見出し画像

アヘン戦争ショック

イシコフ:  日本が鎖国していた江戸時代の間に世界はどうなっていったかを大まかに把握したところで、いよいよ戊申クーデターに至るまでのことを確認していこうか。

凡太: 戊申クーデター……センセは明治維新という言葉は使わないんですね。

イシ: うん。あの名称は嫌いなんだ。明治新政府以降の政府が庶民を洗脳するために作りだしたものだからね。実態は薩摩・長州を中心とした勢力がイギリスの援助を得て起こしたクーデターだよね。
 まあ、そのへんはおいおい説明するとして、まずはそこに至るまでの出来事を見ていこう。

 鎖国と呼ばれている期間も、長崎では中国やオランダなどとの商取引は行われていた。他にも対馬では朝鮮と、薩摩では琉球と、松前ではツングース系のウリチ族を通した清朝中国との交易があった。密輸もあったから、対外貿易がなかったわけじゃない。
 ヨーロッパで唯一貿易の相手として認められていたオランダがフランスに占領されていた時期には、アメリカの商船がオランダ国旗を掲げて長崎・出島に出入りしたり、1808年には、イギリスの軍艦がオランダの旗を立てて長崎に侵入するというフェートン号事件なんてのもあった。
 そんなこともあって、文政8(1825)年に徳川は改めて異国船打払令を出して、鎖国体制を強化した。
 天保8(1837)年にはアメリカの商船が日本の漂流民7人を届けるために浦賀にやってきたんだけど、日本がイギリスの軍艦だと思って大砲を撃って追い払ってしまうというモリソン号事件が起きている。
 実はこのモリソン号こそ、日本との通商を求めてやってきた最初のアメリカ船だったんだ。ペリーの黒船来航の16年前だね。
 このあたりから、徳川政権の中だけでなく、諸藩でも、通商を求めてやってくる外国船に対してどのように応じるべきかの議論が活発になっていく
 断固拒否すべしという強硬論が優勢だったんだけど、その背景には、清国がイギリスによってボロボロにされたことが伝わってきたことが大きい。1842年には南京条約が締結され、あの大国・清が領土の一部を奪われ、賠償金まで払わされたという現実は、日本にとっては大ショックだっただろうね。

凡太: アヘン戦争ですね?

イシ: そう。これは国家間の領土争いという戦争ではなく、ビジネスによる利益追求のためには手段を選ばずという戦争だった。19世紀以降の戦争のほとんどはそのタイプだね。

 中国(清)とイギリスの貿易は18世紀半ばくらいから始まっていたんだけど、この貿易収支はイギリスの赤字だった。
 イギリスは中国からお茶や陶磁器などを輸入して、金持ちたちがきれいなティーカップで紅茶に砂糖を入れて飲んでいたわけだけど、中国側ではイギリス産の綿布なんかはあまりいらない。
 そこでイギリスは、植民地化していたインドで栽培したアヘンを中国に密輸して儲けることにした。イギリス、インド、中国の三角貿易だね。

凡太: 三角貿易?

イシ:  二国間の貿易だと、一方が輸入する金額が多い場合、時間と共にどんどんその差は大きくなってしまう。そこで、もう一つの国・地域を挟むことでうまく回していこう、という、イギリスが得意としたシステム。
 古くはイギリス(を中心とした西ヨーロッパ)、西アフリカ(主にイギリスの植民地)、アメリカ大陸(イギリスが植民地を増やしていく)という3地域での三角貿易がある。
 これは、イギリスがアフリカに武器を売る。アフリカは内戦が多かったからヨーロッパ製の高性能な武器を買う。その支払いのために捕虜や拉致した人間を奴隷として輸出する(黒い荷物)。その奴隷はアメリカ大陸に運ばれて、大規模農場で働かせられる。その農場で作られた綿花、砂糖、タバコ、コーヒーといった農産物(白い荷物)がヨーロッパに渡る……という三角形。

 江戸時代の日本でも三角貿易はあった。長崎の平戸藩は長崎に出島が作られる前から密輸をしていたんだけど、日本の密輸船(倭寇と呼ばれた)に同乗したポルトガル人が日本に鉄砲を売り、その代金として得た銀で中国の生糸を買ってヨーロッパに持ち帰って売った。このポルトガル~日本~中国という三角貿易は、徳川が長崎に出島を作ってカトリック国を警戒した後にはオランダ東インド会社に引き継がれた。

