心療内科の診察券を、隠す私と

ベッドの上にい続けて、二日くらいでさすがに涙が枯れた。

動けるフリだけしていた会社のチャットは、たぶんもう異変に気付いている頃。本当にどうしようもないくらい動けなくなってしまったので、心療内科の予約を入れる。全身の力が抜けてしまって、幽霊のような動きしかできない。重力に十分逆らえない体を引きずるようにして、玄関に置いてある財布を目指す。

学生時代にもらってから、一回も買い替えていない、黒の長財布。使い込まれた、というよりは、ケアのないまま使って放置したから、ゆるゆるになってしまったやわい黒い革を掴んで、ベッドに戻る。そろそろ捨てて買い替えるか悩みながら、なんだか目の前の財布のことが自分みたいに思えた。捨てて、買い替えるか。


財布を山折りに開くと、小銭入れで仕切られた二つの空間のうち、お札が入っていない方から輪ゴムで縛られたカードたちを取り出す。こっちが通ったことのある病院の診察券たちが入っている方で、小銭入れがない方のポケットに美容室やコーヒー豆屋、定食屋のポイントカードを輪ゴムでまとめたものが入っている。

輪ゴムを外す。保険証、前の住所近くの内科の診察券、皮膚科の診察券、2年前に行ったきりの眼科の診察券、4年前に捻挫して通っていた会社の寮近くの整形外科。目的の心療内科の診察券は、最後から二番目、その存在を隠すように入っていて、なんだか久しぶりに口角が上がって、私は笑ってしまった。情けなくて笑える。

つまり、私は恥ずかしいのである。女性の水着姿のグラビア写真が表紙の雑誌を買うために、興味もない本を上に重ねてレジに持っていくのと、行動原理が全く同じという恥ずかしさに、笑えてきてしまった。この後に及んで、まだ自分の病状をきちんと受け止めきれていないのだと、気づいた。

職場の特定の場所に近づくような状態になろうとすると、心臓が急に拍動を強めること。数年間、ストレスの強い現場で働いて、ずっと苦しかったこと。苦しさを言い訳に、十分に仕事に向き合わなかったこと。逃げ腰で働いて、当然許されず、叱責されたこと。あらゆるストレスから逃げるために、または己の快楽のために、当時の彼女を裏切っていたこと。そのことが露見し、彼女をひどく傷つけ、当然、何度もなじられたこと。

朝から晩まで働いて怒られて、夜や休日に頭を下げ続け、3月。彼女が出て行って、一人になった翌日に、忘れられない不気味な胸の動きが来た。パソコンを見る視界が揺らぐ、心臓がどんどんと音を立てて耳に残っていて、謝罪を打つためにのせたキーボードを打つ手から、サーっと、本当に音が聞こえてくるように血の気が引いていって、冷たさだけが指先にあった。あの日を境に、今日まで私はまともに働いたことはない。


そのあとに通った心療内科の診察券を、誰に見られるわけでもない財布の、輪ゴムでくくったカードの中に、意図的に隠していた。枯れていた涙が戻ってきて、ひりついて擦り切れた目尻を濡らして頬を伝っていく。痛かった。

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