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コーチ物語 クライアント17「届け、この想い」その3

「あらぁ、トシくん。久しぶりね」
 ボクを待ち構えていたのは、ミクではなく舞衣さんだった。マイさんは羽賀さんの事務所があるビルのオーナーの娘さんで、そのビルの一階でフルールというお花屋さんを営んでいる。ボクより少し年上で一見するとおとなしそうな人だけど、芯はしっかりとしている。そしてなにより、舞衣さんの入れたお茶は天下一品。一度味わったら病みつきになってしまうほどのものがある。
「こんにちは、舞衣さん」
「あれ、今日は羽賀さんは一日出かけているけど。もしかしてそのスキを狙ってミクに会いに来たの?」
 舞衣さんは茶化すようにボクにそう言った。ミクとボクの関係は友達以上恋人未満。それは公知のもの。ボクとしてはもっと深い関係を望んでいるのだが、当のミクがまだその気になってくれないからなぁ。
「あはは。当たらずとも遠からずってところです。本当なら羽賀さんに悩み相談をしたかったんですけど、いないっていうから。そしたらミクが話を聴いてくれるからって。それで来たんです」
「ミクかぁ。大丈夫かなぁ。まぁコーチングの腕前も上がってきたからなんとかなるかな。お客さんからおいしいお菓子をいただいているから、後から持って行くね」
「はい、ありがとうございます」
 舞衣さんと話すと、なんだか気持ちが落ち着くな。そういや羽賀さんって舞衣さんとつきあっているんだっけ? 羽賀さんも自分のことになると二の次なんだから。いい加減はっきりすればいいのに。
 ビルの横から階段を上がり、二階の部屋をノック。
「はぁい、どうぞ」
 ミクの声だ。ボクはドアを開けて中に入る。するとそこには待ってましたとばかりに準備をしているミクが待ち構えていた。
「さぁ、どうぞどうぞ」
 なんだかミクの鼻息が荒いな。相当ボクを待ち構えていたらしい。
 ボクは早速ソファに腰を下した。
「トシ、冷たいものいるでしょ。ちょっと待っててね」
 ミクは冷蔵庫から飲み物を出して準備をしている。その間、もう一度自分の思いを整理してみることにした。
 そもそもボクが実家を離れて一人暮らしを始めたのは、親の言いなりになりたくないというささやかな反抗心からだった。両親はボクを葉山美容クリニックの跡取りとして、一日も早く現場に入れたいと思っている。高校の頃まではボクもそのつもりだった。
 しかし自転車に出会ってから考え方が変化していった。自由になる翼を手に入れた感覚だった。そしてボクは医学より自転車にのめりこんでいった。そのため、学校の成績も落ちていくという始末。
 ではこのまま自転車だけで一生暮らしていくつもりなのか?
 そうじゃない。やはりボクが進むべき道は医学である。結局親の言いなりなのか? いや、そうじゃない。そうじゃないけど、気がついたら親の敷いたレールの上を歩かされている。そんな感覚に逆戻り。
 どこに自分の意志があるのだろうか。それがわからないまま今に至る。
「トシ、どうぞ」
 ミクの声でハッと我に返った。目の前にはアイスコーヒーが置かれている。
「あ、ありがとう」
「で、トシの進路のことだったよね。もう少し詳しく話を聞かせてくれないかな」
 ボクはアイスコーヒーに少し口をつけ、そしてしばらく黙り込んだ。どこから話せばいいのだろうか。そこに悩んでしまった。
 ミクはボクをじっと見つめている。ボクが話を始めるのを待ってくれているのがわかる。その間、ボクは考えた。そして話を始めるポイントを探っていった。やはりさっき考えたとおり、最初の段階から話をしてみるか。
「ミク、ボクが家を出た経緯は知っているよね」
「うん。親の跡を継ぐというところに窮屈さを感じて、そして家を出ていったんだよね」
「そうなんだ。けれど決して医者としての道が嫌だったわけじゃない。そもそもボクは…」
 話は高校時代にさかのぼった。あの頃は親の言うことが正しいと思い込んでいたこと。何の迷いもなく、医学部への進学を志していたこと。けれど、自転車に出会って自由を感じ始めたこと。そう思った途端、今の自分が窮屈に感じてしまったこと。