 19世紀になって、イギリスと中国の貿易不均衡(イギリスの輸入超過)ができると、イギリスはインドの植民地で作ったアヘンを中国に売ることで三角貿易を始めた
 清朝中国はアヘンの輸入を禁止していたんだけど、密輸によって運び込まれたアヘンで中国人はアヘン中毒者が急増して、いった。アヘン購入の支払いで中国の銀もどんどん外へ出ていく。
 このアヘンの密輸に深く関わっていた黒幕がデイビッド・サスーンというユダヤ人商人。イラク南部を拠点にしていたんだけど、アヘンでボロ儲けして、イギリス国籍を取得している。
 それとジャーディン=マセソン商会。広州でスコットランド人のウィリアム・ジャーディンとジェームズ・マセソンが設立したイギリスの貿易商社。ジャーディンはイギリス東インド会社の外科医だったんだけど、アヘン貿易が儲かると分かって貿易商に転身したという人物。後に横浜にも支社を出して、1863年、長州藩が井上聞多、伊藤博文ら5人をロンドンに留学させたときの資金を出したり、坂本竜馬にも金を出して武器購入させる一方で幕府側にも大砲を売っていたという典型的な武器商人。戊辰クーデターにも深く関係していくので覚えておこう。

凡太: 麻薬と武器で大儲け。暴力団ですね。

イシ: そうだねえ。金儲けのためには何でもやる。異国の人間はその道具でしかないし、どうなっても関係ない、という連中だね。仁義も何もないから、暴力団よりタチが悪い。
 もちろん清国もこの事態を黙って見ているわけにはいかない。林則徐という清廉で優秀な人物を特命大臣にして厳しく取り締まらせた。

林則徐(Wikiより)

 1839年、当時の貿易拠点だった広東に乗り込んだ林は、広州の外国商人たちに「今後、一切アヘンを清国国内に持ち込まない」という誓約書を書かせた上で、所有しているアヘンを全部出すように命じる。イギリス以外の外国商人は特にアヘンに頼っていたわけではないので概ね従ったんだけれど、イギリス商人と貿易監督官チャールズ・エリオットは完全無視。そこで林はイギリス商館を官兵で取り囲んで大量のアヘンの没収し、処分した。

アヘンを処分する林則徐(Wikiより)

 所持していたアヘンを取り上げられたエリオットらは一旦マカオに退去したが、誓約書の署名は断固拒否。その後、イギリスが艦隊を中国に派遣していわゆるアヘン戦争が勃発する。
 イギリスの艦隊は林が待ち構えていた広州ではなく、首都の北京に近い天津沖へやって来たため、清の道光帝がビビってしまい、あろうことか林を辺境の地、新疆イリへ更迭してしまった。
 その後の清国はもうやられっぱなしで、香港は取られてしまうわ、賠償金は払わされるわ、アヘンも結局野放しのままになってしまうわで、落ちるところまで落ちていく感じだね。

 ここで私たちが学ぶべきことの一つは、優秀な官僚や指揮官がいても、その上にいる権力者がダメだとどうしようもないということかな。
 林則徐という稀にみる優秀な人材を切り捨てていなければ、事態はもう少し違う展開になっていたかもしれない。
 林は新疆イリに左遷されてからも、現地で農地改革を行って住民のための政治をして尊敬されている。
 死ぬ前には「将来、清の最大の脅威となるのはイギリスよりもむしろロシアだろう」と言い残し、実際にイリは1871年7月にロシアに占領されている。優秀な人材をさっさと切り捨ててしまった道光帝やその周辺の高官たちの無能さが国をますます窮地に追い込んでいったといえるだろうね。
 同じようなことは幕末の徳川政権内でもあったし、明治新政府内でも昭和になってからの太平洋戦争の時期にもあった。優秀な人材が上に立てず、殺されたり左遷されたりすることで国民全体がひどい目に合う。そうした理不尽さは現代でも続いている。

凡太: 今はもう、優秀な人ほど政治に関わりたくないと考えるようになっていると思います。あんな人たちの中に入ってドロドロの人生を送るなんて冗談じゃない、って。

イシ: そうだねえ。そうしてますます政治家のレベルが下がって、腐敗が進む。その先には全国民の破滅が待っているんだから、なんとかしないといけないんだけどね。


『新釈・クレムナの予言 タラビッチが見た2025年』
最後はプーチンやヌーランドも登場する? 19世紀から現代人へのメッセージ
Amazonで見てみる⇒こちらから
Kindle版は⇒こちら

ここから先は

0字
歴史の見直しは気が遠くなるような作業です。マガジン購入者が一人でも二人でもいらっしゃれば、執筆の励みになります。

現代人、特に若い人たちと一緒に日本人の歴史を学び直したい。学校で教えられた歴史はどこが間違っていて、何を隠しているのか? 現代日本が抱える…

こんなご時世ですが、残りの人生、やれる限り何か意味のあることを残したいと思って執筆・創作活動を続けています。応援していただければこの上ない喜びです。