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コーチ物語 クライアント17「届け、この想い」その1

 サイクルショップ・サトヤマ。ここはプロショップとして、地元で自転車を趣味としている人が集まるお店。店内には所狭しと自転車のパーツが並べられている。また壁にはレース用のロードレーサーやマウンテンバイクも掲げられている。
 そのお店の隅には、いくつかの写真が並べられている。このショップの常連客が出たレースで入賞した人たちのものだ。それぞれ、トロフィーや賞状を手にしたり、表彰台に上がっているものだったり。
 ボクは写真の一つを手に取り、隣にいるもう一人の男性に語りかけた。
「これが羽賀さんの全盛期のころなんですね。ブルーファイヤーエンブレムのMTB。これ、あこがれだったんですよね。ボクはロードレーサー専門だけど、やっぱすごいですよ」
 ボクが声をかけた男性は羽賀さんという人。この人と知り合う前からサイクルショップ・サトヤマのおやじさんにこの人の事をよく耳にしていた。今までにいない、素晴らしい逸材だって。プロと張りあってもおかしくない人だって聞いている。
 だから、羽賀さんに出会う前までは雲の上の存在だった。けれど、ちょっとしたきっかけでこの人と出会い、今では同じ空間でコーヒーを飲みあえる仲にまでなっている。
 羽賀さんはそれだけ気さくな人であるともいえる。
「トシくんだってすごいじゃないか。この前の大学選手権では六位入賞だったんだろう。全国の猛者を相手に、すばらしい成績だよ」
「いやぁ、あれは仲間に助けられましたよ。やっぱロードレースはチームレースですからね。おかげさまで、ボクもチームのエースとしてみんなの期待に応えられるようになりました」
「えらく謙遜しているじゃないか。それはトシくんの実力だよ。それより、今日は相談があるんじゃないのか?」
「えぇ、ちょっと進路のことで……」
 ボクの両親は葉山美容クリニックという病院をやっている。地元ではCMまで流して、七つも医院を抱えている大きな組織。その跡継ぎとしてボクは育てられた。
 一応大学では医学部に所属している。が、今では自転車三昧の毎日。成績はかろうじて落第をまぬがれているという、散々なものである。
「やはり病院は継ぎたくない。そうなのかな?」
「そこが自分の中でわからないんです」
 羽賀さんの質問にはそうとしか答えられなかった。ちょっと前までは親に反発をしていたので、絶対に病院は継がないと思っていた。けれど、最近考え方が少しずつ変わってきた。
 まぁ、きっかけはちょっと打算的なところでもあるのだが。
 今のご時世、医学部出身であっても就職口を探すのにとても困る状況。医学部を出たら、まずは研修医として大学病院や大きな病院で二年間は医療に従事しなければならない。
 そしてその後、自分の進路を決める。そのまま大学病院に居座る人もいれば、地元の病院へと転職する人もいる。そもそも医師不足なので、本来ならば就職には困らないはず。
 だが、どこでもいいというわけではない。こちらにも希望はある。
 その希望通りにいかないといのが現状。下手をすると行ったこともない地方の小さな診療所へ飛ばされるなんてこともありえる。
 そんなことになると、せっかくここで知り合った人たち、特に羽賀さんの助手をやっているミクと離れ離れになってしまう。それは嫌だ。
 それに、医者にならないとなるとさらに難しい状況に立たされる。
 今は就職難。医学部を出たところで、医療以外の道はない。一般企業に就職しても、就職先の会社のほうが扱いに困るだろう。
 そう考えると、やはり研修医の期間が終わったら親の病院に入るのがいいのかもしれない。
 けれど、そんな気持ちで医者になっていいものだろうか。最近自分の中で葛藤が生まれ始めて。
 だからこそ羽賀さんを頼ってみた。
 羽賀さんはプロのコーチングのコーチ。ちゃんと相談料をお支払いしようかと思って話を持ちかけたのだが。
「じゃぁ、里山さんところで会おうよ。ちょうど自転車のメンテナンスをやってもらおうと思っていたところだから。えっ、お金? そんな、自転車仲間の相談でお金はとれないよ」
