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コーチ物語 クライアント29「桜、散る」その6

 千葉についたのはその日の夜遅く。さすがに今日はミーヤンのいるところまで行くことはできないかな。とりあえず適当な宿を探さなきゃ。
 宿、といっても今まで一人で宿泊なんかしたことがない。駅前に行けばどこか泊まれるところがあるだろう、そう期待したのだが。これがまた見事に何もないところ。ミーヤンが住んでいるであろうところは、千葉でもちょっとはずれになる。しまったな、こういう下調べまでしておかないといけなかった。
 春になったとはいえ、夜はまだ寒い。さすがに野宿というわけにはいかないし。困ったな。一度街の方まで引き返すか。
 だが、僕が乗ってきた電車は最終。そのあとはもう電車がない。当然ながらバスももう終わっている。あるとすればタクシーくらいだが、街までは結構お金がかかりそうだし。さすがにそんな贅沢はできないな。
 ふと見ると、駅前の公園に桜が咲いている。そうだよなぁ、季節はもう春なんだよ。本当ならうまくいけば、桜咲く季節で胸を高まらせて大学入学に向かっていたかもしれない。けれど今の僕は浪人生。4月から再び猛勉強して、また大学に向けて活動をはじめなければならない。
 僕にとっては桜散る季節、か。
 と、ちょっと考えが悲観的になってきてしまった。いかんいかん、そうじゃない。そうならないために、僕はミーヤンを探す旅に出てきたんだから。もっといろんなことにチャレンジをする。そのための一年間にしていかないといけないのに。
 チャレンジ、そうだ、チャレンジだよ。今の僕は自分の常識の枠に囚われていた。何も街まで戻らなくても、この付近でうまく宿泊できるところは見つかるかもしれない。ぼーっと立っていても意味は無い。まずは足を動かさないと。そして行動をしなければ何も起こらない。
 とにかく、真っ暗な駅前から人が多そうなところへと動くことにした。動き始めてわかったんだけれど、この時間だから誰も居ないかと思ったら意外にそうでもないことがわかった。
 ここはどうやら新興住宅地のようだ。大きな商業施設はないけれど、住宅はたくさんある。夜はひっそりとしているが、そんな中でも活動している人がちらほらいる。
 特にコンビニ。ここは当然ながら24時間営業だし、そこに向かう客もちらほら見受けられる。まずはそのコンビニに入って、少し休憩をするか。
 ありがたいことに、入ったコンビニは新しいお店のようで、休憩するスペースがある。僕はコンビニコーヒーを注文して、パンを買ってここで食べることにした。まだ夜明けまでは時間がある。さて、これからどうするかな。
 そのとき、僕に奇跡が起こった。
「ふぅ、今日も疲れたな……」
 そう言って僕の隣におじさんがコーヒー片手にやってきた。その姿は作業着で、夜遅くまで仕事をしていたという風貌を見せている。作業着とはいっても、下はスラックスを履いている。それからすると、どこかの工場の管理職ってかんじだな。
 そのとき、名札がチラッと見えた。
「三浦……」
 ま、まさか。さらにその作業服に刺繍してある文字を見る。あ、ミーヤンのお父さんの務めている会社だ。ひょ、ひょっとしたらこの人、ミーヤンのお父さんかもしれない。
 僕はもうしばらくこのおじさんを観察することにした。残念ながら小学校低学年だった僕に、ミーヤンのお父さんの姿は記憶に無い。それはそうだろう。ミーヤンの家に遊びに行っても、お父さんは仕事でいないことがほとんどだし。しかし、どことなく過去に記憶しているミーヤンの姿とダブるところもある。ここは意を決して声をかけてみるべきなのか……
「さてと……」
 そう言っておじさんは席を立とうとする。どうする、イサオ。
「チャレンジだ」
 一瞬、羽賀さんの声が聞こえた気がした。そうだ、チャレンジだ。
「あ、あの、すいません」
 声のほうが先に出た。
「あ、どうしたかな?」
 おじさんは後ろを振り返って僕の顔を見る。
「あの、み、三浦さんですよね?」
「あぁ、そうだが。君とどこかで会ったことがあったかな?」
「ひょっとして、十年ちょっと前まで……」
 僕は自分が住んでいる地名をおじさんに伝えた。
「あぁ、その頃だったらそこにいたよ。えっ、君はそこからやってきたのか?」
「は、はい。ミーヤンの、いや、息子さんのやすとしさんと友達でした」
「や、やすとしと……」
 僕がその名前を出した瞬間、おじさんはちょっと伏し目がちになった。どういうことなんだろう?
「君、名前は?」
「あ、はい。斉藤勲といいます」
「斉藤勲くん、か。で、どうしてこんな時間にここにいるんだい?」
 僕はミーヤンのお父さんに、どうしてここに来たのかを話した。ミーヤンのお父さんは何も言わずに僕の話を聴いてくれた。
「そうか、そういういきさつがあったんだね。なんにしろ、あそこからよくこんな千葉の田舎町まで来てくれた。ほんとうに嬉しいよ、ほんとうに」
 ミーヤンのお父さん、急に涙ぐんでいる。一体どうしたんだろう。
「で、ミーヤン……いや、やすとしくんは今は?」
「ははは、ミーヤンでいいよ。そういえば泊まるところがないんだね。よし、今日は私の家に泊まりなさい。そこでやすとしのことは伝えるとしよう」
 その言い方は何か事情がありそうだ。ミーヤンは今、お父さんとは一緒に暮らしていないのかな? ともあれ、今夜はもうかなり遅い時間だから、お父さんの行為に甘えて家に泊まらせてもらうことにした。
 コンビニから家までは歩いて五分程度で到着。
「上がりなさい。遠慮無く」
「はい、おじゃまします」
 そう言って家に上がる。もしかしたら奥さんとか起きてて迷惑じゃなかったかな。そう思ったけれど、家のなかは真っ暗だった。いや、真っ暗ではない。奥の闇にぼんやりと小さな灯りが二つ灯っているのが目に入った。
「ただいま」
 ミーヤンのお父さんはだれもいない部屋にそう言葉をかけた。けれどその言い方は誰かに向かって言っている。
 お父さんが部屋の明かりをつける。一気に眩しくなり、一瞬目が眩んだ。そのあと、ゆっくりと目を開けた僕は、今までのお父さんの言い方や仕草の意味を全て悟った。
「えっ、ま、まさか、そ、そんな……」
「あぁ、息子のやすとし、妻の喜美江、そしてやすとしの兄のはるたかだ」
 そう言いながら目を向けた先にあったもの。それは今紹介された三人の笑顔の写真。だが、その写真には、黒いリボンがある。
「ど、どうして、ミーヤン、どうして……」
 僕が目にしたもの。それは仏壇に飾られていた三人の写真。その写真の中のミーヤンは、まだ小学校高学年か中学生のようなあどけない笑顔をしていた。

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