【俳句】石田波郷新人賞の鑑賞
石田波郷(いしだ はきょう)新人賞は、三十歳以下の若者を対象とした俳句二十句一篇の賞である。
石田波郷は著名な俳人である。結核を患い五十二歳の若さで亡くなったものの、病気という負の事実を正に昇華する、悲しくも美しい句を多く遺した。現代の医学をもってすれば、もっと長生きしたのかもしれないが、ひとつの病が石田波郷という俳人を、より一段と高い位置におく要因であったと思えてならない。
また、わたくし事であるが、氏のうけた合成樹脂充填術は、私の祖父も同様にうけた治療である。当時の医療では最善策であったそうだが、現代医療の視座より、晩年、死期を早めた一要因であると知った。私はかつての不治の病・結核を恨めども、医者を恨んではいけないと、複雑な思いであった。そして、祖父も俳誌ホトトギスに投句する俳人のひとりであった点を思うと、石田波郷新人賞は特別な賞として私の眼前に立ち上がってくるのである。
本稿では、令和二年、第十二回・石田波郷新人賞の受賞句をいくつか鑑賞していきたい。句の解釈は、私個人の感想であり、見当違いの部分もあるかもしれない。参考程度にお読みくだされば幸いである。
病めば樹の親しかりけり冬帽子 若林 哲哉(平成10年生)
私は空調のきいた―いや、息苦しい病室をひとり出てゆく。寒空の下、あてもなく歩く。偶然、目の前の大樹に触れてみる。なにやら懐かしい感じがする。嗚呼、長年私と共に歩んだ、この帽子も。
冬帽子の季語を大変うまく詠んだ句である。中七の「けり」は、直後の季語、冬帽子を強く立ち上げる。「病めば」は「冬」と、「親し」は「帽子」と響きあう。病めば、と仮定しているように、健やかなときは気付かなかった感動なのである。また、俳句は一瞬間を詠む文学であるが、詠み手の若い頃―まだ帽子も新しい頃まで時間を遡って詩情を醸し出す。したがって、本句の帽子は、子どもが暑い時期にかぶるキャップではなく、明治や昭和の情趣漂う―詠み手の人生諸々の込められたハットなのだろう。
能面を裏に返して春の雷 林 洸輝(平成17年生)
能面を裏に返す。冬もそろそろ終わりで、春が待ち遠しい。肌寒い空に、一筋の雷が光る。
中七の「て」で軽く切れる。能面を裏に返すことと、春の雷に因果関係はないのだが、何か響きあうものがある。それが俳句である。
能面は能を演じる際につけられる仮面の一種である。私は能に特別詳しいわけではないため素人の感想になってしまうが、能面には何か霊力というか、特別な力が秘められていると感じる。能面の裏は、演者の肉体と接する部分であり、長年つかわれた面は人の魂と通じ、子どもの頃は”憑依されるような”怖さをも感じたものである。その感情を、春の雷への感情(雷は怖い)とつなげても一理だが、その限りの単純な句ではないだろう。
夏の雷と春の雷は情趣が異なる。夏の雷は積乱雲の下、空を洗うような激しい雷である。いっぽう春の雷は、春の到来を告げる雷である。少し優しい、柔らかい雷といってもいいかもしれない。しかし、雷は雷、そのうちに激しい力を有している。その情趣が能の神性と響きあうように思えてならない。
薇を煮る黄昏のながさかな 筏井 遙(平成11年生)
薇(ぜんまい)を煮ている、この黄昏(たそがれ)時、いつもと違う時間の長さを感じてしまうなあ。
黄昏は、誰(たれ)そ彼(かれ)、つまり人の顔がわからないほど暗くなってきた夕暮れ時を意味する言葉である。その時刻の感じ方は人それぞれ、場合によるだろう。私の場合、不気味で、少しの悲しみを感じる。一日の疲れを実感する気だるさもある。そこに、薇の不思議な形状が湯の中で踊っている。なにやら、あやしく幻想的な情趣があるではないか。下五の切れ字「かな」の静かな余韻が、沸騰する音を際立たせる。
本句が夕餉の暖かな家庭というよりは、寂しい独身者の状況に似合ってしまうのは(もしくは、夫をまつ女性の孤独さ等)、楽しさや温もりよりも、寂寥感が強く、その結果、ふだん意識しないはずの時間を「長く」感じてしまっているからだろうか。
そのむかし海戦ありし飛蝗かな 同
枯草に一匹の飛蝗(バッタ)がいる。嗚呼、この顔、この体躯・・。その昔、幾たびもの海戦を経てきた歴戦の勇者の血をひく者か。
中七の「ありし」は連体形であるから、海戦のあった飛蝗、つまり海戦を経験した飛蝗と私はよむ。飛蝗という小さな生き物に宿る魂をしかと立ち上げる、力強い句である。下五の切れ字「かな」の静寂のうちには熱い心(まさに一寸の虫にも五分の魂)が秘められている。私は枯草に一匹の飛蝗をみたが、もしかすると青々とした草かもしれないし、砂漠の海を渡る大群かもしれない。海戦の措辞からは、海原を進む多くの戦艦がみえてくるため、後者が最適だろうか。
また、女性には理解できないかもしれないが、飛蝗を近くでよくみると、格好いい。鎧をまとった孤高の騎士のようにみえてくる。上五の「その」が、古より続く飛蝗の血脈を一種の物語性をもって語りかけてくるのではないだろうか。