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【小説】報復は週明けに

 ブラインドの隙間から窓の外を見ると、夏休みを迎えたと思しき男の子が、プラスチックバットを刀のように背負い、車道の脇を自転車で走っていた。その後ろを遅れてやってきたのは、弟に違いない。黒いノースリーブシャツに白い短パンという、上下お揃いの格好だった。
「学さん」
 呼ばれてオフィスに向き直った。長身で猫背の海斗くんが、ひょこひょこと近寄ってきた。
「この人知ってますか? 一つ年上で、同じ高校みたいですよ」
 差し出された名刺には、高校時代のサッカー部で大層 “かわいがってくれた” 男の名前があった。ご立派な戦国武将を思わせる個性的な名前の為、別人とは考えにくい。
「一応、知っているよ」
「おっ、そうなんですね。世間は狭い」
「営業で来たってこと?」
「営業っていうか、この見積もりを出してもらったんです。すごくいい条件なので、次の発注はここになると思います」
「へえ、見せて」
 見積書に目を通すと、ケチのつけようがなかった。だが――
「これさあ、怪しくない? 部材をどこから仕入れているのか」
「なんとか受注してもらおうと、最大限頑張ったんじゃないですかね。最近、仕事が激減して困ってるみたいです。対応もすごく丁寧でした。暑いのにわざわざ足を運んできたんですよ」
 昼過ぎにいた男か、と思った。顔を見なかったが、かつての印象とまるっきり違い、去り際に深々と頭を下げていた。
「この件さ、僕が預かってもいいかな?」
「え? まじですか。いいですけど、自分が投げ出した感じにならないように、課長に言っておいてくださいね」
「もちろん、それは任せてくれ」
 僕は自信たっぷりに、少し不満そうな海斗くんを押し切った。

 翌朝、先方の担当者にメッセージを送った。きちんとフルネームを名乗り、突然の担当者変更を侘びた上で、四つの質問を箇条書きにした。
 午前中のうちに返信があり、質問に対して真摯な回答だった。高校時代の後輩だと気づいていないようで、一度直接お会いしたい、とのことだった。
 いつでも構いませんよ、と伝えると、昨日来たばかりにも関わらず、本日十七時頃お伺いします、と返ってきた。

 そして、十九年ぶりに顔を合わせた。ハンカチで汗をぬぐう姿は、すっかりおじさんになり、肉付きと共に表情も丸くなっていたが、誰か分からないほど変わってはいなかった。やっぱり “あいつだ” と確認できた。記憶にある不遜な態度は改まり、いい人を演じているように見えなくもなかった。
 一方で、彼は僕のことを全く覚えていなかった。一通り話が終わった後、実はサッカー部の後輩で、大変お世話になったと皮肉を言ってみたが、恐縮するばかりで思い出す様子はなかった。僕の存在などその程度だった。しごき倒した後輩たちのその他大勢の一人でしかなかった。当時の部員は沢山いて、僕は控えの選手にすらなれないほど下手くそだった。
 お前には誰も期待してないよ―― 部内の練習試合でシュートを外して謝った時、彼は薄ら笑いを浮かべてそう言った。
 時を超えて今、ネクタイをぴしっと締めた彼は「どうか宜しくお願いいたします」と言って、前向きに検討する素振りの僕に助けを求めている。手応えがあるはずで、今更僕に期待している。傷つけた過去を忘れ、立場が入れ替わったことに気づかず、僕から “報復” を受けるなどと考えもしていないだろう。当初は担当者変更を不穏に感じたはずだが、もしや皮肉を真に受けて、同窓のよしみ、延いては自身に対する恩返しとして、僕が出てきたと感じていたら――
 痛快、この上ない。
「お見積もりの件は、上司と相談したうえで週明けにお返事いたします」
 僕が片手を差し出すと、彼は両手で応えて頭を下げた。

 明日帰ってくるの?――
 その夜、母からメッセージが届いた。実家をリフォームするようで、大変面倒なことに、押し入れに隠してある僕の私物を片付けに行かなければならない。しまっておく場所がないので、ほとんど捨てる、或いは売ることになるだろうが、適当に処分して良いとは言えない。大事な物があるかもしれない。だが、そうやって片付けを始めると、あれもこれも手放しがたい気持ちになる。時間ばかりを浪費する。故に、何があるのか確認せず、綺麗さっぱり処分してもらうのが一番だが、大事な物があるかも―― という不安、並びに期待を捨てきれない。長年使っていない物ばかりだから、結局捨てられたところで問題はなく、母から連絡がなければ、実家に残してある私物を恐らく思い出さなかった。
 ああ、なぜ生真面目に連絡をくれたのか。