と、気軽に言ってくれた。いくら両親が病院を経営しているとはいえ、自分で使うお金に余裕はそれほどない。そもそも勝手に家を飛び出して、一人暮らしをしているくらいだから。羽賀さんのこの言葉はありがたかった。
「なるほど、トシくんの気持ちはよく伝わったよ。でさ、今の話を聴いて感じたことがあるんだけど、言ってもいいかな?」
「はい、なんでしょうか?」
「トシくん、その結論はもう自分の中で出ているよね」
 結論が自分の中で出ている。この言葉で羽賀さんには隠し事ができないなって感じた。それだけ、羽賀さんという人は人間観察力が優れた人なんだ。
「わかってしまいましたか。悩んでいると口では言ってみたものの、実はもうこの道しかないかなって思っています。だからこそ、逆に悩みが増えてしまって」
 ボクが決めた道。それは……。
 そのことを口にしようとしたとき、店の表が騒がしくなった。
「羽賀さーん、いるんでしょー。お客さんがきてるよー」
 声の主はミク。羽賀さんのところでアルバイトの助手をやっている女の子。コンピュータグラフィックの専門学校に通っていて、自転車好きの子。
 ボクとは自転車を通じて知り合い、そしてミクを通じて羽賀さんと知り合うことができた。
 ミクはボクが彼女にしたい女の子。ボクのその想いも彼女は知っている。けれど、今は羽賀さんを日本一にするまではそっちに専念したいということで、見事にふられてしまった。
 ふられた、というのは正確ではない。なぜなら、自転車仲間としては一緒にツーリングに出かけたり、このお店で時々会って話をしたりしているから。
 けれど、恋人と呼ぶにはまだ程遠い間柄であるのは確かだ。
「あー、ごめんごめん」
 羽賀さんは店の表に出て行った。
「羽賀さん、また携帯電話を置いたまま出ていくんだから。これじゃ携帯電話の意味がないじゃないの。とにかくお客さんが待ってるから。急いで戻ってきてね」
「はいはい。トシくん、ごめん。続きはまた今度」
 羽賀さんはボクに謝りながら、整備の終わった自転車にまたがって颯爽と去っていった。
「羽賀さん、かっこいいなぁ。ホント自転車が絵になる人だ」
 ボクのつぶやきに、サイクルショップサトヤマのおやじさん、里山さんが応えてくれた。
「あいつ、昔はもっととんがってたんだよなぁ。自転車のことになるとストイックになっちまって。周りを寄せ付けない雰囲気を持っていたんだが。まぁ脚力は昔ほどじゃねぇだろうが、今の方があいつは魅力的だ」
 ボクは羽賀さんの昔の姿は知らない。けれど、里山さんが言ったとおり今の羽賀さんは人を惹きつける魅力がある。現にボクを始め、多くの人が羽賀さんを頼りにしている。
 ボクもあんな人間になりたい。多くの人がボクを頼りにしてくれる。そんな人間性を持ってみたい。まだまだ人生修行をしなきゃ。
「さてと、じゃぁ帰ります。コーヒー、ごちそうさまでした」
「おう、またおいで」
 里山さんも羽賀さんに負けず劣らず気さくな人。だからこそ、こうやってこの店に集う人も多いんだろうな。
 ボクは自転車のペダルをゆっくりとこぎ出した。そしてもう一度自分の気持を整理してみた。ボクが本当に目指したいもの。それはなんなのだろうか、ということを。
 その翌日、事件は起きた。
 始まりは一本の電話。それは妹の百合からのものであった。
「兄さん、大変。お母さんが、お母さんが……」
 電話口の向こうの百合は、涙声になってまともな言葉になっていない。
「おい、母さんがどうしたんだ?」
「お母さんが……」
 百合の声はそれ以上出てこない。
「わかった、とにかくそっちに戻るから。事情はそっちで聞く」
 電話を切って、急いで出る準備をする。アパートから自宅までは自転車でかっ飛ばせば十分くらいの距離。まぁ普通の人だと倍はかかるのだろうが。
 ヘルメットをかぶり、緊急事態とばかりにペダルをこぐ。
 母さんに一体何が起きたというんだ? まさか、万が一のことが起きたんじゃないだろうな? 心の中はその不安でいっぱいになっていた。
 そして実家へ到着。そこで待ち受けていたものは予想外の出来事であった。

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