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コーチ物語 クライアント17「届け、この想い」その8

 翌日。羽賀さんに自転車のトレーニングにつきあってもらうことに。これはボクの方からお願いをした。幸い羽賀さんはこの日個人クライアントとのコーチングが午前中に入っているだけだったので、喜んでボクのお願いを聞き入れてくれた。
 実は事前にちゃんとミクから羽賀さんのスケジュールを聞いて、この日に作戦決行することにしていた。
「さ、さすが羽賀さんですね……はぁ、はぁ、はぁ」
 今回トレーニングに使ったのは、この辺りでは有名な山岳コース。延々と続く四キロの上り坂が自転車乗りの体力を否応なしに奪っていく。このコースではヒルクライムのレースが行われるほど有名。逆を言えば、下り坂はかなりの快感ものである。
 頂上に到着しても、羽賀さんは息を切らしていない。平然とした顔つきでドリンクを口にしている。どうやらボクのペースに合わせて登ってくれたようだ。
「トシくんはヒルクライムが苦手だって言ってたよね」
「えぇ。でも下りには自信があるんです。スピードを出して抜き去っていく、それが快感で」
「そうかぁ。ボクは逆に下りはそんなに得意ってほどじゃなくてね。MTBのときもダウンヒルはそんなに早くなかったんだよなぁ」
 そんな会話を交わして休憩終了。これからいよいよ下りに入る。そしていよいよ作戦決行の時だ。
「じゃぁ下りましょうか」
 ボクはそう言うやいなや、羽賀さんより先に坂を下り始めた。この作戦は羽賀さんよりも先に行動を起こさなければ意味はない。
 途中、曲がりくねったワインディングが続く。山道で車は滅多に通らないが、さすがに気を使って下らなければ危険な箇所はいくつもある。それはもちろん承知。その上で、ボクは羽賀さんを引き離すことに意識を集中して突っ走る。
「トシくん、待ってくれよぉ」
 羽賀さんのその声も聞こえなくなるほど、ボクは羽賀さんを大きく引き離すことができた。そしてもうすぐふもとに着くとき、作戦は決行された。
「イテッ!」
 大きな声で、叫ぶボク。しかし周りには誰もいない。だが、ほどなくして羽賀さんが登場。
「トシくん、おい、トシくん、どうした。転倒したのかっ!」
 慌ててボクに駆け寄る羽賀さん。自転車は側道に横たわり、ウェアとパンツは砂でまみれている。そしてボクは左足首を抱えてうめく。
「いたっ、いたっ、いたたたっ」
「トシくん、大丈夫か? 今救急車を呼ぶから」
 羽賀さんはあわてて携帯電話を取り出す。が、ここはまだ山の中で圏外。
「ちくしょう、しまったなぁ。トシくん、待っててくれ。すぐに麓に行って救急車を呼んでくるから」
「あ、羽賀さん、待って。呼ぶなら妹の百合を呼んでもらえますか。あいつ、車の免許は持っているから。それに自転車を運ばないといけないし。命に関わるようなケガじゃありませんから」
「そうか、わかった。じゃぁ待っていてくれ」
 羽賀さんは慌てて自転車を飛ばして、すぐに姿が見えなくなった。それを見計らって、ボクはゆっくりと立ち上がる。もちろん両方の足で。
 自転車でこけたのは演技。どこも悪くはない。今回の作戦、羽賀さんにも一役買ってもらおうと、ちょっと騙してみたのだ。
 ボクは自転車の横に腰掛ける。演技とはいえ、自転車を傷つけるのは忍びないので、そっと横たわらせておいたのだ。ウエアも転倒したら派手にやぶけるくらいなのだが。ちょっと砂で汚した程度にしておいた。羽賀さん、慌ててたんでそこまでは見抜けていないと思うけど。
 程なくして羽賀さんが戻ってきた。
「百合さんに連絡したらすぐにワゴン車で迎えに来てくれるそうだ」
「ありがとうございます。イテテテ……。すいませんがもう一つお願いしてい
いですか?」
「えっ、なんだい?」
「転んでケガをしたこと、ナイショにしてもらえますか。特にボクの両親には」
「そうはいかないだろう。やはりご両親にはちゃんと報告をしておかないと。親っていうのは子どもをいつまでも心配するものなんだよ。ボクの方から連絡をするから。いいね」
「……はい」
 ボクは羽賀さんの言葉にしぶしぶ了承。実はこれ、作戦通りの反応。ミクから、羽賀さんなら必ずそう言うはずだと聞いていた。
「じゃぁ、腹をくくります。すいませんが今すぐ連絡をしてもらってもいいですか?」
「わかった。じゃぁあとは百合さんにまかせるとして、ボクは先に戻っているから。病院についたら連絡をしてくれないか」
「わかりました」
