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養老牛の思い出

養老牛、その意味ありげな地名は、われわれを惹きつけてやまなかった。

北海道を移動すること車で4日、われわれの間に対話はもうなかった。
いまやわれわれの娯楽といえば、オランダせんべい(見た目は小さなマンホールで、その歯ごたえは子どものころ抜歯後に噛まされた脱脂綿を思い出させる)で自分の歯の頑健さを試すことか、通り過ぎる橋々の名前を読み上げることに限られていた。

この日のスケジュールは、午前中に秘境とよばれる青い小さな池と、有名な湖の人知れぬ展望台をめぐり、午後、300キロ先のコテージへ向かうというものだったが、前半の目的は2度の交通規制(道路陥没と路面凍結)によって果たされず、度重なる迂回で380キロ先となったコテージまでの道のりを堪能する旅程へと切り替わった。

オランダせんべい2袋を食べきり、実橋みのりばしのあとに稔橋みのりばしがあったことについて2、3の考察が交わされ、再び長い沈黙が続いたのち、われわれは養老牛という地名に出会った。

養老牛、その意味ありげな地名は、われわれを惹きつけてやまなかった。
養老、牛。すぐさま、あの養老の滝伝説の類型としての「養老の牛」伝説——孝行息子と神秘の牛についてのストーリーがでっち上げられた。それは次のような話となった:

昔々あるところに、ひとりの牛飼いがおりました。牛飼いは年老いた父と二人暮らしで、父を養うために毎日一生懸命働きました。

牛飼いの父は何よりもお酒が大好きでした。しかしお酒は高価でなかなか手に入りません。やっとの思いでお酒が買えるだけのお金が手に入ると、牛飼いは父の喜ぶ顔を想像しながら、お酒を手に家路を急ぐのでした。

そんなある日、牛飼いが乳をしぼると、なんと甘く香ばしい香りの酒が流れ出てきました。驚いた牛飼いは、バケツいっぱいにお酒を汲むと、大喜びで家に持ち帰りました。

「これはお前の親孝行をかみさまが知って、お与えになったんじゃ」父は息子の孝行に感謝し、その酒を楽しみました。それからというもの、息子は毎日この特別な酒を父に供え、父もまた毎晩その酒を楽しみ、二人は末長く幸せに暮らしたそうな。

この話が村中に広まり、やがて人々はその村を「養老牛」と呼ぶようになりました。それは孝行息子の愛と、牛からの奇跡的な恵みを記念する名前として、今もなお語り継がれています。

——「名産品として、養老牛の酒があるべきじゃない?」われわれの片方がそう言った。そこで次のような後日談が続けざまに語られた:

牛飼いの孝行と牛の奇跡から生まれた甘く香ばしい酒は、村中で評判となりました。人々はその酒をどうにか再現しようと試み、7年の歳月が経過しました。そして7年目のある日、ついにその酒を再現することに成功しました。

この新たな飲み物は、「カルーアミルク」と名付けられ、孝行息子とその牛の物語を称えて、特別なラベルがつけられました。そのラベルには、孝行息子が愛情を注ぐ牛の絵とともに、「養老牛の奇跡」という言葉が刻まれ、その起源の物語が語られています。

……養老牛がもたらしたこの豊穣な物語を味わい尽くすと、われわれはまた元の沈黙に戻った。それはよい沈黙だった。われわれの頭上を、思い思いの孝行息子や奇跡の牛、そして特産品開発に精を出す村民のイメージが去来した。

ところで、養老牛の本当の地名の由来とは。運転を交代し、われわれのうち車酔いしない方が助手席に位置を占めたとき、真実はネットの英知を読み上げる形でわれわれの間にもたらされた——「アイヌ語の「エ・オㇿ・ウㇱ」(頭=山鼻がいつも水についているもの)、または「イ・オㇿ・ウㇱ」(それをいつも水に漬けているもの)が由来とされている。」(Wikipedia「養老牛温泉」より)

「実際の由来の方が、意味が分からないことってあるんだね」われわれはまた無言になる。

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