 このころ、羽賀さんの伝説を聞いて、そして羽賀さんに憧れた。その羽賀さんも、前職である四星商事の営業マンという輝かしい経歴を捨てて、今ではコーチングという自分の選んだ道を進んでいる。そのことに対してさらにあこがれを持ってしまったことは事実だ。
 あれ、気がついたらいつの間にか自分じゃなく羽賀さんの話をしていたな。けれど話は止まらなかった。ボクがいかに今の羽賀さんのことを憧れているのか、改めて自覚することができた。
「そうなのよねぇ。羽賀さんって不思議な魅力があるのよ。ほら、前にも話したでしょ。私と羽賀さんの出会い。私が自殺しかけたところに羽賀さんがやってきて。あのときの会話で私は羽賀さんのもとで学びたいって思ったの。そして押しかけてきちゃった。それに対しても羽賀さんは否定をせずに受け入れてくれたし」
「だから今のミクがあるんだね」
「そうなの。おまけにトシと同じで私も自転車乗りの羽賀さんに憧れていたから。そんな人と出会って、さらに直接指導までしてくれるんだから。私って幸せよねぇ」
 あれっ、気がついたらボクがミクの話を聴く立場になっちゃった。コーチングってクライアントの話を聴くことが仕事だよね。ミクもまだまだ未熟だなぁ。けれど、こうやってお互いのことを話すのも悪くはないな。
「羽賀さんって自分の世界を持っているのよね。その自分の世界というステージの上で自由に演劇をやっている。そんなイメージがあるのよ」
「自分の世界、自分のステージか」
 このとき、ボクの頭の中で何かが芽生え始めた。だがそれがなんなのか、今の時点ではまだはっきりとはしていない。
 そのとき、事務所の電話が鳴り響いた。
「あ、ごめん。ちょっと出るね」
 ミクはそう言うと電話へ走って行った。その間、さっき頭の中に芽生え始めたものを考えなおそうと、もう一度頭の中を整理してみることにした。
 が、それはミクの電話の声で中断されることになった。
「えっ、そんなに急ぎなの!? 困ったなぁ。間に合うかな……」
 ミクは急にオロオロし始めた。あの勝ち気なミクにしては珍しい態度だ。さらにミクはボクに助けを求めるような目をしている。
「どうしたの、何かあったのか?」
 ボクの声にミクは受話器に手を当てて、今の電話の状況を話し始めた。
「羽賀さんから電話なんだけど。クライアントさんのお子さんが今日の電車で東京に就職で行くことになって。でもね、この親子は今までちょっと仲違いしてて別居状態だったの。けれど羽賀さんのコーチングでお母さんがようやく心を開いてくれて。その子にどうしても渡したいものがあるんだって」
「それをその子に届けてくれってことか?」
「そうなのよ。けれど羽賀さんはこのあとすぐに企業研修があって時間的に無理なの。お母さんが直接行ければいいんだけど……」
「なにかあるのか?」
「お母さん、足をけがしてまともに歩けない状況なのよ。今も車椅子だし。だから代わりに届けてくれないかって。でも……」
「でも?」
「時間がないの。ここから駅は近いけれど、クライアントさんのところまでちょっと距離あるし。タクシーを飛ばして行ってもきついかも。どうしよう……」
 タクシーなら無理。けれどボクの足なら。
「ミク、クライアントさんの家はどこだい?」
 ミクの言う住所でおおよその位置はつかんだ。ここなら間に合うかもしれない。
「わかった、ボクが代わりに行ってあげる。羽賀さんにそう伝えて。詳しいことは携帯に電話して」
 ボクは大急ぎで部屋を飛び出し、自転車にまたがった。このとき、いつでも携帯電話に出られるように、ヘッドセットを準備。
 一度大きく深呼吸。そして戦闘モードに入る。
「トシ、GO!」
 自分で自分に気合を入れて、ペダルをこぐ足に力を入れた。ここからはも猛ダッシュ。いつも以上に足が軽く感じる。どうやらアドレナリンは十分にでているようだな。
 自転車をこぐときはいつも無心になれる。自分の進む方向しか目に入らない。そして、どのラインを通れば最速で抜けられるのか。それしか頭にない。
 だが今日は少し違った。仲違いした親子をつなぐ。その使命感がボクの体をグイグイと後押ししてくれる。こんなの始めてだ。
 そうしていると早速携帯電話に連絡が入った。

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