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【随筆】なぜ俳句の感想文を書くのか

 俳句が五七五で表現する文芸である点を知っていても、切れだとか、詩情だとか、深くまで知っている人は、私の周囲にほとんどいない。それは全く問題のない至極当然の事実である。

 好きなことは誰かに勧めたい。自分から主張しては、お節介極まりないが、聞かれたのであれば、俳句は面白いよ、と偉人らの名句をみせる。

 堂崩れ麦秋の天藍たゞよふ 水原秋桜子
 芥子咲けばまぬがれがたく病みにけり 松本たかし
 芋の露連山影を正しうす 飯田蛇笏

 ほとんどの人が「どういう意味?」という。他、誰もが知っているであろう芭蕉の句をみせても、意味を正確に知りたいようである。また、一句目の場合は、「五七五じゃないけど、いいの?」(藍たゞよふ、と六音)などなど。

 私は、それは正しい反応だと思う。文章はまず意味が通じないと話にならない。よく意味のわからない詩(失礼な表現をお許し願いたい)もあるが、それは「詩ですよ」の前提があるから誰しもそれなりの「理解」を示せるのだ。絵画も然り。

 それでも、例えば、あの知識人で有名な山田五郎さんのお話を聴くと、意味不明な絵画が急に輝いてみえてくる。線一本まっすぐに描けない私でさえも、絵画って素晴らしいなあと思えてくる。芸術鑑賞に知識はと、思われるかたもいるかもしれないが、その絵画の技巧や背景の知識を得ることで、「興味深く」「面白く」鑑賞するきっかけが生まれるのだ。その点において、山田五郎さんのやられていることは、文化を守るのみならず、人々に新たな幸福を生み出す機会を与えているといえるだろう。

 俳句も同じだと私は考えている。まずは、その句がどのような意味なのかを知る方向性を示す必要がある。
 「どういう意味?」と訊かれて、「いや、感じるんだ!俳句は意味じゃない。とにかく感じるんだ!」というのは、詩の鑑賞において誠に正しいが、初見者に対しては、少し優しさに欠けはしないだろうか。

 いっぽうで、詩の解釈、意味説明は、読者の見方に制限を与えかねない。というより、一面の見方(読み方、解釈)に限定してしまうのだ。
 小説においても、たとえば、宮沢賢治『やまなし』の”クラムボン”とは何か?芥川龍之介『羅生門』の下人がその後どうなったのか?の解はひとつに定まらない。客観的な事実と異なる、読者の数と等しく創造されうる”真実”があるに違いない。

 だから、私は俳句の鑑賞文を書く際、冒頭に、あくまで私の感想に過ぎない点を強調している。山田五郎さんの場合は、多くの説を網羅し、客観的事実と主観的な感想とを明確に区別している。自己の感想や考えを、確固たる事実のようにいわないのである。

 俳句鑑賞とは、この瞬間の、この私のひとつの見方なのである。十年後は、また私の見方も変わっているかもしれない。解釈の意味内容が180度変わるかもしれないのだ。

 以上、そのように不安定な、客観的事実と遠縁な、反復可能ではない一回きりの無価値な知識であろう俳句鑑賞の拙稿なのだが、少しでも多くの方々が俳句に興味をもつのであれば、それは私の幸せである。

 以上、私が感想文を書く理由である。本稿もまた、この時の一回きりの私の感想である。

*以下、冒頭の引用句の意味解釈をご参考程度にお読みくだされば幸いである。

 堂崩れ麦秋の天藍たゞよふ 水原秋桜子

 堂とは、原爆で崩壊した長崎の浦上天主堂と考えられている。短詩型文学には前書きが多々あり、本句もキリシタン文化に触れる旅の連作のひとつであるそうだ。麦秋(ばくしゅう)は初夏の季語で、麦の穂が成熟する様である。崩壊した浦上天主堂の背景には、麦秋の天がひろがり、その藍(あい)色が漂っている。俳人の樫本由貴氏は、藍に原爆被害者の悲愁を表していると考察されている。


 芥子咲けばまぬがれがたく病みにけり 松本たかし

 芥子が咲く事実と、病気から逃れられない体験に”科学的”因果関係はない。強引に結びつけようとすれば、芥子はモルヒネ等、麻薬の原料にもなる点や、その花弁の美しも病的な風合いにある。他にもあるかもしれないが、それらの”感覚”が、多くの読者に得られるのであれば、本句は名句として成立するのだろう。ちなみに、作者の松本氏は、能楽の家に生まれながら病気により、その道を諦めざるを得なかった人であるそうだ。


 芋の露連山影を正しうす 飯田蛇笏

 里いもの大きな葉の上に水が溜まり、露の玉のごとく光っている。その後方に壮大な山々が連なっている。露の玉は、山々の真の姿をうつしているようだ。
 私は里いもと書いたが、句には”芋”とだけあるので、サツマイモでもじゃがいもでもいいと思う。ただ、蛇笏の時代や詠まれた場所、当時の山梨の畑作状況から、里いもと考えるのが妥当という程度である。その話を聴いて、なるほど、と思うことも俳句を楽しむうえで大事だが、知識なしに感性のみでどう感じたか、を詩に対する誠実な態度として大切にしたい。

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