帰国する際に「俺は公務で来たので、今、君を連れて帰るわけにはいかない。後から追いかけてきてくれ」なんて言って「馬鹿じゃないの?」と断られた、なんて話もある。
 大蔵省の造幣局に出仕して大阪に行くと、早速「くに」という現地妻を作り、子も生ませた。その後、東京に新居を構えると、大阪現地妻と子を連れて戻り、新居に本妻・千代と同居させた。
明治15年(1882年)に本妻・千代が病死すると、大阪から連れてきたくにがいたにも関わらず、伊藤兼子という女性と再婚。 兼子はすでに男児を懐妊、夭逝させた直後で、さらに別の子を妊娠していた。
 他にも別宅に妾を複数作り、渋沢には正確には何人の子がいたかは「分からない」とされている。
 本人は、自分が女癖の悪いのは伊藤博文や井上馨の影響だ、などと言っている。

 醜聞事件の裏に見え隠れするロスチャイルドの影

凡太: なんだか明治編が始まったばかりなのに、週刊誌のゴシップ記事特集みたいになってませんか?

イシ: そうか? まずいな、それは。
 でも、私が敢えて最初にこんな話を持ち出したのには訳がある。それは明治政府を作っていく主役たちが女狂いだったことも、イギリス、というよりは世界的な巨大資本家の手中に取り込まれていたことの証なんじゃないかと感じるからだ。

凡太: え? どういうことですか?

イシ: 伊藤博文や井上馨が密出国で渡ったイギリスの色街で娼婦を漁っていたとか、渋沢栄一が幕命で随行したパリで女の尻を追いかけていたとか、普通なら考えられないことだろ? その金はどこから出ていたのか、自分たちだけの力で現地の女性を買えたのか。

凡太: 現地のコーディネーターがいたということですか?

イシ: そう考えるのが普通じゃないか? 言葉も通じない異国に渡って、いきなり女を追いかけ回すって、ありえないと思うよ。
 長州ファイブの伊藤、井上らのイギリス渡航は、日本の英国公使館やグラバーが手引きをしている。イギリスに渡ってからの世話役はジャーディン・マセソン商会のヒュー・マッケイ・マセソンで、マセソン商会の後ろにはロスチャイルドがいる。
 ジャーディン・マセソン商会が創業したのは1832年だが、その6年後の1838(天保9)年には、ロスチャイルド家とエージェント契約を交わしている。要するに、ジャーディン・マセソンがロスチャイルドのためにアジアの市場調査のアンテナ役となりますよ、という契約だ(2005年英国ファイナンシャルタイムズの記事による)。
 この頃のロスチャイルド家は、ロンドンのロスチャイルド家がリーダー格で、パリのロスチャイルド家と連携をとって世界経済をリードしていた。その手法は、銀行を支配すること
 極端な話、通貨を発行できる中央銀行を抑えてしまえば、金はいくらでも産み出せる。中央銀行による経済的支配は国(政府)の支配より強い経済による支配は国境を越える。そのためには、資本家同士を結びつける陰の団体的な倶楽部組織も必要になる。ロスチャイルド家はこの頃はすでにそうした手法を完全に我が物にしていた。

 長州ファイブにしても、幕府の欧州派遣団に加わって渡欧した渋沢栄一にしても、もちろんあちらで女の尻ばかり追いかけていたわけじゃない。近代産業や経済の仕組みというものをそれなりに学んだ。特に渋沢はその分野での理解力が抜群だったんだね。
 日本を利用してもっと富を奪いたいと思う国際資本家にとって、渋沢のような人物は陰のエージェントとしてうってつけだった
 実際、明治以降の日本の政界、経済界の作られ方を見れば、欧米の意向通りになっていったことが分かる。
 それを実現していった者たちがことごとく女癖が悪かったというのも、なんとも興味深いというか……。
 まぁ、渋沢たちが政界や経済界でやったことを見ていくのは、また回を改めて、ということにしようか。

凡太: はい。そっちのほうが本論だと思います。


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