 翌日、妻は午前中のうちに行くように促してきた。昼ご飯を用意したくないと、どこか疲れた顔に現れていた。
「夕飯も食べてくるよ」
「そう、ゆっくりしてきてね」
 外では蝉が元気よく鳴き始めた。

 そして、気温がむくむくと上がる中、小一時間車を走らせた。昼頃になる、と伝えてあった。
 瓦屋根の下、引き戸の玄関の前では、ゴルフクラブを持った父が立っていて、しばらく待っていたはずだが、ちょうど出てきたように装った。
「あれ? 学じゃないか」
「お母さんに言ってあるよ」
「おっ、そうだったか。うっかり出掛けてしまうところだったよ」
「別にいいよ、出掛けても。夕飯までいるからさ」
 素直になれない悪癖は、父譲りの性質に違いない。
 その後、父はあれこれ言い訳をして出掛けず、母の作った昼ご飯を三人で食べた。

 私物の入った大きな段ボール箱三つは、襖の押し入れの中からすでに引っ張り出されていた。風鈴が時折涼やかに鳴り、部屋にある二つの窓は開け放たれていた。
 まずはタオルを首に巻き、段ボール箱の中を開くと、中古屋で買ったCDや漫画本、雑誌などが大量に出てきた。なぜ取っておいたのか分からないほど、処分と即断できる物が多かったが、それぞれの物に思い出がある為、やっぱりどうしてもページを捲ってしまったり、歌詞を読み返したり、片付けは遅々として進まなかった。
 自作の詩を書いたノートや、その当時交際していた恋人からもらった手紙も発掘された。高校二年の半年間だけつけた中途半端な日記帳には、サッカー部での恨みつらみが吐き出されていた。あいつと昨日再会して、今日これを見つける奇遇に、報復への後押しを得たように感じたが、具体的にあいつのことは何も書かれていなかった。
 懐かしい縦長のケースに入った八センチサイズのCDは、ざっと百枚ほどあった。どこでも買い取ってもらえないだろうと思った。太い輪ゴムで束ね始めると、安室ちゃんの色褪せない健康的な笑顔と目が合った。「あっ」と思わず声が出た。
 とっくに返しただろ!―― 僕は健吾にそう言い放った。喧嘩になった。本当に返したと思い込んでいた。
 だが、そのCDは今、僕の手元にある。返却を求める健吾の主張が正しかった。中学卒業が間近に迫る頃で、彼とは喧嘩別れをしたまま再会していない。卒業の翌年に年賀状を送ったが、返事はなかった。

 夕方、おおよそ片付けを終えた。食事まで気晴らしに出掛けると、暮れ泥むかつての通学路を歩き、次第にそのルートから外れた。そして、煙草を始めて吸った河川敷の公園に行きついた。ワルに憧れたあの夏と同じように、辺りはむっと青臭い匂いが満ちていた。
「すいませーん」
 足元に黄色いサッカーボールが転がってきた。手を挙げる男の子に蹴り返したつもりが、ボールはあられもない方向に飛んでいった。
「あっ、ごめん」
 だが、男の子は弾けるように笑い、大きな声でお礼を言った。
 
 実家での夕食後、近所の事情通に健吾のことを何か知っているか尋ねた。
「去年だったかな、三人目の子供が生まれたって聞いたわよ」
「三人か。それは凄いね」
「奥さんもほら、学の同級生よ」
「ええ?」
 誰なのか名前を思い出させようとすると、母は小首を傾げ、控え目に猿を意味する酷いあだ名を口にした。僕がそう言っていたからだ。
「後藤か」
「そうそう、後藤さん。学は毛嫌いしていたわね」
 嫌っていたというより馬鹿にしていた。あだ名で直接呼んだことはないが、僕たちはイジメに等しい陰口を叩いた。その輪の中には――
 健吾は黙って聞いていた気がする。少し輪の外に出て。もしかすると、当時から後藤のことが好きだったのかもしれない。実は人知れず交際していたのかもしれない。どんな気持ちで聞いていたのだろう。
「思い返すと、健吾には色々と申し訳ないことをした」
 母は胸の内を察したように微笑んだ。
「随分、成長したのね」
「僕は恥ずかしい奴だったな」
「だから何度も注意したじゃない。でもね、若い時ってありがちなの。ずっと気づけないままの人もいるから、今気づけて良かったわね」
 僕は小さく息を吐いた。素直な感謝を母に伝えた。正真正銘の成長を志して、あいつへの破廉恥な報復を思いとどまった。

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