オイちゃんのこと

 こんにちは。ざまたかです。みなさま「スキ」ありがとうございます。当方note初心者なのでいろんなことが追いついていませんが、ぼちぼちやっていきます。みなさんのnoteにも遊びに行きたいのですが、お目々のしんどいお年頃、そろそら大人の眼鏡を作らなきゃです。

 最近よく、なぜかオイちゃんのことを思い出す。ちょっと長くなるけど、書いておこうと思う。

 オイちゃんは、中学の時の美術の先生だ。「中学校って怖いところ」だと思いこんで、ビビリながら私たちが入学した年に、よその学校から転勤してきたおじちゃん(おじいちゃん?)先生で、部活紹介のときに新入生の前に立って、

「今年からマンガ研究部を作ります。マンガやアニメの好きな人は入ってください」


って説明してた。ファーストガンダムが放映され、ガンプラが大流行した時代。幼児向けばかりだったアニメがどんどんストーリー性に富んで面白くなってきた頃。お絵かき仲間と「もちろん入るよね!」って感じで、私は漫研に入ったのだった。

 できたばかりの部活なので、先輩後輩なんてあったもんじゃない。みんなでお絵かきをしながらおしゃべりを楽しんだ。資料用の漫画は持ち込み自由だったし、男子はガンプラ作って遊んだりもしてたな。先輩とコピーで同人誌作ったり、地元でやってた小さなコミケに被り物かぶって参加したりもした。怖いもの無しの一年生だった私たちは結構やらかしたと思うのだけど、あの場ではいろんなことが許されていた。

 オイちゃんは木彫と鏡がお好きだった。休みの日でもいつも準備室にいて、FMラジオを聴きながら何かを作ってた。お手製のミラーボールが机の上にぶら下がってたっけ。放課後お腹が空いた頃には「給食の残りのパン、食べるか?」って出してくれたり(今じゃありえないけど)土日の部活は外にお弁当買いに行くのも許可してくれてたので、学校の近所のおにぎり屋さんに行くのが流行ったりもした。オイちゃんは私たちを部活の合同合宿にも連れて行ってくれた。運動部が炎天下で活動する中、涼しい部屋でお絵かきする私たちは彼らにニラまれたりましたけど、そんな怖い視線からも「とにかくお絵かきしよーぜ!」って守ってくれた。

 担当学年が違ったので、授業を受け持ってもらったことはない。でも選択の授業でオイちゃんのクラスを取った。「ルービックキューブみたいな6面体のすべてに人がいる絵を描いてみよう」とかちょっと変わった課題を出された記憶がある。ある時なんか「あのさ、天使ってなぜかみんな子供の姿じゃん?年取ってたらどうなるかと思ってオババエンジェルってのを試しに描いてみたんだけど、これ、選択の課題にどうだろうね?」なんてきかれたこともあったっけ?オイちゃん作の垂乳根エンジェルをみんなで眺めた記憶がある。とにかく優しくて、いつも楽しそうな先生だった。

 中2の後半くらいからだったか、頼りにしてた漫研仲間が転校したり、不登校になったりして私も部活から足が遠のいた。親やクラスの友達との関係も難しくなって、お絵かきもピタリとしなくなってしまった。でも部活のことは気になっていて、3年の文化祭的なものの準備の時、自分の作品はないのに展示の手伝いに行った。それを見ていた後輩が何の気なしに「ざまたか先輩は作品がないんですか?」って聞いたんだよね。そしたらたまたまそばにいたオイちゃんが

「ざまたかは展示が作品なんだよな♫」


って。お絵かきしなくなったのに部活に所属し続けることに幾ばくかの居心地の悪さはあった。でもその瞬間、救われたなあって思った。

 卒業のときは一人一人に木彫で名前の半分をかたどった鏡(鏡にもう半分写ってちゃんと名前になる)を作って渡してくれた。「お前のは作りやすかったわ〜」って言われたのを覚えている(旧姓だとかなり左右対象な名前だから)  

いつもいつも楽しそうで優しかったオイちゃんだけど、一度だけ涙ぐんだのを見たことがある。漫研10年の幕引きにと、同窓会的なものを開いたときのことだ。私たちの2つ上に、バイクが大好きでいつもバイクの絵を書いていたY先輩という人がいた。16歳ですぐ免許を取ったけど、高校生のうちにバイクの事故で亡くなってしまった。同窓会の時にY先輩の話も出たのだけど「親御さんに申し訳なくて」って言ってた。オイちゃんのせいではないのだけどね。

 自由で守られていて楽しかったあの時間と空間。今でも美術室に入るとキュンとするのは、オイちゃんの笑顔とお手製のミラーボールを何となく思い出すからなんだと思う。

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