 羽賀さんはそう言うと、さっそうと自転車で去っていった。よし、すべて作戦通りだ。
 そしてボクは今、病院の一室にいる。その病院、ボクの先輩の実家である整形外科。先輩は悪乗りが好きで、先輩の親にも事情を話をしたら
「そりゃおもしろそうだ」
ということで協力してもらえたのだ。
 羽賀さんに再度連絡し、この病院にいることを両親に伝えて欲しいと言ったら、それも了承。そしてボクはその時を待った。
「トシ、トシ、大丈夫なの?」
 病室をノックもせずにいきなりうちの母が入ってきた。遅れて父も登場。
「まったく、勉強もせずに自転車ばかり乗っておるから」
 父はブツブツ言っている。だが額にはうっすらと汗が流れているのを見逃さなかった。どうやら駐車場を降りてこの病室まで駆け足で来てくれたようだ。
「心配かけてごめん。でも大丈夫だよ」
「大丈夫って、あなたは体が資本なのだから。ね、もう自転車なんて危険なことをやめて、早く病院を継ぐための勉強をしてちょうだい」
「母さんの言うとおりだ。お前は大事な跡取りなのだから。そろそろ家に戻ってきなさい」
 相変わらず自己中心的な両親だ。すると、少し遅れて羽賀さんも病室へ。ミクも横にいる。ボクの横には、車でここまで運んでくれた妹の百合もいる。よし、これで役者はそろった。いよいよ作戦の最終段階だ。
「父さん、母さん、こうやって顔を合わせるのは久しぶりだよね。それがこんな形になってすまないと思ってる」
 ボクはいつになく素直な態度をとってみた。だがここからは違う。
「だからこそ、今のボクの考えを二人に伝えたいんです」
 ボクは上半身を起こし、背筋を伸ばして凛とした姿勢をとった。そして真剣なまなざしで父さんと母さんを見つめた。
「今までボクは病院を継ぐことに対して反発をしてきた。それは、ボクは二人の言いなりになりたくないと思ったからなんです」
「それは……」
 母さんが口を挟もうとしたが、父さんがそれを止めた。
「うむ、それはわかっておる」
 そう言うと父は黙ってボクの次の言葉を待った。それを確認して、ボクはさらに言葉を続けた。
「でもいろいろな人と交わって、そしていろいろ考えたんだ。そして結論を出した。ボクは、ボクは葉山美容クリニックを継ぐ」
 そのとき、母さんの顔がぱぁっと明るくなったのがわかった。父もニンマリとした顔をした。
「でもね、でもボクはボクのやり方で病院を継ぐつもりです。だから、医療だけではなく経営に対しても学ぶ必要があると考えています。それが跡取りとして必要なことだと思うし、これから先を乗り越えるためには大切な事だと考えました。だから……」
 ボクは百合に目で合図を送った。そして百合はあるものを取り出し、父さんと母さんに差し出した。
「これは……?」
 それを見てびっくりしたのは羽賀さんであった。
「トシくん、いつの間にそれを?」
 それは経営塾と書かれたパンフレット。主に二代目、三代目というように事業継承を定められた人が行く経営の学校の案内。
「すいません。ミクに頼んで羽賀さんのところから拝借しました。父さん、母さん、わがままだとは思いますが、ボクは医者としてではなく経営者として病院の跡を継がせてもらいます。もちろん、医学部は卒業します。そのあと、この経営塾に参加して経営のイロハをしっかりと学び、そして二人のもとに戻ってきます」
 これがボクの出した結論。
「わかった。トシ、お前の気持ちは受け取った」
 父は大きくうなずいてくれた。母は横でハンカチで涙を拭うばかり。これでボクの想いは届いた。
「ふぅ、これで一件落着ね、トシ」
「あぁ、ミク、そして百合、ありがとう」
 ボクはそう言うと、ジャンプをしてベッドを飛び降りた。
「えっ、トシくん、足は?」
 羽賀さんの目が丸くなる。
「えっ、あぁ、す、すいません。これ、実はすべて演技だったんです。こうでもしないとウチの両親、そろってボクの前に現れないだろうと思って」
 ボクはテヘッと舌を出しておどけてみせた。
 が、父さんが拳を握って顔を真赤にしている。
「こぉの、バカもんが!」
 この後、両親と羽賀さんからこっぴどく叱られたのは言うまでもない。が、僕の気持ちは、そして父さんと母さんの気持ちはとても晴れやかであった。
 やっと気づいたボクの気持ち。やっと届いた、ボクの想い。
 そのことが最高にうれしい、秋の晴れた日の出来事であった。

<クライアント17 完>

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